▼ 子猫をお願い!A
同じペットショップで同じ子猫を気に入ったのは偶然にも同じマンションに住むお隣さんだった。今まで顔を合わせたこともなかったというのに、まったく不思議な縁である。協力して子猫の面倒をみていくうちに二人の距離はだんだん縮まって…なんて展開は天と地がひっくり返ってもあり得ないのだが。
ピンポンピンポンピンポーン
時刻は午前8時。今日も朝からチャイムが鳴り響く。週末になるとリヴァイの部屋を訪れるのはすっかりお決まりになっていた。早く子猫のエレビンに会いたくてとにかくボタンを連打していれば、ダンッと勢いよく扉が開いた。
「てめぇ…喧嘩売ってんのか…」
寝起きだったのか珍しくスウェット姿で扉を開けたリヴァイは不機嫌全開に私を睨みつけた。ただでさえ目付きが悪いというのに、寝起きのリヴァイはその迫力を二割増しにさせていた。それでも廊下の先からトトトと軽やかな足音をたててエレビンが走ってくるのが見えると、素早くリヴァイの脇を通り抜けた。
「エレビーン!!元気だった?」
小さな体を抱き上げるとエレビンは嬉しそうにごろごろと喉を鳴らした。一週間ぶりの再会を噛みしめていれば、リヴァイは呆れたように大きくため息をついてドアを閉めた。
――――――
「あれ…どこか行くの?」
リヴァイの作った朝食を食べた後、猫じゃらしでエレビンと遊んでいれば、食器の片付けを終えたリヴァイがキャリーケースを持って現れた。
「おい、忘れたのか?今日はこいつのワクチン接種の日だろうが…」
「ああ、そっか…もうそんな時期なんだ」
猫に最も多いのが伝染病である。それを予防するためにも生後30日を過ぎるとワクチンを接種しなければならない──と、数週間前にペットショップの店員さんから説明を受けたばかりだった。
「お前も一緒に来るか…?」
「え、私も行っていいの?」
「あぁ、お前がいた方がエレビンも心強いだろうからな…」
その言葉になんだか嬉しいような照れくさいような気持ちになって無言で頷いた。最初こそ子猫をどちらが飼うかで揉めたりもしたが、今ではすっかり私のことを飼い主だと認めてくれているようだった。
――――――
動物病院に着けば、午前中にも関わらず多くのベット連れの人で溢れていた。至る所から犬や猫の鳴き声が聞こえてくる。リヴァイが受付をしている間、ベンチに座ってキャリーケースを覗き込めば、エレビンはぶるぶると震えていた。
初めての外出なのだ、仕方ない。
「大丈夫だよ…すぐに終わるからね…」
受付を終えたリヴァイが戻ってくるとすぐに個室に通された。未だケースの端っこで震えていたエレビンは強引に診療台の上へと引きずり出された。
「だ、大丈夫かな…」
「お前が緊張してどうする…ただの注射だろうが」
そういうリヴァイも心なしか不安げだった。腕を組んだままそわそわ落ち着かないリヴァイを目の端で捉えていれば、眼鏡をかけた獣医が医療用のゴム手袋をつけながら部屋に入ってきた。
「ひょぉおお…こりゃまた随分美人な猫ちゃんだねぇ」
部屋に入るなりテンション高めに叫んだ獣医は瞳を輝かせてエレビンを抱き上げた。そのままスリスリと頬ずりをはじめた獣医に、私とリヴァイは思わず顔を見合わせた。
この獣医、何だか様子がおかしいぞ…と。
「大丈夫だよ…ちょっとチクッとするけどすぐに終わるからねぇ…」
獣医は注射器から液体を押し出しながら、口元に薄ら笑いを浮かべてじりじりとエレビンに近づいた。その姿はなんだか狂気に満ちていて、思わず猫を抱きかかえてこの部屋から逃げ出したい衝動にかられる。それは隣で見ていたリヴァイも同じようだった。
「おい…てめぇ、本当に獣医なんだろうな…」
我慢出来ず口を開いたリヴァイに、獣医はきょとんとした顔で動きを止めた。
「へ…?当たり前だろ…ほら、ちゃんとIDもある」
白衣の胸ポケットからIDカードを取り出した獣医は、私たちの前に差し出した。顔写真付きのIDカードには紛れもなく獣医である証が記されていた。名前のところにはハンジ・ゾエ。ここは確かゾエ動物病院だ。まさかこの風変わりな人が院長だとでも言うのか…
カードを訝しげに見つめていた私はすぐにリヴァイの耳元に顔を寄せた。
「ねぇ…ここの動物病院、本当に大丈夫なの…?」
「どうだかな…紹介された病院だからと安心していたが、こいつはかなり怪しいな…」
コソコソと小声でそんなことを話していれば、すべて筒抜けだったのかハンジは心外だなぁ…と両手を広げてみせた。
「まったく君たちは心配症の夫婦だねぇ…」
やれやれと呟く獣医の言葉にぴしゃりと固まる。小さく咳払いした後、ゆっくりとリヴァイから離れた。
「あの…私たち別に夫婦ってわけじゃ…」
「え…?あぁ、まだカップルなんだ…ごめんごめん」
「いえ、カップルってわけでもないんですけど…」
段々と顔が引き攣っていくのが分かる。いい加減、空気を読んで黙ってくれと思ったが、ハンジはぽんっと手をついて口を開いた。
「なるほど、ワケありってやつか!」
「違うわ…!!」
そうツッコミを入れた瞬間、エレビンの背中にぶすっと注射針が刺された。ぶるぶると小刻みに震えていたエレビンはにゃあああと病院中に響きわたるほど豪快な叫び声をあげた。
――――――
ピンポンピンポンピンポーーーン
再び待ちに待った週末がきた。先週はワクチン接種やら何やらでエレビンと遊ぶことが出来なかったので、今日こそ思う存分戯れるんだと楽しみにリヴァイの部屋を訪れていた。いつものようにチャイムを連打していれば、げっそりとした顔でリヴァイが扉を開けた。
「おい、いい加減にしろ…」
土曜日にも関わらずスーツ姿のリヴァイに驚いて目を丸める。
「あれ、仕事…?」
「いや、そういう訳じゃねぇが…」
急に視線を逸らして口ごもるリヴァイに首を傾げる。いつも週末はラフな格好をしていることが多いリヴァイにしては珍しい姿だった。まぁいいやと玄関で靴を脱ごうとして、綺麗に揃えられたパンプスが目に入った。
「あ…」
「なんだ…?」
「ごめん、お客様がいたんだ…」
出直すね…と、引き返そうすればリビングの方から声が聞こえてきた。
「あっ…私はもう帰るところなので、お気になさらないでください」
そのか細い女性の声にリヴァイへと顔を向ければ、再び視線を逸らされる。まさか彼女でも連れ込んでいるのだろうか。
沸き上がる好奇心から、じゃあお言葉に甘えて…と部屋にあがれば白いスーツを着た女性がソファに座ったまま動けなくなっていた。というのも、女性の膝の上でエレビンがすやすやと気持ち良さそうに眠っていたのだ。
「ごめんなさい…なんだか動かせなくなってしまって」
困ったように笑う女性の隣に腰を下ろすと、エレビンを起こさないようそっと抱き上げ自分の膝へと移動させた。
「ありがとう…」
「いえ…」
甘栗色の髪を耳にかけて立ち上がった女性はソファの脇に置いてあった鞄を持って玄関へと向かった。
「それじゃあ課長、私そろそろ帰りますね」
「あぁ、わざわざ悪かったな…」
「いえ…可愛い子猫と遊べて私も楽しかったですから」
「…そうか」
女性の後を追うようにして玄関へ向かうリヴァイの背中を見じっとつめる。
今の会話で分かったことは二つ。リヴァイが会社では課長であるということと、あの女性の前では随分クールなキャラであるということ。
普段、私たちは自分のことについてあまり話さない。それはいつの間にか暗黙の了解みたいになっていた。だからこんな当たり前のことを知らなくて当然なのだ。
私は子猫を一緒に世話するただの隣人。
それ以外の何者でもないのだから。
膝の上でぐーぐー眠るエレビンに視線を落とす。 なんだか面白くないのはきっとエレビンが他の女性の膝の上で気持ち良さそうに眠っていたからに違いない。この浮気にゃんこめ…と、やんわり頬をつまんでやった。
玄関のドアが閉まる音がすると、すぐに茶封筒を持ったリヴァイが戻ってきた。
「今の彼女…?」
「あ…?そんなんじゃねぇよ…仕事の書類を届けにきただけだ」
「ふーん…」
やっぱりなんだか面白くなくて、私は無意識にリヴァイをじっと見つめていた。
「なんだその目は…」
「別に…ただ、土曜日なのにスーツとか着ちゃってずいぶん張り切ってるなぁと思って」
エレビンの背中を撫でながら出来るだけ平常心を装ってそう言えば、リヴァイは面倒くさそうに舌打ちをした。
「…お前と違って部下の前でだらしねぇ格好をするわけにはいかないからな」
「わっ…私の前でだってちゃんとした格好しなさいよ…!」
「お前…自分の格好を見て言ってんだろうな…」
そう言われて視線を落とせば見慣れた部屋着が目に入った。そうだ、どうせリヴァイの部屋だからと部屋着スッピンのまま、クロックスのサンダルで訪れていたんだった。誤摩化すように咳払いする。
「…そんなことよりお前、今日も飯食っていくだろ?」
「え…そんな図々しいことは…」
両手を突き出し首を横に振ったが、呆れたような視線を向けられるだけだった。
「散々、人の家に押し掛けといて今さら常識ぶったこと言ってんじゃねぇよ…」
まったく仰る通りですと項垂れる。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて…」
小さくそう答えればリヴァイはすぐにキッチンで何か作り始めた。一時間もしないうちにいい香りが部屋中に漂いはじめると、それに反応するかのようにエレビンが膝の上でぐっと伸びをした。
テーブルの上に運ばれてきたのはリヴァイお手製のハヤシライス。エレビンの前には柔らかくしたドライフードが置かれた。
「よし、食うか…」
「いただきます」
見た目も完璧なハヤシライスを口に含めば、さっきまで胸にあったモヤモヤとしたものはあっという間に消えていった。美味しい…と呟けば、当たり前だ…と返される。
「リヴァイはいいお嫁さんになれるね…」
「あ?」
「いえ、何でも無いです…」
じろりと睨まれ、慌ててハヤシライスを口に含む。リヴァイは食事をしながらもさっきの女性が持ってきた資料を片手に見つめていた。その顔はやっぱり知らない顔で…そんな顔をもっと見てみたいと謎に思う自分に気がついて動きを止めた。
「……おい」
「えっ…は、はい…!」
スプーンを口に含んだまま考え込んでいた私は驚いて顔をあげた。
「どうした…さっきから変だぞ…」
「べ、別に…」
しばらく怪訝な顔つきで私を見ていたリヴァイだったが小さく息を吐いて口を開いた。
「お前に頼みがある…」
「頼み?」
「来週から仕事が忙しくなる…その間、エレビンを任せたいんだが…」
「う、うん…それは全然かまわないけど…そんなに忙しくなるんだ?」
「あぁ、しばらくな…」
エレビンに視線を向ければ、エサを食べ終えて満足そうに毛繕いをしていた。大きく欠伸する可愛らしい姿に思わず笑みが漏れる。
「じゃあ来週から私の部屋で預かるね」
「頼む…」
ひょんなことから始まった関係ではあるが、私とリヴァイとエレビンの二人と一匹で過ごす時間は温かくてなんだか幸せで、いつまでもこんな時間が続けば良いだなんて…心のどこかで思うようになっていた。
つづく
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