9月



9月は、世界に隠れていたお兄さん。


「これ、」
「百十円です」

 全く以て変わり者ばかりが集まる職場だと思う。のんびりと早退した次の月。早く帰って向かった先は携帯に刻まれた十一桁。固定電話なんて最早無い。一度鳴る予知すら無く健気にも電話口に出た自らの―敵へ。こう言い放ってみせた。「医療費くらい振り込め」その一言に。慌てふためく彼よりの会いたいの申し出は蹴ってみせて、一人で歩む。先は、緩やかに病院へと。出来たら遠慮したかった窓口へは赴かず、症状を説明すると潜められる眉。示された先は、望まない。―そう。入りたくはない。
 嫌々ながら扉を開けた私へと、ゆらり。彼女は笑う。「やあ亀山さん」それは幸か不幸か学校の非常勤の先生であったのだけれど。帰る時には呼び方が変わっていた。「さようなら、リリーさん」そのふわりと溶ける笑みは。

 気持ち悪いように世界は回っているな、と思う。

 取り敢えず亀山りりの矜持を崩すように口を滑らせるような人では無いことが。安心か。
 目の前にはスーツを身に付けた男性の姿。汗の滴る暑い時分に一休みに寄ったのだろう、冷たい珈琲をドアを潜った直ぐ先で飲み干していった。
 次に並んで居たのは同じようにスーツを身に付けた男性。しかし幾分も幼い顔は、就活中、若しくは新卒で就職といった按配だろうか。好奇心を押し殺して金の精算をしていると、視線が何度かぶつかった。終いにはつり銭を渡す時にも、目が合う。流石に、何かあるのかと心配になって口に出していた。

「あの、何か付いてますか?」
「いえ、その…何だか」

 もしかして、精神科とかカウンセリングとか。行かれてますか?
 おずおずと切り出すにしては随分とはっきり言い切った。長めの髪に野暮ったい眼鏡。分厚いレンズの下、別れた前髪の隙間からゆうるりと彼が笑う。

「お疲れですね」
「どうして」

 いや僕も、ですね。茶色くミミズが這ったような手首を覗かせて苦笑交じりに言う。覚えがあるものですから、と彼は《やどあり》と私に名乗った。しがない就活生です、と言いながら冷たいココアを一品追加でお会計を済ませ、私に差し出す。

「どうぞ」
「どうも、」

 勤務中なんで、とか。そんなことは謀ったように無くなった人気より諦めて、受け入れることにする。少しばかりの協定と話し相手を伴ったテイータイム。時分は赤く、ともすれば夜の蒼の到来を伝え始めている。
 一口煽れば嚥下する冷たい液体。
 同じように目の前でミルクティーを飲んだ彼がジャケットを脱いで小脇に抱え、シャツをまくり上げネクタイを緩める。もう後は、帰るだけなのでと飄々とした返事。

「悩みごとがあって、ですかね。近頃のそういったものは敷居はそんなに高くない」
「まあ、そうですね」

 気軽にほいほい口に出して良い話題ではない。言葉を濁した私に彼は静かに笑う。

「多分、貴女には一回だけで。良いのでは無いでしょうか」
「貴方は専門家ですか」
「いいえ、だけど」

 あんなのは解決には至らないと思っています。静かに述べて溜め息を一つ。彼は続ける、僕を救ったのは馴染みの神様と交番の警察官でした。言葉をゆるりと乗せて、愛しさと懐かしさを噛み締めるように。

「貴女も、カウンセリングなど。大して役には立たない。そうだとは薄々思っているのではないでしょうか」

 ココアが喉に絡み付く。甘さに辟易しながら促されて素直に頷いた。確かに解決への切っ掛けが掴めるとは到底思えない。従って、処方された薬も飲んではいない。胡散臭い笑みも、二度は見たくないと思う。

「結局糸口は自分の中。きっと必要なのは、それが話し合えるようなものであれば。話し合うことでしょうね」
「ふうん」

 面倒になって体を崩して話し掛ける。
 あんたは、話し合えるようなものだったのですか。問えば彼は笑う。
 いいえ、と。切り刻んだ手首は静かに息をして空を睨み付ける。

「何にしたって解決できるのならば生きている内に終わらせた方が良いかなと思いますよ。すみません、話が飛び飛びで」

と続いて脈絡のない言葉を一つ。謝罪まで付けてるけれど反省の色は無し。言葉だけが上っ面を滑っていく。
 それでも悪気はないのだろう。監視カメラを見詰め、くすくすと《やどあり》さんは愛らしく笑った。

「大丈夫ですよ。貴方には、案じて傍に付いていてくれる方がいるんですから」

 彼ならば見過ごすことは無いでしょうとは、怠惰兎を指しているのだろうか。
 少しばかりその物言いにもやつく感情を、堪えようとしてその必要が無いことに気がつく。少しずつ吐き出していく言葉はざらついて気持ちが悪い。

「案じて、って兎のことでしょ。あんなの、どこが、と言ってやりたい」
「そうですか?彼は、よく貴女のことを見ていると思いますよ」
「見ていて、何も。言わないのが、全てあたしのためになると思ってるんだよ。おにーさん、あの兎は」

 とんだ狸だ、と吐き出せば目の前の彼が困ったように笑った。返す言葉に困ったのだろう、意地悪をしたいわけでは無いのだけれど。如何せんタイミングが悪かった。目の前に溜め込んできたものののはけ口が丁度居ることを良いことに、唇が澱みなく動いていく。

「何でもあたし以上に知っていながら誤魔化して何とか逃げようとしている。あいつの狡さを―それは知ったのはつい最近だけれど。困ってこう立ち往生する姿を見ながら未だにあいつは何も言おうとはしない」

 怠惰にも程がある。一体何が、居るのかなんて。身体の中に何があるのか、なんて。
 何かはあるのだろうけれど、明かされない謎は。酷く気持ちが悪くて背が寒気立つ。兎が案じているのは―ずっと見ているのは、あたしじゃないということは既に。顕著に残念ながら分かっていて。

「薄々と分かって居ながらのこの状況は気持ちが悪い。兎はあたしじゃなくて、もっと強い何かを知っていて、その何かに」

 くしゃりと歪んだ双眸。あんな苦しそうな顔を見るのは初めてだった。
 言葉を濁らせて打ち切って、馬鹿じゃないの、と思う。あのひと月の合間彼はどんな顔を見せたのか。

「そう。あたしの知らないものに向けられている、あの馬鹿抱える感情は酷くもどかしい」

 それに返事する術を持たない。知らない。だけど、あの感情の名前は知っている。
 生暖かく人を変えるもの。恐ろしくも悍ましい熱を伴った感情。
 恐らくそれは。

「糞兎」

 恋、というものではないだろうか。
 めっきり目を合わせることが少なくなった。あたしと怠惰兎。業務上さして支障が無いことが救いだろうか。舌打ちを一つ、残りを嚥下して言い放った。ごちそうさま。
 呆然と、一連の激情を受け止めて沈黙の後。ゆうるりと《やどあり》さんが笑う。
 この人、野暮ったく見えて笑うと凄く可愛い。思わず赤面したあたしに彼は言う。

「店員さん。優しいんだね」

 全く。大概のお人好しさに吹き出してしまった。
 どうしたらそんな解釈になるのかと言う前に、自ら。はじめて彼に名乗る。

「あたしは、亀山りりという名前で皆リリーと呼びます。どうぞ一つ宜しく」

 これからも、相談に乗ってもらえませんか。言えば彼は笑顔で言葉を受け取った。
 僕なんかで良かったら、なんて。とんでもなく良い方とお知り合いになれたんじゃないの、と珍しく心が踊り行く先に不安になった正体の分からない、9月の新学期の頃。


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