6月
出なくて良いなら出たくない。
世界は眩しくて苦しくて、僕を傷付ける。
《タソガレ商店街》雨も煙る6月の気候は、じとじとと湿気と少しの寒さを連れてくる。変わらない気温を望んで居てもそれは変わらず、部屋の中の僕を苦しめて止まない。
天に唾を吐きたくなる、呟く言葉は何時もの通り、僕は四畳半の部屋から世界を呪って恨んで世間を見下して生きている。今までも、そしてこれからも。
「今日は今日とて――、雨」
開いていた携帯でそう呟くと電源を落として寝転がった。その時の気持ちを呟くコンテンツ、同じ趣味同士で集まる温床、クリック一つで出来る買い物、愚痴れば応えてくれる環境。外の世界よりもずっと、ここの方が優しく便利だと僕は主張したい。
そんな僕に同級生が付けたあだ名は《やどあり》。いつでも、宿から出ない宿にある人物。やどかりと引っ掛けた語呂の良さ、低級レベルの脳味噌が付けたにしては上手いものだと感心したことを今でも覚えている。
尤も。出席日数ぎりぎりで保健室登校を経て、進級している僕にとってはどうでも良い類に入るけれど。
そう、どうでも良い。前髪が長いことを馬鹿にする女共も、オタクであることを馬鹿にする馬鹿共も、憐憫の瞳で見てくる大人たちも。世界は此処だけで、此処を出なければ僕は無事だと――宿在りで居られると身を持って知っているから。
だから他のことはどうでもいい。そう信じているのに、
「やどあり!ワタシだ!ヌシだ開けろ!」
どうして前門の虎後門の狼なんだろう。
俺の部屋にある唯一の窓の外から肥った不細工な斑猫が一つ。びちびちと空を叩く尾は打ち上げられた鯉のようだった。みっともない。
彼(かは分からないが)は《ヌシさん》。俺が住む《タソガレ商店街》という場において一番の厄介者にあたる。下手に人じゃ無いだけ、しつこい。近頃毎日安眠を妨げられる位には。
そして彼が来ているということは、後門の。
「やどありくーん。鈴木っすよー。花さんに頼まれたおからクッキー届けに来やしたー」
新人警察官の鈴木さん。やる気の無さそうな半目に僕の一番嫌いな警察官の制服。《タソガレ商店街》の入り口に座す交番勤務の彼が僕を訪ねて来るのは、四月に入って間もない頃からだった。初対面は《タソガレ商店街》の入り口。始業式の日に判りやすく朝からふらふらしている所を見咎められたのが切っ掛け。前の交番に勤めていた田中さんは優しく声を掛けてくれるだけだったのに、彼は《僕の弱みを握って、堂々僕の世界へと攻め込んでくる》。
花屋の若い女の人、花さんが僕の実家が経営する豆腐屋のおからを仕入れて作るクッキー。初めて食べた時には余りの美味さに感動してねだったものだが、今となっては頭痛の種の一つだ。
「開けてくれないなら食べちゃいますよー」
「は?!僕のだろ!ふざけんなよ穀潰し!」
思わずかっと為って声を上げようとも、扉を開けない僕の言葉の刃なんて奴にとっては屁でもない。ばりっと封を開ける音にさくさくさくと咀嚼する音。遠慮無く封を開けてばりばり扉の向こうで収められるクッキーを思うと、涙が出てきた。
「僕のなのに…」
「ふざけるな鈴木!ワタシの分も入っているに決まっているだろう!」
「ヌシさんが窓に居るのが悪いんすよ。猫なだけにひらりと軽やかに入って見せる、と豪語して屋根まで登るのを結局俺に助けてもらった飼い慣らされた猫に食わせるクッキーは無いっす」
――警察官の癖に酷い言い様だな。少しだけヌシさんを憐れに思って僕は身を起こし窓を開けてやった。
途端、顔をぐしゃぐしゃに歪めた毛の塊が僕の胸板へと飛び込んでくる。ふわりと香る雨の匂いに思わず顔をしかめた。冒頭でも言ったが、僕は湿気が苦手の極みである。近くにあったタオルを引っ付かんで彼を強めに拭いてやると案外気に入られたようで、もっとしろ、とねだられた。
言われずとも湿気を取りきらない内は、僕の世界を歩かせるつもりは無い。びしょ濡れの足跡を誰だって受け入れたくない筈。
「ぅーそこそこ」
「我儘」
ぽそりと言えばヌシさんが笑った。
しかし、ふてぶてしい猫だ。ぶよぶよの身体を拭きながら思う。こんなのが可愛く見える人の気が知れない。扉の向こうからはまだ、さくさくさくと音。虫歯になってしまえと呪をかけておく。
「なぁ、やどあり」
「ん?」
「お前、まだ姉さんが引っ掛かるのか?」
――ヌシさんの言葉に息が詰まるかと思った。
手を止めた僕を鋭く悟って。ワタシに話してみろ、とヌシさんが偉そうに腕の中で言う。
「…そんなことは無いよ」
話したくは無い、そう言外に突き放すとびたん、びたん床を打つ尻尾。
僕の姉さんは、僕が高校一年生の時に職場の屋上から飛び降りた。原因はいじめ。元々オタクの気が有った僕はそれでずるりと二次元に全てを持っていかれた。平等に僕を見詰める画面。可哀想な子と同情しないネットワークの仲間たち。浅はかで、上っ面。削除で離れられる関係が僕は好きで、好きで。
「姉さんの、せいじゃない」
僕が弱かったから。小さく告げるとヌシさんの尾が天を指す。
あの日、アクシデントがあって初めて僕は僕自身の弱さを知った。世界の残酷さを目の当たりにして背が震える。――僕は彼の真っ白な式場から、一歩も動けずに居た。
「ふむ」
鈴木、と鋭い声。鍵を掛けた筈の扉が開く音。まさか、と逃げ出すより先に身体が宙に浮く。足払い、天井を仰いで、蒲団へ不時着。見事なオオウチガリだった。しこたま打った身体が引きこもっていた反動を伴って悲鳴を上げる。ひゅうと息を飲んだ。警察官の目をした鈴木さんが、廊下に避難させて居たおからクッキーの箱を僕の机に置くのが見える。
ああ、まだ有るのか。じゃなくて。
「な、にを」
「……あー。実はですね。俺はずっとヒーローたるものに憧れて居たんです。ばっさばっさと敵を打ち倒すヒーロー。かっこいいじゃないっすか。ねえ?」
ねえ、って。
堂々と侵略を果たした彼が少しだけ真摯に目を細めて僕を見詰める。
「でもそんなのは結局居なくて世界はお先真っ暗。冷たく非情でヒーローなんて居やしない。君はそんな世界で生まれてそんな世界で育った。そして俺も。
――諦めましょう?世界は汚さで充ちているんです。俺はこれからも生き続けるし君も生きる。俺はかっこ良く君を助けることは出来ないけれど、窓を割って或いはドアを蹴破って、卑怯な手を使い抉じ開けて。手を引くことは、出来る」
それしか出来ませんけど、と情けない顔をして僕を見る彼に手を引かれて立ち上がる。廊下の灯りの下少し見ない間に枯れ木のように痩せ細ってしまった僕の四肢。これから人並みに見れるようになれるかな、と呟いたらネクタイを弛めた彼が言った。
「勿論、先ずはおからクッキーでもご一緒に」
煙る雨の六月初旬のこと、僕は二ヶ月ぶりに世界を飛び出した。
(吁、花さんはこんなところに惹かれたのか。悔しいけれど、とても悔しいけれど。彼が格好いいと僕は思ってしまった。
「若い内に外に出ないなんて勿体無い」母さんが言って、おからクッキーを食べる僕の前髪をかき上げる。眩しさに目が眩んだ。
「引きこもるのは歳取ってからが楽しいのよ」と告げた婆ちゃんの手は、豆腐を作るため荒れてひび割れている。今度豆腐作りやってみようかな、そう告げると夜ご飯が赤飯になった。大袈裟な。
一歩、そして確かに一歩ずつ。僕は真っ白な世界を出ていく。)