7月
7月は、怠けたがりのお兄さん。
鈍痛を抱えて目を覚ます。ゆったりと引いていく身体の浮遊感。目を覚ませば視界はぐしゃぐしゃの趣。物がひっくり返り棚は倒れ電気は欠けてコードがぶら下がる。床にはひび割れ、こうして目を覚ましたことが奇跡だとひしゃげた扉が私に語りかけてきた。―けれど、何が起こったんだか覚えていない。
「、」
声は、掠れて用を為さなかった。唇を引き結んで立ち上がる。かつん、と爪先を叩く黒色のもの。携帯電話か、と私はそれを拾い上げる。誰のものか見覚えは無かったけれど、まあ、誰かのものではあるだろうと茫洋に思いつつ。
見た。世界の混沌。私は、―私は。深呼吸を一つ、唾を飲み込んで喉の通りを良くした。
「誰か、居ますか」
ゆっくりと言葉を噛み締めるようにして声に出す。
見覚えの無い場所だった。どこか、そう。コンビニエンスストアのようなところだなとは思ったが、はて。そんなところに用事なんてあったかしらと首を傾げる。何にせよ動かないままでは事態は変わらない。此処に居ては危険な、気もする。
棚の傾き度合いを図りながら一歩踏み出せば、めきっと嫌な音がした。恐る恐る見遣れば真っ二つに割れた黒縁の眼鏡が一つ。自身の視界のクリア加減を推し量るに、誰かのもの、或いはコンビニの売り物である可能性が高いとふんで心のなかで手を合わせた。
ごめんなさい。不可抗力。
「誰か、」
いませんか、とおにぎりをパッケージの上から踏んづけた。棚を飛び越えてカウンターの目の前へ。踵を返してぐるり、と見るに人影は無い。しかしながら時刻は夕闇の時分。此処で、こう、自分が一人という可能性は著しく低いだろう。
私が、此処の店長とかでは無い限りは。
身に着けて居たエプロンを引っ張る。何だか、そう。店員では有るんだろうけれどおおよそ店長では無いだろうと思考する。そうしたら、他にも矢張り。人は居るだろう。
それではもう一度。息を吸い込む。もう一度だけ、呼びかけてみようか。
「だれ、か」
一切の声も無し。物音一つない店内は閑散している。
それでは外に出て救助を呼んだ方が賢明か、出口に足を向けた刹那。くん、とエプロンの端を引かれた。
「は、」
下から見上げる顔。茶色の長めの前髪から、見開かれた瞳が《私を映す》。どこか見た経験のある雰囲気に首を傾げ、次いで私は脳内で手を打った。該当有り。
「きっと十年ぶりです、ウサギさん。今は何歳で、どんなリリーになっているのか教えて頂けますか?」
私が紡いだ問いに彼はがっくりと肩を落とした―失礼な。挨拶の常套句としてはまま、素敵なものでしょうに。
どうしてその問いを、と訊かれた。そりゃ突然変わってしまったら、周りこそ驚いてしまうだろうからという私の意見を彼はばっさりと切り捨てる。寧ろ、双子とかそういう設定にした方が無難、なんて。誠に不本意ではあるが人格の形成時に出て来なかった私としてはその選択肢もままありだろうと納得して。しかしながら彼には秘密でリリーの振りをした。
来るべき時のために。
ささ、亀山りり。リリーに台頭致しまして、少しの合間お送り致しましょう。兎角唇を結んで闇に臨む。
久しぶりの外はとても煩くて暑い。
亀山りりがリリーに成り切ろうと奮闘しながらあっという間の一ヶ月。初夏まっしぐらの《ローソンガール》の店内。あの日、大損害を被った店も辛うじて、やぶれかぶれではあるが。それなりに、それなりの処置を兎の友人がすぐにしてくれたお陰で何とか運営できていた。身体が覚えていたか、私自身仕事も直ぐにこなせるようにはなったのだし。良好。この世界の流れはとても良好であるといえる。
問題は、家か。立派な借家。月々大家の寛大な対応の元、家賃は破格。だけど一人だけの広い家。そう、まさか。
亀山りりの両親。あの二人が離婚しているとは思わなかった。
「いや、予兆はあったけど。うん。まさかリリーが二十歳になる少し前にズタボロとは。これはリリーに悪い事したなあ」
「…そう思うなら、どうして早々と奥に引っ込んだのー。亀山りり」
「聞いてたか」
油断ならぬ奴め、と時代がかった口調で言えば苦笑された。
《亀山りり》と《リリー》の二人の存在を唯一知っている幼馴染。ぐうたらな亀山りりが家庭の険悪さを読み取って、子供心ながらに衝撃を受けたのを知っていた傍観者。そして私が《リリー》を作って奥に逃げたことを知っている、人間。
避難措置として辛うじて死なない(であろう性格に設定した)リリーを作り、そしてそれが思惑通り上手く生きている現状には満足。流石リリー。話したことは無いけれど。
ところでウサギさん。今では親代わり、と訊ねればそんなものじゃなくて嫌われがちと溜息を一つ。おやまあ、働き口の斡旋等頼っておきながらリリーも意地っ張りな子ですわねと眉根を寄せた。
「あの頃はね。最悪だけど死んだら終わりって、思ってた。亀山りりのままじゃ死んでたのよ」
「だから、リリーを?」
「うん。私は奥底に逃げた。まっくらなとこで、ぐずぐず寝てたら十年経ってたみたい。でも」
その判断で。この身体は死んでないから満足。言えば彼は悲しそうに口をへの字にした。
「人格的に言ったらさ、」
かつん、とサンダルを突っ掛けた音。奥より現れたウサギが頭一個半分私を見下ろして静かに言う。
「君が主人格なんだけどね、亀山りり」
元に戻る気はあるの、と訊ねる声はただ淡々としている。対して言葉に首を振った。
いいえ。
「そんな今更面倒なこと。御免だよ」
私はイレギュラーなままで十分で、恐らくもう二度も出てくることはないと言い切って目を閉じる。直前に彼女が見たであろう真黒き少女。脳に色濃く残る面影はリリー自身が彼女に強い感情を抱いているからだろう。
何があったのかは知らないけれど。詮索しようとも思わないけれど。面倒だし、レールは既に彼女に移ってしまった。生きたいと強く主張する《リリー》。もう一人の私。
「しかし誤算だったわね。命の危険があったら入れ替わり式とは」
「じゃあ地震でもまた起こらない限りは…」
「いや安心してくれて良いよウサギさん。もうすぐ彼女も《起きると思うから》」
奥底で泡が踊る。
掴むように空を切る手。もがく指に意識を引かれた。ああ、そう。目覚めの時間なのね、リリー。じゃあ、代わりましょうか。
ばいばい、と目の前の彼に手を振った。
彼は珍しく、泣きそうな顔をしていた。
「だめだよ、ウサギさん」
柔らかく嗜める。あなたがそんな顔してたらばれちゃうでしょう、言えば苦笑。絞り出したような怠惰の顔に笑顔を向けて、
入れ替わる。
目覚めたら見知った人が居るなんて素敵じゃない、リリー。呟きはきっと《彼女》へは届かない。
20120721