8月



8月は、白と黒のお兄さん。


 慢性寝不足の趣。うつらうつらとクーラーの効いた店内で舟を漕ぐ。一ヶ月前の少し、これくらいから長い時間奥底に眠っていたような微睡みの感覚。彼の七月−一ヶ月分、覚えていなかった私に奴は、いつも通り言った「やあリリー。どうしたの、いきなりはっと目覚めたような顔をしてー」との言葉には絶句した。
 わざとらし過ぎる違和感。こんなにも、奴の動揺が見えたのははじめて、だった。
 全く。油断したなぐうたら兎。
 亀山りりを、嘗めないで頂きたい。
 とは言っても、なんとなしに突っ込めない己の胆の小ささ。終いには好奇心さえも伴って、小さく、下がりぎみに。気分も沈みがちに。
 ただ過ぎゆく夏休みの時間の中で。どうでもいいのかな、と小さく問い掛ける。ねえ、緋つばくろの表現したところの紺色の根っこ―遠くに置いてきた亀山りり。自分のものが自分のものじゃないなんて気にならないの、そう、どうなの。ああそれよりも。
 誤魔化すように頭の芯から襲ってきた眠気は。狡いなあ、と思う。そう、眠たい。

「あら。おねむかしら」
「直球だね伯父貴」

 カウンターで微睡んでいたら以上の声に意識をぐい、と戻された。アイスと飲み物を伴って。真っ白い、ビスクドールが笑う。今日は、日本語が達者で綺麗な、人。
 いらっしゃいませ、渋々と頷いて顔を伏せた。
 知り合いの、親戚のお兄さんと、お兄さん。

「しらはえさん」
「はあい」
「こうたさん」
「や」

 眠いのでどうにも構っている暇がありませんお帰りくださいと、告げるのも面倒で目を再び伏せると白魚のような肌理細やかな手にチョップされた。少しだけ痛かったけれど、目が覚めたので重畳、なんて。皮肉である。まあ悪いのは客の前で寝こけようとした私なので仕方無しに。
 むくり、と起きる。その反応に二人は笑った。氏神白榮と、氏神閤焚。氏神鴇梅という、可愛い大先輩の親戚。よく平日に見える彼らの職業を知らない。ふらりと来て他愛もない話をして、ふらりと帰る彼らはのんびりと今日もやって来たようだ。

「おそよー。店員さん」
「余計な一言です、お兄さん。正解に程近いので、文句を言うつもりはありませんが」
「閤焚、止めなさい。だけどどうしたの?リリーちゃん。そんなに隈作っちゃって、」

 飲み込まれた言葉はきっと、【仕事の鬼なのに珍しい】とかそんなニュアンスだろう。
 綺麗な顔がずずいと近付いた。どうにもこうにもスキンシップが激しい人だと、私は動揺を表面には出さずに白い頭を見つめる。白榮、理由を言うまで逃してはくれなさそうな雰囲気を彼の中に感じ取って溜息を一つ。お姉さんみたいに綺麗な顔をしておきながら、稀に譲らない男気を見せる。
 かっこいいオカマ、と気まぐれに言えば今度は頬を伸ばされた。

 ひりひりと痛む頬を抑えて、尚至近距離で覗きこむ灰色の瞳を押し退ける。いい加減にして頂きたい。
 こういったしつこい手合いには適当に嘘を言ってはぐらかすのが一番なのだが、―残念。二人に嘘は通用しない。観念して、呵呵と笑いながら後ろより流れを見つめる閤焚にも向けて、早口で言う。

「最近、眠りが浅くて、ですね」
「うん」
「それだけです」

 だいぶ、端折った。
 束の間の沈黙。目を丸くした白榮が困ったように微笑む。見透かすような、色。
 その反応に首を傾げた私に閤焚よりの声が飛ぶ。真っ黒、と。
 息を飲んだ。

「黒と、紺色、」
「閤焚、さん」
「うん。リリーちゃん。此処に、」

 此処に、先月辺り性質の悪い《魔》が居たでしょうと彼は言う。目を見開いた私の前で剣呑に目を細め―声は鋭く続いた。怪我でもしたの、と。
 そんなことは全く、無いと六月の彼女を想う。ざんばら頭の魔王様。クロラ・リクス・ナイトレイ。地面が揺れたことを覚えて居る。彼女と直前まで話をしていたことを覚えている。覚えていないのは、

「その、此処一ヶ月分の記憶が」

 無くて、ですね。諦めて言うことにする。無くなったものが気になってしまうのですが大した詮索も出来ずに八方塞がりです見て見ぬ振りが良いのでしょうか。尻すぼみの声に自分でも情けないと溜め息を二つ。
 溜め息で幸せが逃げると言うのなら。当の昔にどん底だと思考する。しかし己れの行動すら留めておけない不幸とは、少し。嫌なもの。

「なあんか、具合も悪そうだね」
「そうね」

 黙って一通り聞いていた二人からそんな会話が届き、瞬いた先に。
 大きな狗が二匹、二人に寄り添うようにして居た。いつの間に、と思う私に閤焚に寄り添っていた桃色の狗が私をじ、と見る。ふわふわもさもさだった。言うまでもなく。
 白榮に擦り灰色の狗はぴくりとも動かない。目も合わせない。さておき、華やかな此方は人懐っこいタイプのようでゆるりと窺うように目を合わせた後に、ほら撫でろと言わんばかりにじゃれついてきた。可愛い。抗えず欲望に従うまま抱き締める。
【まるで、生きているような体温だった】。

「特に、そう。特に、身体的に悪いとこはないな」

 亀山りりの心境を透かしたように彼が言う。閤焚。然らば確信に満ちたその声も、予測できたものだった。
 現れ方といい、色といい。桃色の狗なんてこの平生に居るとは聞いたことがない。居たら話題騒然、溢れかえってそこかしこで取り上げられるはず。
 桜色の愛らしさ。きっと、これは。
 思い付いたものを言ってみる。そっと抱き寄せつつゆったりと。

「いぬがみ、」

と言うのでしたっけ、と窺えば。微かな驚きと一緒に彼は親指を上げた。

「その通り。百々は、狗の中でも珍しいタイプでね。治療を得手とする。うって変わって伯父貴の千歳さんは戦闘特化の一般的な狗。だから、」

 具合悪いのかと思って百々に調べさせた、勝手にごめんと頭を下げた彼を怒る要素は、確かに少しはあるのだろうけど。苦笑混じりに返す、―構いませんと。
 何だって今はとても有難い気分だった。

「お二方はこれからお出かけですか?」

 今更こんな疑問をぶつけてどうするわけもないけれど、感傷を誤魔化すように早口で訊ねる。
 合点したように返る言葉は酷く優しいと思った。

「母さんの墓参りにね」
「義姉さんの墓参りよ」

 墓参り。もうそんな季節かと、思う。特に挨拶に向かう先があるわけでは無いけれど。
 先祖が還る季節。しとどに濡れる悲しみも、懐古に代わる時間として一般的な時期では、ある。

「お墓ね、ここの近くなのよ。だから此処にも行く前に挨拶しとこうと思って」

と、白榮。

「それに暑いから、水分の補充もね」

 奧から追加の飲み物を取ってきて差し出しながら閤焚が言う。
 受け取り、袋に積め―名残惜しく思いながら百々を離した。また、頼めば連れてきてくれるかしら、なんて。
 思惑はつゆ知らず。百々を擦り寄らせたまま商品を受け取り、閤焚が言う。

「君の気がかりへの助けになるか分からないけど。一つだけ。前は少しだけだったリリーちゃんの紺色。滲み出してきてるよ」

 息を飲む。
 助けになったかな、と首をかしげた彼へ唇を噛んで頷いた。そういうことか、ーそういうこと、か!
 献花を担ぐ二人の後ろ姿。《ローソンガール》八月は息を潜めて秘密を花開く。見送ってから急ぎ、踵を返した。

 その日、亀山りりははじめて早退する旨を兎に告げた。


20120816


 


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