赤いネクタイを首に巻いている姿は、まるでスバメのようだった。
帽子やコートはあのつややかな黒い羽を思わせたし、ふっくらとしたスバメの白い胸はシャツ越しにも暖かいあのノボリの胸の中にとても似ていた。
そしていつもの青色のネクタイを外してたまに違うものを首に巻けば、喉を彩るその赤い色はまさしくスバメのようだった。
うんと気分の良いときに特別につけるその赤いネクタイが、クダリはとても好きだった。
今日の兄さんはスバメ、すばやくて根性がある頼もしいクダリのパートナー。もちろん、6V!
クダリは勝手なことを思いながら、そんな日は朝から楽しくてしょうがなかった。
ステーションを駆けるノボリのコートが忙しなくはたはたと揺れるのを見かければこうそくいどうだね、と頷いていたし、クダリがサボっているのを大きな声で咎められれば、ぼくのこうげきが下がっちゃった等と言ってツンと拗ねた。
ようやく取れた休み時間にほっと一息吐いたノボリには、わざわざ外へ出て買ってきたミックスオレを渡して、お疲れ様とにっこり笑う。
怪訝な顔をしながらもそれを飲み干すと、元気になった?なんてクダリが聞いてくるものだから、ノボリは何かあるなと思って一言言おうと口を開いた。
けれどクダリの顔は期待に満ちてきらきらと眩しかったので、素直に答えることにした。
クダリは嬉しそうにして微笑む。
いつもいつも、本当にありがとう。頑張った手持ちたちにするように、ちゅ、とノボリの頬にもキスを落とせば兄はぼうと顔を燃やして驚いていた。
顔まで赤いと、本当にスバメみたいだ。クダリは目の前の人がとても愛おしくなって、もう一本自分の分だったミックスオレもノボリにあげてしまった。
皺一つ無い漆黒のつばさを広げて、凛と仕事をこなす赤いネクタイの大きなスバメがクダリはとても好きだった。
今日もぴったりノボリの側を離れずにいたのは、これが自分のパートナーなのだと思うととても誇らしい気持ちになったからだ。
クダリのお兄ちゃん、かっこいいね。小さな子どもにまで褒められて、クダリは昼間中ご機嫌だった。
赤いネクタイをしたクダリのスバメ。クダリはもう世界中に自慢してまわりたかった。大好きなのだ。
でも本当は少しだけ、ほんの少しだけクダリにはそんなノボリに不満があった。
それは誰にも言ったことがない、クダリだけの秘密だった。

ひとつふたつ、頭の先で街頭がぴかぴか瞬いている。
クダリはその静かな瞬きをノボリの背中の上から眺めていた。かつこつと、誰もいない夜道に一人だけの足音が響いた。
クダリは今、黒いつばさの上に乗っている。ふわふわ、ふわふわ、揺れる景色に酔っていく。まるで空を飛んでいるみたいだなと思った。
なんだか少し恐くなって、クダリはぎゅうと首に絡める腕を強める。どうしてだろうか、下へ落ちてしまいそうな気になった。
暗くて深いその羽の下へひとりきり、真っ逆さまに落ちてしまったらどうしよう。自分には羽なんてないのに。
そう考えているうちに、またずるずるとクダリの身体はずり落ちてきてしまった。
焦ったクダリはもっと腕に力を込めたかったけれど、でもノボリが苦しくなったらと思うとそれはできなかった。
ぐるぐる悩んでいると、よいしょ、なんてらしくない言葉が下から聞こえた。クダリは元の位置に落ち着いた。
重いのに、そうやってノボリは何度も何度も背負いなおしてくれながら、近くもない帰り道をずっとクダリを背中に乗せて運んでいた。
本当は沢山食べるクダリより細い身体をしているくせに。きっと重いのを我慢しながらおぶってくれているのだ。
優しくって、頑張りやな、クダリの大好きなスバメさん。どうして自分なんかをその背に乗せてくれるのか、クダリにはとてもわからなかった。
じくじく痛む左足を持て余しながら、クダリはくすんとちょっとだけ泣いた。

クダリが足を挫いたのは、もうすぐに勝負が決まるというときだった。
胸はどきどき、頭は熱くて足ががくがく震えるくらい楽しくってしょうがないってときだ。
クダリはつい足元を疎かにして、さっき転がした岩の破片に派手につまづいてしまったのだ。
主を心配したアーケオスは一瞬の不意をつかれてしまった。
飛べなくなったアーケオスの側に寄り添いながら、たったひとりになったノボリが負けていくのをクダリはじっと見ているしかなかった。
赤いネクタイをしたクダリの大好きな相方が、悔しそうに唇を噛んでいる。責められたってなんにも言えないクダリに、ただ唇を引き結んで立っていた。
いっそ怒ってくれたら良かったのに、ノボリはそのまま立てないでいたクダリに手を伸ばし、足を気遣いながらステーションへ運んでくれた。
少しの欠点も見つからないっていうのは、クダリにとってはほんの少しだけ、罪みたいに思えた。
良いって言うのに、タクシーを呼んだらすぐなのに、クダリは暖かい漆黒の背中に乗せられて、もうこんな所まで来てしまっていた。
なぜこんなにも、ノボリの側にいると自分が酷く情けなく思えるのだろう。
側にいるってそれだけで、歩くことさえ、考えることさえできなくなってしまいそうだった。
甘えているのだ。彼の強さと優しさに守られている、自分はただの小さな小さな子どもだった。
すん、と気取られないよう密やかに、クダリはその黒いつばさの上に雨粒を落とした。
暖かなこのつばさの上から、いっそのこと飛び降りてしまいたい。
甘いだけの重たい砂糖菓子みたいな自分を捨て去ってくれたら、どんなにかこのひとは自由になるだろう。
きっとノボリの綺麗な黒い羽は、もっと高い所を颯爽と飛んでいくためにあるはずなのだ。
だってスバメって、そういう生き物でしょう。すばやく空を舞うあの鳥は、重いものなんて持つようには本来できてはいないのだ。
思うと後から後から涙は続いて、クダリはすっかり悲しい気持ちになってしまった。ノボリの前なのに、どうしよう。
耳元からすすり泣くような声が聞こえているのに、やっぱりこの兄が気づかないわけがなく、すぐに心配するような声が聞こえてきてしまった。
クダリは恥ずかしかった。それからとても情けなかった。
もう迷惑はかけたくないって思ったばかりなのに、全然その通りにできていないのだから、クダリの悲しさは増すばかりだった。
ごまかすように笑って見せたけれど、泣き声を聞かれた後ではなんの説得にもならなくて、詰め寄られたクダリはついに抱えていた秘密を話すしかないのだった。

「あのね。どうか、笑わないで聞いてね。あのね、あのね…」


クダリは赤いネクタイをしていたノボリを、あの黒い鳥のようだねといつか話していた。
それを聞いたノボリは、言わなかったけれど、それならクダリは空高い所にいる星のようだと思っていた。
うんと遠いところに瞬いていて、どんなことをしたって手にすることができないような、そんな別世界のようなものに思えた。
クダリが言うようにたとえ自分が空を飛ぶことができたとしても、きっとそれには触ることすら叶わない。そう思えた。
ノボリがクダリのことをもしも可愛い弟と思っているだけだったなら、そんなふうには考えなかっただろう。
そうだノボリは、恋をしているのだった。それも可愛い可愛い双子の弟に、世界中の誰よりもしてはならないひとに、恋をしてしまったのだ。

「ぼくね、あのねノボリ。ぼく、ノボリなんて嫌いって思っちゃうときがあるの。だって、ノボリなんでもできる。ぼく、なんにもできない。そんなの、そんなのって、ぼくなんてまるでいらないみたいだ」

「いやだ、恐いよ、そんなのぼくぜったいいや…でも、でも重たいのももうやだ、ねぇぼく、どうしたらいいの…」

ぽつぽつと降り始めの雨のように漏らした言葉がノボリの胸に染み込んでいく。
甘く優しく、慈しむように側にいたのがいけなかったのかもしれないと、その時ノボリは思った。
叶わないのならばと、せめて許される限りの愛情を込めて可愛がってきた弟は、どうやらその半端な愛に飲まれて苦しんでいるようだった。
なにも求めず、溢れるがまま注いできた自分の愛情が、今クダリの中で毒のように彼を蝕んでいる。
ただただクダリの望むままにあるだけの自分は、クダリの自尊心をちくちくと傷つけていたのかもしれない。
煮え切らないぐらぐらとした気持ちのまま、ノボリはクダリを甘やかすべきではなかったのだ。
本当にはクダリの手持ちのようには振舞えないのに、そのような真似事をして、クダリを可愛がるべきではなかった。
彼の抱えている熟して腐り堕ちそうな恋心を捨て去らない限りは、決して兄にもスバメにもなれないのだから。

「…クダリ、どうかそんなに泣かないで。自分をいらないだなんて、そんな悲しいこと、わたくしの前では言わないでくださいまし」

クダリは今もノボリの黒い羽の上でしくしくと泣き止まないでいる。
宥めるように肩を揺らしてやるけれど、それでもノボリの耳元から嗚咽が途切れることはなかった。
ノボリはいよいよこころを決めた。それはノボリにとって、恐ろしい決断だった。
もしもこの試みが失敗して、なにもかも失ってしまったらどうしようと思う。
クダリの兄やスバメの真似事さえも許されなくなってしまったら、自分はきっとどうかしてしまうに違いない。
楽しそうに、暖かそうにいつだって笑っているノボリの眩しく愛しいひと。
彼が自分のことをただの優しいお兄ちゃんだとしか思っていないことくらい、賢いノボリにはわかっていた。
だからこんなにも遠い。ノボリは酷くもどかしい。
でもノボリには今、どうしてだかクダリがもうほんの近く、手の届く所へいるような気持ちになっていた。
ノボリは自分の背の上で弱り果てている、その確かな重みを噛み締める。
家へ帰ったら、クダリに話さなければならないことがある。それはまた、誰にも言ったことのない、ノボリだけの秘密だった。

夜闇を映しこんだようなつややかなコートの上を、きらきらと瞬く涙が落ちていった。
どうか、どうかこの遠いひとが自分の側まで降りてきてくれますように。
ノボリもクダリも、気がつかなかったけれど、二人しておんなじことを願っていた。



10.20/夢語

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