蔵馬×ぼたん

魔界にはない習慣というものは人間界には勿論山のようにあるのだけれども、バレンタインという行事は殊更近年になって急速に浸透して来たように思う。南野秀一として過ごしてきた月日を考えても年々競争が激しくなって来ているように感じられ、そしてそれは事実に他ならなかった。
年々売られるチョコレートは手頃な値段のものでさえ凝った造りになっていて見ているだけで楽しくなるようなものが増えたし、手作りのキットだって数年前はそこまで数は多くはなかったと記憶しているが、今や店頭に並べられているものをざっと眺めるだけでも相当の数があるのは容易く知れる。尤も蔵馬にはバレンタインのチョコレートを作る予定などないのでわざわざそれらを買いに行くようなことはなかったし、以上の情報は近所のデパートに買い物に行った際に目にしたものというだけだった。
なのでそれをそのまま自宅にやって来ていたぼたんに話したところ、怪訝な視線を向けられるのは些か理不尽に過ぎる、と思う。
ベッドに並んで腰掛けていたのに僅かに距離を空けられた気がするのも納得がいかない。

「随分詳しいんだね」
「別に詳しい訳じゃありませんよ。試しにそこら辺のデパートに入ってみれば良いじゃないですか」
「あたしはてっきり蔵馬が誰かにチョコを作るのかと」
「誰が作るか」

ごく当たり前のように紡がれた一言は蔵馬の機嫌を損ねるのに申し分なかったようで、思わず素が出てしまった蔵馬にぼたんは笑い声を上げる。

「笑い事じゃないですよ」
「ごめんごめん、冗談だよ」
「本気だったら困ります」

至って真剣らしい蔵馬だが、それさえもぼたんにとっては愉快で仕方ないらしく暫く笑い声は止まなかった。それに比例して蔵馬の機嫌は下降していき、漸くぼたんが笑い終えた頃には蔵馬はすっかり無言だった。
流石に不味いと思ったぼたんは話題を変える。

「で、でも蔵馬はモテるんだろ?」
「まぁ、全くそういう事がない訳ではないですけど」

言葉を濁してはいるが眉目秀麗といった言葉がそのまま当て嵌まる蔵馬には好意を寄せる女性も決して少なくはない。そんなことはぼたんも百も承知だった。

「じゃあチョコレート沢山貰うんじゃない?」
「貰いませんよ」
「え?」
「ああ、母からは貰いますけど」

一瞬このマザコンと言いたくなったが寸でのところで飲み込んだ。蔵馬が南野秀一の母、志保利を大事に思っていたからこそぼたんと蔵馬も引き合わされたのだと言える。それを思えば言うべきではないのは明らかだったし、また蔵馬の機嫌を損ねては折角話題を変えた意味が無い。

「何で?」
「貴女がそれを聞きます?」

逆に問い返されてぼたんはその言葉の意味を数秒考え込み、思い当たって目を丸くする。

「…えーと、あたしがいるから?」
「他に何があると思うんですか」
「すみません」
「いいえ」

蔵馬の恋人としては未だそう長い付き合いではなかったものの、それ以外の解など導きようがない。射抜くような瞳に怯んで思わず謝ってしまえば今度は蔵馬が可笑しそうに吹き出した。

「でもあたしチョコレート用意してないよ」
「そんなことだろうと思ってましたから別に構いませんよ」

元々霊界にだってバレンタインの習慣はないのだから、ぼたんが忘れていたとしても不思議ではない。
そもそも人間ではない自分達が生活に支障がないようなレベルの人間界の習慣に従う必要は全くないのだろう。
それでも何だか申し訳なくなってきたぼたんがうなだれると蔵馬は微かに口元を釣り上げる。明らかに何かを企んでいる時の表情だったが、俯いたままのぼたんは気付かない。
顔を上げた時には蔵馬の顔が間近にあって、ぼたんは面食らったように瞬きを繰り返すが、瞳を閉じるより先に重ね合わされた唇に紡ぎかけた言葉すら飲み込まれてしまう。息継ぎに一度離れたそれは数秒後には再び重ねられ、そうして数回の口付けの後漸く解放されたぼたんは蔵馬に抗議の声を上げた。

「ちょっと蔵馬」
「オレはチョコレートの代わりに欲しいものがあるんですけど」

にこやかに微笑まれてしまうとぼたんは絶句する。幾ら疎い自分でもそれが何を意味するかわからない程愚鈍ではないつもりだ。
常であるなら拒否してしまいたいところだったけれど、チョコレートを用意していない負い目がある以上強く出ることは出来ない。
それを見透かしている蔵馬は愉しげにほたんを引き寄せ腕の中に閉じ込めてしまう。

「…三倍返し」
「こちらで?」
「違うから!」
「良いですよ」

せめてもの抵抗に呟いてはみたが、状況が状況だけに判断を誤ったかも知れない。蔵馬が本当に理解してくれているのか定かではなかったが、ぼたんにはそれを確かめるような余裕はもう残されていなかった。

「愛してます」
「あたしも、愛してるよ」

けれど耳元で囁かれた一言は矢張り嬉しさ以外の何物の感情もなかったので、ぼたんは潔く諦めて蔵馬を受け入れる事にする。そっと抱き締め返して小さな声で同じ言葉を返すと、蔵馬からも嬉しそうな笑みを向けられたのでそれで良いような気がした。

END

■12/02/15