ふわりと浮かぶ幸せ

エルヴィンが目を覚ました時、予定していた起床時刻はとうに過ぎていた。ベッドの下を覗き込めば、無残に転がる目覚まし時計。拾い上げて確認すると、幸いにも壊れた様子は無く、正確な時を刻み続けていた。

大幅な寝坊とはいえ、休日の朝なのだから偶には良いだろう。昨晩は残業で就寝が遅くなったから、こういう時くらい自分を許してやりたかった。今日は朝から仕事を片付ける予定だったが、それは遅い朝食を食べてからでも問題ない。昨晩遅くまで仕事を手伝ってくれていた彼の部下も、今朝は用事があるから手伝いは昼からにさせてほしいと言っていた。眠そうに目を擦りながら自室へ帰って行ったナマエの姿を思い浮かべながら、彼女はちゃんと起きられたのだろうかとエルヴィンは少しだけ心配した。

だらしなく伸びた髭を剃りシャワーを浴びる。いつもの兵団服ではなく私服に着替え、彼はいつもの癖で整髪料を手に取った。しかし今日は休日で、部屋に篭り仕事をするしか予定はない。会うのは気心の知れた部下だけならば、髪をセットする必要はないかと思い整髪料を棚に戻した。

昼前の暖かな日差しが寝室に降り注いでいた。彼は漏れ出るあくびをかみ殺しながら、微睡みから逃れるように寝室を後にした。扉を開けた先には執務室が広がっている。執務机の上には昨晩残した書類――そこまでは良かった。書類からソファの上に視線を移せば、だらしなくその上に寝そべるハンジ。そしてその足元に座るリヴァイ。更にその向かい側にミケが腰を下ろし、まるで自分の部屋かのように三人は寛いでいた。

「お前達…何故朝から俺の部屋に入り浸っている?」
「おそようエルヴィン」
「珍しいな」
「クソでも長引いたか?」

彼の疑問に答えるものはおらず、エルヴィンは溜息を吐く。奇人変人揃いの調査兵団の中でもよりクセの強い彼らに構っていては仕事が始められない。一刻も早くエルヴィンは彼らに出て行ってもらいたかった。

「紅茶を買い足しておいたぞ」

そう言ってリヴァイはティーカップを傾ける。その買い足したという茶葉で淹れたのか、室内には華やかなローズの香りが広がっていた。

「ありがとう。飲んでいるのは殆どお前だがな…」

リヴァイは頻繁にエルヴィンの部屋に紅茶を飲みに来た。茶葉を早いペースで消費するのもそれを買い足すのもいつも彼だった。

「俺は仕事があるんだ。早く出て行ってくれ」
「堅いこと言わないでよー」

ごろごろ。

そんな擬音が当てはまりそうなだらしない格好でソファに寝そべり、ハンジは巨人に関する調査書を読んでいる。自室から持ってきたのだろう。彼女が手に持っている束だけでもかなりの量があるのに、机の上にはその倍以上の紙の束が積まれていた。そんな大量の資料は是非自室で読んでほしいものだとエルヴィンは心から思った。

「仕事っつってもナマエがいねぇだろ」
「匂いはする」
「お。ついに付き合った?」
「昨晩もここで作業をしていたんだ」
「なーんだ、つまんないの」

興味があるのかないのか。ハンジの視線は紙面上の巨人に釘付けだ。ミケとリヴァイはチェスをしているが、盤上を見るにすぐには決着がつきそうにない。

「リヴァイ、ハンジ。そもそもお前達は今日非番じゃないだろう」
「休憩だよ休憩」
「休憩は自分の部屋でしてくれ」
「いやー、気分変えなきゃだから」
「どうせモブリットから逃げてきたんだろう。あまり部下を困らせるな」

書類から顔を上げたハンジは「バレたか」と言って笑った。しかし言葉の割に慌てる素振りはない。「早く戻れ」「もう少しだけ」そんなやり取りを繰り返していればエルヴィンの前にヒラリと報告書が差し出される。

「俺はこいつを提出に来た」
「早いな、いつも助かるよ」
「礼には及ばねぇ」
「さあ用が済んだのなら戻れ」
「勝負の途中だ」
「ミケの部屋に行け」
「断る」

呆れたように溜息を吐き、エルヴィンは執務机に寄りかかる。さてどうやって追い出そうかと思考を巡らせながら、いつもより手強い三人を高い視点から見下ろした。

――団長、愛されてますね。

以前、彼らがいつもこんな調子で部屋を訪ねてくるので困るという話をした時に、ナマエに言われた言葉だ。愛されている。確かにそうなのかもしれない。エルヴィンとて彼らの思惑は分かっている。こうして彼の邪魔をすることで仕事で潰されてばかりの上司の休日を守ろうとしているのだ。全く健気なことだと内心呆れるが、それが分かっている以上無碍にもしづらい。

「一時間以内には帰ってくれよ」

――彼がそう口に出そうとした時だった。

執務室の扉が勢い良く開き、その奥から彼の補佐官が顔を出した。両手に大きな紙袋を下げた彼女は、まるで実家に帰ってきたような気軽さで「ただいま!」と元気良く中へ入ってきた。

「おかえり、ナマエ」
「おかえりじゃないだろう。俺の部屋だ」

彼らを見ていると、エルヴィンは自分が団長であることをたまに忘れそうになる。見るからに機嫌の良いナマエを眺めながら、まあ仕事は午後に少し手を付けられれば良いかとエルヴィンは三人を追い出すことを諦めた。

「ナマエどこ行ってたの?」
「ニファとお買い物です!」

ナマエがニファと頻繁に買い物へ出かけているのはエルヴィンも知っていた。兵団内でもお洒落と評判の二人だ。あまり服装に頓着しない調査兵の中で、いつも彼女達は人目を引いていた。

「これ見てください!」

そう言って彼女が紙袋から取り出したのは、大きなクマがあしらわれた、ふわふわの――。「パジャマか?」気付けば口をついて出ていた。エルヴィンは怪訝な顔で彼女の手元を見つめた。ナマエの瞳がキラリと光り、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにそれを広げて見せる。

「そうなんです! 巷で流行りのモコモコくまちゃんパジャマです!」
「かわいい〜!!」
「そうでしょうそうでしょう!!」

望んだ反応が得られたのか、彼女はエルヴィンからハンジへと目標を移してそれの良さを力説し始めた。調査兵団の中ではどちらかといえば常識人のナマエだが、好きな服のこととなると話は別だ。嬉しそうにそのパジャマを抱き締めて、生地が軽くて柔らかいだとか、クマが本当に可愛いだとか語っている。

「ちょっと触ってみていい?」
「勿論です! これ、ハンジさんの!」
「えっ! くれるの!?」
「はい!」
「嬉しい〜!! ありがとうナマエ!」

ナマエは自分が持っていたものより少し大きめのものをハンジに一着渡して、自分のパジャマに袖を通した。その隣でハンジもシャツの上からそれを着る。

「おお〜! すっごいふわふわ!!」
「でしょう〜!」

きゃあきゃあとはしゃぐ二人は実に幸せそうだ。寝巻きにまでお金をかけて可愛いものを買う、という気持ちはエルヴィンには分からないが、若い女性には何か刺さるものがあるのだろうと彼はその様子を微笑ましく眺めた。

「これ他にも色があって、ほら! こっちの黒いのも可愛い〜!」
「わあ本当だ!!」
「これ、団長のです」
「――――!?」

突然目の前に差し出されたパジャマをエルヴィンは反射的に受け取る。空に浮かぶ雲に手を伸ばせばこんな感触なんじゃないかと思うくらい、その生地は柔らかく軽い。しかし今はそんなことはどうでもよかった。

「おい、ナマエ…どういうことだこれは――」
「こっちが兵長ので!」
「…!」
「こっちがミケさん!」
「…」

全員にパジャマを渡した彼女の顔はそれはもうキラキラと輝いて、反対にリヴァイの目は死んでいる。いつも通りかもしれないが、エルヴィンにはいつものそれより生気がなく見えた。ミケは…と視線を移せば、驚くほど従順にその可愛い、クマの、ふわふわの、若い娘が着るようなパジャマを頭から被り、すぽっと勢い良く顔を出した。

「着るのか」
「柔らかい」
「ミケさん可愛い!!」

興奮した様子でナマエはミケのパジャマをぎゅっと掴んだ。その触り心地を楽しむように指を動かしながら生地を撫でる彼女は嬉しそうに笑っている。

「オイ、エルヴィン…」

苦々しい声に視線を向ければ、「どうにかしやがれ」といった表情のリヴァイが彼を見つめていた。しかしこの状況をどうにかしてほしいのはエルヴィンも同じ。まさかこんな可愛い寝巻きを部下にプレゼントされる日が来るとは夢にも思わない。何故エルヴィンやミケがゆったり着ることの出来るほど大きなサイズがあるのか。需要があるのか。彼はそんな思考に逃げ込んでいた。

「団長と兵長は…、気に入らなかったですか…?」
「! いや…」

気に入るか気に入らないか。エルヴィンにはむしろそんな次元の話ではないように思われた。「似合うと思うか?」「俺が着るのか?」「これは男が着るものか?」尋ねたいことは沢山ある。しかしそれよりも何故彼女が、決して多いとは言えない給料でこれを自分に買ってきたのか、その理由が全く分からなかった。

「なあ、ナマエ…。俺が今年何歳になるか知って――」
「ミケさんは着てくれました」
「そうだな…」

部下に簡単に言い負かされた彼をリヴァイが鋭く睨む。しかしエルヴィンは諦めない。次の一手を既に考えていた。

「こういうのはお前のような可愛い女性が着るものでは――」
「そんなことないです。団長と兵長は絶対可愛い」
「そうか…」

リヴァイの鋭い視線が刺さる。そんなに睨むならお前からも何か言ってくれと言いたい気分だった。

「やっぱり…くまちゃんは駄目ですか…?」

可愛い部下の潤んだ瞳が彼を見上げる。やめてくれ、そんな悲しげな目で見ないでくれと罪悪感から逃れるように視線を逸らしたエルヴィンの視界に、信じられない光景が映り込む。

「リヴァイ…?」

もぞもぞとパジャマに両腕を差し込み、彼の目の前でリヴァイはそれを頭から被った。すぽっと中から顔を出し、跳ねた髪の毛がふわりと頭の上に着地する。悔しそうな、恥ずかしそうな表情で唇を噛み締め、眉間には深い皺が刻まれている。人類最強の兵士の、ふわふわパジャマ姿――――。

「かっ…かわいい!!!!」
「リヴァイって本当部下に甘いよね」
「うるせえクソメガネ…見るんじゃねぇ…」

いつもの悪態に少しも覇気がない。エルヴィンは唯一の味方を失った気持ちでその居心地悪そうに丸まった背中を呆然と見つめた。

「わたしっ、ニファのところ行ってきます!!!」
「オイオイオイオイ、待て待て。どこ行く気だてめぇは」
「この萌えを!! 共有しなくては!!!」
「ふざけんじゃねぇ。これ以上この姿を見た人間を増やすな」

リヴァイはナマエの襟首を掴み引き止めた。二人がお揃いのふわふわパジャマを着ている光景はあまりに現実味がない。もしかしてこれは夢か――。エルヴィンがそんな風に現実逃避をし始めた時、唯一の味方だったはずの男の鋭い視線が彼に突き刺さった。

「オイ…俺は着たぞ、エルヴィン…」

その言葉は死刑宣告のように響いた。ナマエ、ハンジ、ミケの視線も彼に向かう。彼らの腹に居座るクマの、つぶらな瞳までもが自分を見つめているような気がした。

もう逃げられない。こんなことなら最初から躊躇せず着れば良かったとエルヴィンは後悔した。いや、駄目だ。後悔をしては…。後悔は次の決断を鈍らせる…。俺は次もしこんなことがあるならば、絶対に躊躇しないと心に誓おう――。そう一人で固く決意をして、彼は雲のようなふわふわの生地に袖を通した。

「…」
「…」
「…」
「…」
「…」

――沈黙が痛い。全員が彼に視線を向け、口を閉ざしていた。

だから言っただろ、俺には似合わないと。そんな風に内心ナマエを責めながら、彼は視線を床に落とした。居た堪れない。顔を隠したい。今までの人生で感じたことのない程の羞恥に耐える彼に向かって、ナマエがポツリと呟いた。

「エルヴィン団長…、違和感ないです」
「ああ、全く無ぇな」
「育ちの良さが出ちゃってんのかな。娘にお揃いパジャマねだられた貴族のパパって感じ」
「普段着でもいけるぞ」
「いけるわけないだろ…」

エルヴィンは耐え切れず大きな手の下に顔を隠した。

「想像できうる限り最悪の反応だ…」
「何で? 似合ってるよ」
「お揃いパジャマで散歩しましょう!」
「絶対嫌だ…。このことは他言するな、兵士に示しがつかない…」
「ええ? 可愛いのに」
「可愛くない…」

顔を覆い隠したままエルヴィンは深く溜息を吐いた。もう着ない、絶対着ないと繰り返し呟く彼の腹に、ナマエが勢い良く飛び付き逞しい背中に腕を回す。

「もう着てくれないんですか?」

尋ねられた声にそっと手を持ち上げれば楽しげな部下の笑顔。ふわふわの生地に頬擦りをするその姿は着ているパジャマの愛らしさも相まってか、少しも兵士には見えない。ふわりと触り心地の良い生地は僅かな静電気を帯びて、彼女の細い髪を悪戯に吸い寄せた。自分の胸に寄り添うように逆立つナマエの髪を直してやりながら、彼は「着るよ」と諦めたように笑った。その返事に満足そうに笑う彼女の顔を見ていると、不思議とまあいいかと思えるのだった。

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