▼ 紅茶 love story
いつもと変わらない朝だった。
窓ガラスの掃除から始まりスムージーの準備、店先にエサをねだりにくる猫にこっそりツナ缶をあげモーニングメニューの看板を外に出す。まだ蝉も鳴かない静かな朝は通勤ラッシュの波で途端に色を変えた。照り付ける日差しはじりじりと暑く、アイスティーやスムージーの注文が8割りを閉める中、ホットの紅茶を注文した男に私は手を止めた。
「ダージリンに変えることはできるか?」
そう言われてすぐに返事ができなかったのは、男の顔にとてつもない既視感を覚えたからだ。思わず足元から頭の先まで見上げる。ブリティッシュスタイルの高級そうなスーツに身を包んだその人は、顎に手を当てたままじっと台に置かれたメニューを見つめていた。伏せられていた目がふいに私の方へと動く。
「どうした…ここはカスタマイズは出来ないのか?」
「え…いえ…そういう訳ではなく…」
明らかに不自然に瞳を動かして答える。
「なら、あと…スコーンにクリームチーズも追加してくれ」
「は、はい…かしこまりました…」
じわりとかいた手汗をこっそりとエプロンで拭うと、慣れた手つきでレジを打ち込んでいく。必死に平常心を保とうとしていたが私の頭の中はパニック寸前だった。都心にひっそりと構えた紅茶専門のカフェ。芸能人もたまに訪れることがあるが、これは今までで一番のサプライズだ。ずっとずっと昔から憧れだった人。現世に生まれ変わってもなお、何度か夢にまで見た人。
ああ、この人は絶対に…
「リヴァイ兵長だ…」
「あ…?」
あまりに興奮していたせいか頭の中で思っていたことを口に出してしまっていた。ちょうど財布からお金を出そうとしていたその人は怪訝な顔つきで私を睨みつけた。
「おい、今なんて言った…」
「い、いえ…別になにも…」
「嘘をつくな…今、確かに俺の名前を呼んだな…」
気持ち悪い奴め…と、そんな心の声が聞こえてきそうなくらい鋭い眼差しを向けられ、ごくりと生唾を飲み込む。ドキドキと心臓が波打つ中、カウンター越しに睨まれて身動き一つとれなくなってしまった。なんと言い逃れしようか頭の中はフル回転していたがまったくいい案は浮かんでこない。
「あ、あの…これには深い訳がありまして…」
血の気が引いていくのが自分でも分かった。わずかに震えながらそう答えれば、小さく息を吐いた男は、財布を懐に戻しながら口を開いた。
「19時に向かいの公園だ」
「え…」
「必ず来い…いいな?」
それだけ言い残すと踵を返して出口へと向かう。
「あ、あの…紅茶は…」
咄嗟に背中に向かって叫んだが、男は振り返ることはなかった。
――――――
テイクアウトの紅茶とスコーンが入った紙袋を抱えて時計を確認する。約束の時間よりも15分早く公園に着いた私はそわそわと辺りを見回していた。
リヴァイ兵長の名前を知っていたことを、どう説明すべきかまだ迷っていた。あの人が兵長だとして、自分と同じように過去の記憶があるのか。記憶があったとしても私のことなんて知らないだろうけど…記憶があるかないかでは説明の仕方が変わってくる。
まずはそれを確かめないと…
腕時計をちらりと見ればすでに約束の時間から30分が経過していた。考えてみたら、初対面の人間にあんな風に突然名前を呼ばれたのだ。気持ち悪がられて来てくれるとは限らない。
兵長は昔からみんなの憧れだった。人類最強と詠われたまさに人類の希望。それに比べて自分はどうだろう。なんの取り柄もない一介の兵士。現代風に言えばただのモブキャラだ。
…帰ろう。
腕時計の針が一周したのを確認すると肩を下ろして歩き出す。兵長は濃緑のマントも似合ってたけどスーツも似合ってたな…なんて、今朝見た姿を思い返しながら最寄りの駅に向かって歩く。
交差点の赤信号が青に変わって一歩踏み出そうとしたところで、急に腕を掴まれた。その強い力の反動で振り返ると、朝よりも怖い顔があった。
あ、やばい…
咄嗟に紙袋を両手で抱えたまま頭を下げる。
「ご、ごめんなさい…もう今日は来ないこと思って私…」
「すまない…」
「え…」
「急な会議が入って遅くなった…待たせたな」
その言葉に驚いて顔をあげれば、ほんの少し汗ばんだ額に息を切らせてネクタイを緩める姿。まさかここまで走ってきたのだろうか。以前のクールな兵長からは想像もつかないその姿を唖然と見つめていれば、兵長はちらりと私に視線を向けた。
「こんな時間だ…とりあえず飯でも行くか」
「めし…?」
てっきりすぐに問いつめられると思っていたが、兵長は怒っているどころかまるで私をデートに誘うみたいにそう言った。
「遅くなった詫びだ…何でも好きなものを言え」
「は、はぁ…」
そう言われてもこの展開についていくのが精一杯で、食べたいものなど浮かんでこない。いつまでも黙っていれば、結局兵長行きつけの店に行くことになった。
こじんまりとした落ち着いた雰囲気の店はあたたかな間接照明が店内を照らしていて、兵長が好きそうな店だなと思った。個室に通され向かい合って座る。適当に頼んだ料理がいくつか運ばれてくると他愛のない話しをしていた兵長が急に顔つきを真剣なものに変えた。
「…で、ナマエと言ったか。お前、どうして俺の名前を知っていた?理由を聞かせろ」
今日一日ずっと考えていた。実は名刺がちらっと見えたんです…だとか、昔から顔を見たら名前がなんとなく分かるんです…とか、色々と言ってみたが案の定それは一蹴された。
「…お前、俺のことを兵長だとか言ってたな」
「は、はい…」
「それは白と黒の重ね翼と何か関係あるのか…」
「へ、兵長…まさか、記憶あるんですか!?」
あまりの衝撃に腰を浮かした私は、そのままテーブル越しに兵長に掴み掛かった。その剣幕に驚いたように目を瞬かせたリヴァイに気付くと、すぐにハッとして席に戻る。
「す、すみません…」
「いや、全てを覚えているわけじゃない…何度かひどく生々しい夢を見た。それだけだ…」
「そう、ですか…」
『覚えてない』と言う、兵長はなんだか寂しげに見えた。生まれた時から過去の記憶があった私は、それは誰しもが当たり前にあるものだと思っていた。そうじゃないと気付いたのは思春期にさしかかった頃で、受け入れるのに時間がかかったが今では過去は過去として自分の中で割り切って生活している。
でも、兵長はそうじゃない…
そう思うと全部、正直に話すことにした。兵団のことも、巨人のことも、壁に囲われたあの世界のことも。もしかしたらとんだ妄想癖だと引かれるかもしれないと思ったが、話した過去の内容は兵長が見ていた夢と近かったようでなんの抵抗もなく信じてくれた。
「…それで、俺とお前はどういう関係だった…?」
「え?」
いくつか質問の受け答えをしていれば、突然そんなことを聞かれて首を傾げる。関係もなにも私たちは言葉を交わしたことさない。
だけど…
せっかくこうしてこの時代で出会えた。出来ることならまた会いたい。そんな風に思うのはずるいだろうか。
「あの…」
「なんだ、はやく言え…」
じっと見つめられると苦しいほどに胸が痛む。ダメだダメだと分かっていても、どうしてもこの人の側にいる理由が欲しい。
「わ、わたしたちは…」
震える手をぎゅっと握りしめる。
「こ、恋仲…でした」
つい、出来心だった。私がついた人生最大の嘘。こんな虚しいことをしたってすぐにバレるし、きっと意味もない。
そう思っていたのに…
何故かそこからは早かった。その日のうちに電話番号を交換した私たちは、数ヶ月後には付き合うことになり、何度目かのクリスマスを迎え、気付けば生涯の伴侶となる契りを交わした。
私は、大きな秘密を抱えたままリヴァイの妻になった。
――――――
爆弾を抱えたままの結婚生活。嘘をついてる分、完璧な妻になろうと必死だったが、残念なことに私は家事が苦手だった。唯一得意なことといえば紅茶を淹れることくらいで。それでもリヴァイは「気にするな」とテキパキと家事をこなし、私の淹れた紅茶を美味しそうに飲んでくれた。
幸せな毎日。
それと同時に広がっていく罪悪感。
「遠い昔に私たちは愛し合っていました」
そんな偽りを言ってしまったばかりに責任感の強いリヴァイは今でも義理堅く側にいてくれるのかもしれない。そう思えば思うほど、本当のことが言えないでいた。
そんなある日のことだった。
珍しく忘れ物をしたリヴァイから書類を会社まで届けてほしいと連絡があり久々に都心まで出る。
リヴァイが勤める会社は私が働いていたカフェから歩いて5分ほどの場所にあった。付き合っていた頃、何度かこの会社の前で待ち合わせしたな…なんて懐かしむように自動ドアをくぐればロビーに立つリヴァイの背中が目に入った。スマートフォン片手に忙しそうな姿に、片手をあげて駆け寄ろとしたが、すぐに足を止めた。
リヴァイの隣にいたのは見覚えのある人。
何年も前にも見た光景がフラッシュバックする。
かつて調査兵団にいた頃、リヴァイが班長として編成された特殊部隊。巨人と戦い抜いてきたスペシャリスト達が集められた班の中にその女性もいた。確か名前は…ペトラさん。彼女はその可愛らしい外見からは想像もつかないくらい戦闘力も高い人で、いつも寄り添うように兵長の近くにいた。
羨ましいなと思っていたお似合いの二人。現代でもこうして上司と部下として再会しているのに、もしかしたら私のついた嘘のせいで邪魔してしまったのかもしれない。
じわりと胸に広がる罪悪感と後ろめたさに、持ってきた書類を受付の人に言付けると、そのまま逃げるように立ち去った。
――――――
馬鹿だ、馬鹿だ、大馬鹿だ。家に帰ると寝室に閉じこもり枕に顔を埋めてそんなことばかり繰り返していた。自分のついた嘘のせいでリヴァイの人生を大きく狂わせてしまった。さっきから何度も電話が鳴っていたが、気付かないふりをした。そして泣くだけ泣くと、気を失ったように眠りに落ちた。
ガチャガチャと玄関の開く音で目が覚める。寝ぼけ眼のまま時計を確認すれば、リヴァイがいつも帰ってくる時間より大分早い。すぐに扉の向こうからよく知った声が聞こえてきた。
「どうした…体調でも悪いのか?」
それはひどく心配したような声だった。急いで上半身だけ起き上がると「何でもない」と返事をしたが、思っていた以上に掠れた涙声だった。
「…とりあえずここを開けろ」
「い、いや…」
咄嗟にそう答えればガチャガチャと回していたドアノブの動きが止まった。
「おい…なぜ顔も見せずに帰ったりした…心配するだろうが」
「そ、それは…」
「…いい加減、出てこい。とりあえず顔を見せろ」
それでも黙ったままでいれば、急にバキッと鈍い音が部屋中に響きわたった。何事かと顔を上げればドアを蹴破るリヴァイの姿。まだスーツの上にコートも羽織ったままだった。
「鍵をかけたくらいで俺から逃げれると思ったか…」
「だっ…だからって扉を壊さないでください…」
リヴァイはズカズカと一直線にベッドまで歩み寄ると目の前で腰を下ろした。そして私の頬を撫でると安心したように息を吐く。
「どこも悪くねぇな…」
心配そうに見つめられて、さっきまで固めていた意思が揺らぎそうになる。すぐに離れて首を横にふると涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。
「私…リヴァイさんと離婚します」
消え入るような声でそう呟けば、リヴァイは一瞬驚いたように目を見開いて、すぐに鋭い眼差しに変えた。
「あ…?何言ってんだてめぇ…そんなの俺が許すとでも思ってんのか」
「違うんです。私…リヴァイさんと一緒にいる資格ないんです」
「何、勝手なこと言ってやがる…」
「…嘘をついてました。前の私はリヴァイさんの恋人なんかじゃなくて…言葉も交わしたことないような、遠くから見つめるだけの一般兵だったんです…」
「あぁ、そうだったな…」
言えた。やっと本当のことが言えたと手元のシーツをぎゅっと握りしめていれば、思ってもみない返事に唖然とする。
「え…」
「とっくに記憶は戻ってんだよ…」
「ええっ…な、なんで…」
「過去でどうだったが知らんが、なぜ今と繋がる」
「それは…」
「今の俺はこの俺だ、その俺が好きなのはお前だけだ。それだけだろ…」
「で、でも…兵長にはペトラさんが…」
その名前を出せばリヴァイは一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに合点がいったように「そういうことか…」と呟いた。
「勘違いするな…当時からお前が思ってるような関係じゃねぇよ…」
「だけど…昔からお似合いだったし…」
「なんだ、妬いてんのか…」
「ちがっ…」
「ナマエ、お前の方こそ兵士長だった頃の俺がいいんじゃないのか…」
「いえ、そんなことは…いや、そうなのかな…」
「おい…」
「…たまにはスカーフ巻いてくれますか?」
「チッ…誰が巻くか」
涙もすっかり乾いた顔でふふっと笑えば、急に腕を取られてぎゅっと抱きしめられる。リヴァイの匂いに包まれ安心して目を閉じれば、耳元で低い声がした。
「大体、そんなことで俺がお前を手放すとでも思ったか…?」
「だって…わたし自信ないです。リヴァイさんみたいに家事もできないし、昔だって人類最強に比べたら名もなきただの一般兵ですし…」
拗ねたようにそう言えばリヴァイは腕の力を緩めて私の顔を覗き込んだ。
「俺は…お前が思っているよりずっと前からあの店に通っていた。毎朝、猫にツナ缶をやっていたのも知ってる」
「えっ…なんでそれを…」
「忘れるな…いつまで経ってもお前は鈍感で気付かないようだから言うが、あの店に俺が足繁く通っていたのは、ナマエ…お前がいたからだ」
「………え」
「よく考えてみろ、あんな暑い日にホットの紅茶なんか頼む訳ねぇだろ…そう言えば分かるか…?」
その言葉に一気に頬が赤くなるのが分かった。リヴァイはそんな私を見て小さく笑うとまるでトドメを刺すように言った。
「お前の淹れた紅茶は美味い…誰よりもな」
「だ、だって…それが仕事でしたから…」
「なら、また紅茶を淹れてくれるか?」
「もちろんです」
そう言って笑う顔のナマエの頬をリヴァイは再び撫でる。開いていた窓から一陣の風が吹き抜け、ふいに記憶は巡った。
あれは暖かな昼下がりだった。あの日も部屋から出て行こうとする後ろ姿を見つけ、咄嗟にその腕を掴んだ。
「おい…この紅茶、お前が淹れたのか…?」
「え…はい、そうですけど…お口に合いませんでしたか?」
「いや…また淹れにきてくれ」
「もちろんです」
その時の笑顔が今、目の前の笑顔と重なった。それはリヴァイにだけある、遠い日の記憶。
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