短編 | ナノ


▼ 続・リヴァイ兵長は最強ではない

兵長がその言葉を呟いたのは突然だった。

季節はそろそろ年末を迎えようかという12月の終わり。世の中はクリスマスやら大晦日を前に今年一番の賑わいをみせていたが、そんな喧騒から離れたボロアパートに住む私と兵長は相変わらず慎ましい生活を送っていた。

アパートから歩いて10分程の所にある昔ながらのお風呂屋さんからの帰り道、兵長の背中を追いかけながら私はいつものように小言を並べていた。

「もう、兵長…聞いてますか?」
「……」
「本当にちゃんと湯船に浸かりました?」
「ああ…」
「風邪ひいても知りませんからね」

河川敷を足早に進む背中に口うるさく声をかけるのは、兵長の濡れた髪がすっかり冷えきっていたから。ちゃんと湯船に浸かって体を温めているのか疑いたくなるほど兵長はお風呂からあがるのが早かった。そしてそれは今回だけではない。どんなに頑張って早く出ても、入り口で待つその姿にため息をつくはめになるのだ。

「もう…帰ったらすぐに髪の毛乾かしますからね」
「……」
「今日は逃げないでくださいよ」

せめてこの寒空の下で待つくらいなら先にアパートに戻っててくださいと何度言っても兵長は風呂屋の入り口で待っていた。それが嬉しくも風邪でもひかないかと心配でならなかった。ついに返事さえ返ってこなくなった背中を眉根を寄せて睨みつける。

「兵長、兵長…聞いてますか?私の…はなしを…ぶえくしょんっ!」

盛大に出たくしゃみは静かな河川敷に豪快に響きわたった。ぴたりと足を止めて振り返った兵長は、不機嫌そうな面持ちで自分のマフラーを外すとそれをそのまま私の首に巻き付けていった。

「風邪をひきそうなのはどっちだ」
「う……」

呆れたように言われて返す言葉もなく鼻をすする。ちらりと視線をあげれば兵長もまた私のことをじっと見下ろしていた。しばらく時が止まったようにお互い見つめ合う。

兵長がその言葉を呟いたのは本当に突然だった。

「そろそろ───するか、」

突如として吹き抜けた風に肝心なところが攫われてうまく聞き取れなかった。

「え…?」
「なんだ、聞こえなかったのか」
「は、はい…なんですか…?」

いつもと違う兵長の雰囲気に思わず声は上擦った。じっと私を見据えたままの兵長が再び口を開こうとした瞬間、一人の影が私たちの間に立ち入った。

「よぉ…こんなところで会うなんて奇遇だな」

いつもいつも、
ここぞというタイミングで現れる男。

「ナイル師団長…!」
「だからその師団長ってのはやめろって何度言ったら分かるんだよお前は…」
「すみません…」

悪びれた様子もなく謝罪を述べる。片腕にパチンコの景品らしき紙袋を抱えたナイルは反対側の腕を兵長の肩へと回した。

「最近いい店を見つけたんだが、これから飲みにでも行かないか?」

そう言って強引に兵長を連れて行こうとする男の腕を咄嗟に掴んだ。

「家に帰ったらもう鍋が用意してあるんです…!」

残念でした、と舌を出す。いつも突然現れて兵長を連れて行こうとする男を睨みつければナイルは目を丸くして動きを止めた。

「そうか、なら酒でも買って帰るか…」
「はぁ!?」

思わず素っ頓狂な声をあげる。誘ってもいないのに家に来る気満々な男に今度は私が目を丸くした。その図々しい態度に食って掛かろうとした瞬間、やっぱりそれを制止するように兵長の腕が伸びてきた。

「二人も三人もそう変わらねぇだろ」
「で、でも…」

兵長がそう言うのならと頬を膨らませて引き下がる。歩き出した二人の背中をしぶしぶ追いかけながら、さっき兵長が言いかけた言葉が妙に気になった。

『そろそろ───するか』

確かに兵長はそう言った。

年末だし、大掃除でもするか?いや、このタイミングでそんなことを言うだろうか。そろそろ引っ越しでもするか?いや、あの家を離れる理由がない。いつもの兵長と雰囲気が違ったのが妙に引っかかる。

ぐるぐると一人考え込んでいたせいか、いつの間にかアパートの前まで辿り着いていた。帰り道に立ち寄ろうと思っていたイェーガー商店をすっかり通り過ぎていたことに気付くと慌てて足を止める。

「すみません兵長…先に帰っててもらえますか?」
「どうした…?」
「またネギを買い忘れてしまって…」
「なら俺も…」

そう言って踵を返そうとする兵長に慌てて両手を突き出す。

「いえ、兵長は先に戻って鍋を温め直しておいてください。ちゃんと髪の毛も乾かしといてくださいね」

これ以上、兵長を濡れた髪のまま寒空の下に野ざらしにするわけにはいかなかった。アパートからイェーガー商店まで大した距離でもないのに心配してついてこようとする兵長を遮るように前に出てきたのは意外な男だった。

「なら俺がついていってやるよ」
「え…」
「どうせすぐそこだろ」

その言葉に一瞬眉根を寄せた兵長だったがわずかに息を吐きだすと部屋に向かって歩き出した。それを見届けるとナイル師団長をその場に残したまま足早に歩き出す。

「なんだよ、いつもに増して機嫌が悪いな」
「当たり前です、師団長のせいで兵長が言いかけた言葉が聞き取れなかったんですから」
「なんだよそりゃ…」
「こっちが聞きたいです…」

べーっと舌を出してイェーガー商店の扉を開けると店内は相変わらず閑散としていた。切れかけの電球がカチカチと点滅する下で面倒くさそうに雑誌を広げて店番をしていたエレンは、私たちの姿に気付くと愛想のない声で「いらっしゃいませー」と呟いた。

「で、何を言いかけたんだよあいつは…」
「さぁ…そろそろ、するか…って言われたんですけどまったく心当たりなくて」
「そろそろ、か…確かに気になるな。で、その前はどんな会話をしてたんだ?」
「確か…ああだこうだと私が口うるさく小言を並べていたような…」

野菜コーナーでネギを掴みながら思い返す。兵長の濡れた髪がとにかく心配で、いつも以上に口うるさかったかもしれない、と。

「ああ、そりゃあれだな…そろそろ別々に暮らすかって言おうとしてたんじゃないのか?」
「え…」

瞬間、ネギを持ったまま私の頭は真っ白になった。確かにそれは一番しっくりくる言葉だった。大体、兵長の体調が良くなるまでとあの部屋に転がり込んでからしばらく経つが一度もあの部屋で暮らして良いかと了承を得たことはない。

「お前がいたら女も呼び込めないしな」
「おんな…」

兵長が見知らぬ女性を部屋に呼び込んでいるところを想像してますます青くなる。いやいや、そんなのあり得ないと、首を横に振ってよからぬ妄想を追い払おうとしたが、自然とネギを握りつぶしていた。ナイルは神妙な顔をして続けた。

「なぁ…俺はずっと気になってたんだが、お前等あんな狭い部屋で一緒に暮らしといて本当に何もないのか?」
「あ、当たり前です…そもそも私は押し入れで寝てますから…」
「押し入れだと?」

ナイルはますます顔を顰めて私を見た。

「大体、兵長と同じ部屋で寝るなんてそんな畏れ多いことできません!」

正直に言うと時々ではあるが兵長の背中を見ているだけで抱きつきたくなることがあった。そんな衝動から逃れるためにも押し入れで寝ていたのだが、それだけは口が裂けても言えなかった。

「そりゃ出てってくれってなるわな…」
「ええっ…」

ぐしゃりと握りしめたネギはもはや原型を留めてはいなかった。もしかしたら兵長にもこの不純な気持ちに気付かれていたのかもしれない。嫌な汗が背中を流れる。

「ど、どうしましょう…」
「どうしましょうって言われてもなぁ…お前はそれでいいのかよ?好きなんだろあいつのこと」

咄嗟に否定しようとしたが言葉がうまく出てこなかった。

「私は…兵長の傍にいれたらそれでいいんです。せめて兵長が自分のことを大切にしてくれるようになるまでは…」

そう、あの日決めたのだ。
生まれ変わってもなお自分の為に生きようとしないその人の代わりに私が兵長の為に生きるのだと。

「まぁ、あいつは自分のことは二の次だからな」
「どうしたらもっと自分のことも大切にしてくれるんでしょうか…」

放っておいたら食事さえとらない兵長が、いつかのようにどこかで行き倒れてしまうんじゃないかと心配でならなかった。せめて自分のことをもっと大事にしてくれるまで出ていくわけにはいかない。

「エレンが幸せになれば、あいつも少しは自分のことに目がいくのかもな…」
「エレンが幸せに…」

レジの方に目を向ければ相変わらず面倒くさそうに頬杖ついて店番をするエレンの姿があった。確かに今のエレンは全然幸せそうに見えない。これじゃあいつまで経っても兵長が自分の幸せについて目を向けてくれないじゃないか。

(出て行けと言われる前に何とかしなければ…)

ぐっと両手を握りしめていれば、背後から面倒くさそうな声が響きわたった。

「そんなとこでいつまでも立ち話されたんじゃ営業妨害なんですけどね、お客さん」

振りかえった先に立っていたエレンは私の手元にある潰れたネギに目を留めると分かりやすく顔を歪めた。

「よぉ、エレン…相変わらず小生意気なガキだな。営業妨害って客なんか一人もいないじゃないか」

ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でるナイルに、エレンは心底嫌そうな顔をして私に視線を向けた。



――――――



「なぁ、あのおっさん…何で俺にあんなに馴れ馴れしいんだ」

お会計をするためにレジに移動した私とエレンは店の外で待つナイルに揃って顔を向けた。

「ごめんね…あの人誰にでもああなんだ…」

軽くフォローを入れながらお金を渡すと、怪訝そうな面持ちでお釣りを用意するエレンの横顔をじっと見つめる。言葉は考えるより先に出ていた。

「ねぇ、エレンの幸せって何?」
「なんだよ突然…気持ち悪いな」
「いいから教えてよ」
「あーそりゃ…今度のクリスマスにある合コンでジャンより先に彼女でも見つけることだな」
「彼女かぁ…そういう年頃だもんね…で、好きな子とかいるの?」

単刀直入に聞けばエレンの顔は一瞬にして耳までて赤く染まった。

「なっ…そんなのいるわけねぇだろ」
「私でよかったら協力するから」
「はぁ?!」
「ほ、ほら…こう見えて年上だし…?何か困ったことがあれば…」

いつでも…と続けようとしたが、エレンはそれを遮るように盛大なため息をついた。

「お前なぁ…人のことよりちょっとは自分のこと心配しろよ」
「は…?」
「どうせクリスマスの日も何の予定もないんだろ」
「なっ…なによ」
「特別な日なんだから告白の一つや二つ…」
「う、うるさい…!年下のくせに生意気言わないの!」

生意気なその口を黙らせようと目の前の頬をつねれば、エレンはいててと声をあげて逃げ出した。閑散とした店内を抜け出したエレンの後を追うと、ナイルが驚いたように顔を向けた。近所迷惑も考えずにぎゃあぎゃあと騒ぐ私たちの姿を遠くから見つめる視線にその時は気付きもしなかった。



――――――



そして迎えたクリスマス。結局、兵長が何を言いかけたのか確かめることなくモヤモヤとしたまま迎えた一年で最も大切な日。クリスマスだからじゃない、世界で一番大切な人の誕生日。言えば、何も必要ないと言われるに決まっていたから朝からこっそりケーキを焼いた。兵長の好きな紅茶に合うように甘さ控えめなケーキを。

辺りが暗くなり始めた頃、空からわずかに粉雪が舞い落ちてきた。ホワイトクリスマスですね、なんて他愛ない会話をしながら向かったお風呂屋さんからの帰り道。その日もやっぱり兵長は先に入り口で待っていた。

「あの…リヴァイさん」

河川敷を進む背中に意を決して声をかければ、兵長はいつものように振り返った。

「なんだ…」
「この前、ここで…何か言いかけましたよね?」

唇を噛みしめてそう問いかければ、兵長はしばらく何かを考える素振りを見せた後に、ああ…と静かに口を開いた──それと、同時だった。

「おい、いい加減にしろよ…そんなドタキャンがあるかよ!」

河川敷の下から聞こえてきたのはよくよく知った声。歩道を覗き込めばパーカーの上にダウンジャケットを着込んだエレンがスマホ片手に歩いていた。それもひどく苛ついた様子で。

「エレン…?」

その声にキョロキョロと辺りを見回したエレンは河川敷に私たちの姿を見つけると、スマホを耳に当てたまま一直線に坂を登ってきた。隣に立っていた兵長に軽くお辞儀をしたエレンはそのまま私に詰め寄った。

「なぁ、お前今日どうせ暇だろ?これから二時間くらい付き合ってくれよ」
「え…付き合うって…」
「前に言ってただろ…合コンだよ」
「なっ…なんで私が…」

咄嗟に兵長の背後に隠れたがエレンはすぐに追いかけるように回り込んだ。

「急に彼氏が出来たとかで一人来れなくなったんだ…先輩なんかも来る集まりだから人数足りないのは困るんだ」

顔の前で必死に手を合わせるエレンにこちらも必死に首を横に振る。

「無理だよ…だって今日は…」

背後から兵長を見上げてみても、その表情はうかがえなかった。

「確かこの前、何でも協力するって言ってたよな」

そうだ、確かに言った。エレンが幸せになれば兵長が少しでも自分のことを考えてくれるかもしれないと思ってそう言ったが、今日だけはどうしてもダメなのだ。

だって今日は…

「今日はリヴァイさんの…」
「俺のことなら気にするな…」

突然の低い声に、全身は固まった。

「どうせ帰っても飯食って寝るだけだ…エレンと一緒に行ってやれ…」
「で、でも…」
「あありがとうございます…!助かります!」

いつも兵長のことを昼行灯だとか酷いことばかり言ってるくせに、調子のいいエレンは兵長に頭を下げるとスマホのロックを解除して代わりが見つかったと電話をかけながら歩きだした。

「ほんとに…ほんとにそれが兵長の…リヴァイさんの望みですか?」
「ああ…」

間髪容れずに返ってきた返事に拳を握りしめたまま俯く。そうだ、確かめるまでもなかった。兵長にとっての一番重要なことは、エレンが幸せになることだというのに。

「分かりました…私、エレンと一緒に行ってきます…」

うまく笑えたかは分からなかった。それでも必死に笑顔をつくると、兵長の顔をなるべく視界にいれないよう踵を返してエレンの後を追った。



――――――



賑やかな店内、目の前でベラベラとよく喋る男の背後に掛かった時計ばかりに目がいった。

兵長はちゃんと髪を乾かしただろうか…また寒いのに窓を開けたりしてないだろうか…冷蔵庫の中のケーキには気付いてくれただろうか…

日付が変わるまで残すところ数時間。

こんなことならもっと早く、
おめでとうって言っておけばよかった…

店内は賑やかなクリスマスソングで溢れ返っているというのにさっきから頭に浮かんでくるのは兵長のことばかり。自然と視界は涙で滲んでいった。

「悪い、俺ちょっと抜けるわ…」

突然立ち上がったエレンは強引に私の腕を掴むと店の外へ向かって歩き出した。振り返ることなく進んでいく背中に慌てて名前を呼んだ。

「ど、どうしたのエレン…」

近くの公園まで一度も足を止めることなく進んだエレンは申し訳なさそうに振り返った。

「無理に誘って悪かったな…クリスマスだってのに」

その言葉に苦笑を浮かべて首を横に振ると、近くのベンチに腰を下ろした。

「クリスマスなんて本当はどうだっていいの…今日はリヴァイさんの誕生日だから…」
「あ?なんで言わなかったんだよ、そんな大事なこと」
「リヴァイさんにとっては、私と過ごすことが一番じゃないから」

自分で言ってて切なくなった。ふいに溢れそうになる涙を誤摩化すように笑うとエレンは見たこともないくらい顔を顰めた。

「なんだよそれ…お前はそれでいいのかよ?」
「兵長の…リヴァイさんの幸せが私にとって一番大事なことだから」

そう言って自嘲気味に笑えばエレンは呆れたように頭を掻いて隣に腰を下ろした。

「あの昼行灯は幸せだな…お前にそれだけ想われてて」
「エレンにだって同じように心配してくれてる人はいるからね」
「あ?なんだよそれ…」
「絶対に、いるから…」

かつて人々の期待を一身に背負って戦っていた少年と人類最強と呼ばれていたその人が戦いの末に何を見て何を感じたのか私は知らない。確かなのは兵長が未だにその時の傷を抱え込んでいること。

せめて残ったままのトゲが消えてなくなるまで傍にいたい。そんな風に思うのは我が侭だろうか。

送っていくというエレンの言葉に首を横に振ると、店に戻るように促した。一人静かな夜道を進みながらも頭に浮かんでくるのは兵長のことばかり。あの日、あの河川敷で兵長の為に生きると決めたくせに、またこんなことで気持ちが揺らいでしまった。

ため息をついて空を見上げればさっきまで粉雪だったはずの雪はいつのまにか本格的に降り出そうとしていた。

アパートが見えてきても部屋に戻る決心がつかないまま、近くの空き地で時間を潰していこうかと迷っていれば、入り口に座る一人の人影を見つけて足を止めた。それは遠くからでも見間違えるはずのないよく知った人で…

「へ、兵長…!?なんでこんな所にいるんですか」

慌てて駆け寄れば兵長は別れたときの同じ格好のまま、その体はすっかり冷えきっていた。

「まさか…ずっとここで待ってたんですか?」

顔を覗き込んでも兵長は視線を合わせようとはしなかった。わずかな沈黙の後、消え入りそうな声が耳に届く。

「お前を行かせてすぐに後悔した…」
「え…」

思ってもみない言葉に全身は固まった。

「冷蔵庫にケーキを見つけた…あれは俺の為に作ったものなんだろ」
「だからってこんな寒い中ずっと外で待ってたんですか!?」
「悪かったな…」

一瞬、夢じゃないかと思った。それくらい衝撃を受けたその言葉に自然と涙が溢れだす。

「泣くな…」

眉根を寄せて立ち上がった兵長は私の頬に向かって手を伸ばしたが、それから遠ざかるように後ずさる。

「どうして兵長は…いつも私を泣かせるんですか…」
「そういうお前はどうしてすぐに泣くんだ」
「分かりません…でも兵長を見てるだけでいつも勝手に涙が出てくるんです」

遠くを見つめる眼差しも、その不器用な優しさも、夕焼けに溶けてしまいそうな背中も、全部全部が切なくて胸が苦しくなる。

「兵長だけなんです…兵長だけが私の幸せなんです」
「………」
「だから…」

だからどうか、別々に暮らそうだなんて言わないでください。そう言おうと思ったのに、うまく言葉にならなかった。やっぱり涙は止まらなくて薄らと雪で白くなった地面にボタボタと形を残していく。

「おい…どうやったら治るんだその泣き虫は…」

困ったようにそう言われてグズグズと鼻を啜りながら首を横に振った。

「こ、これは兵長の涙でもあるんです…!」

だから我慢してくださいと、自分でもめちゃくちゃなことを言ってると思ったが止められなかった。唇をきつく噛みしめて俯いていれば、急に冷たい手のひらが私の頬を包み込んだ。

「そうか…ならそれを止めるのは俺の役目だな」

そう言って近付いてきたのは深い灰色の瞳。
最初はその薄い唇が触れるだけだった。

「ッ……!?」

掠めていく冷たい感触に思わず目を細める。それは一分なのか、一秒なのか、時間の感覚をすっかりなくした私には分からなかった。だんだんと貪るように吸い付く口付けに息があがっていくのが分かると慌てて両手を突き出し体を押し返した。

視線をあげれば兵長は何事もなかったかのようにじっと私を見下ろしていた。なかなか泣き止まない私を宥めるためにやったことだと必死に自分に言い聞かせていれば、とんでもない言葉が耳に届いた。

「そろそろ結婚するか、」

今度こそ風に攫われることなく届いたその言葉。

「誰と、誰が、ですか…?」
「俺とお前に決まってんだろ」

てっきり別々に暮らすかと言われるもんだと思っていた私は状況を理解できずに硬直したまま立ち尽くす。

「あの…結婚っていうのは恋人同士がするものであって…」
「ああ、何か問題でもあるか?」
「わ…私たち、そういう関係だったんですか!?」
「当然だ…そういう関係だから一緒に住んでるに決まってんだろ」

さも当たり前のように言い切られ、知らなかった自分の方がおかしかったんじゃないかとさえ思えてくる。いやいやとすぐに首を横に振った。

「ちょ、ちょっと待ってください…!私にそんなつもりは…」
「あ…?ならお前は気のない男にあれこれ尽くすのが趣味なのか」
「いえ…」
「エレンやナイルの奴にも同じ事をするのか」
「しません…兵長だけです…!」

思わずムキになって声を張り上げれば、兵長はわずかに口元を緩めた。

「ならよかった…」

見たこともないその表情に私は瞬きするのを完全に忘れてしまった。二人の間を音もなく落ちていく粉雪がひどくスローモーションに見える。

「それにお前以外の他に誰がいるっていうんだ」
「え…」
「俺だけなんだろ…お前を幸せにできるのは」

兵長はそう呟くとすっかり冷たくなった手で私の頬を優しく撫でた。

「なぁ…ナマエ、どうなんだ?」

耳元で囁かれた声はひどく甘く、胸の奥まで響いた。心臓を鷲掴みにされたような感覚にぼんやりと口を開こうとしたが、落ちてきた口付けによって言葉は奪われた。

その後も兵長は何度も啄むようなキスを繰り返した。まるで返事は必要ないとでも言うように。

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