5月



5月は、頑張り屋の女の子。


 寒暖も、よく繰り返すものだなとのんびり思う。思考が現実逃避気味の《ローソン》での五月、あっという間の四月を乗り越え―さして何事も無くのんびりと過ごした私の携帯電話には暇を貪る馬鹿共よりのメールがひっきりなしに続く。いい加減震えるそれが嫌になって、仕事を言い訳に電源を落としたのが十分前。
 何の不幸か折りたたみ式のそれがぼちゃりと水の中にダイブしたのが五分前。犯人は本日とて怠惰に怠惰を上乗せしたような大した度胸を持つ兎その人。憤りさえ通り越し、兎に角口を噤んだ私に彼は肩を落としてごめんー、と一言。謝罪にもやる気のなさが目立つ。謝っても、謝られても。昨今の携帯電話の高価さを考えれば絶望の、限りで。脱力気味に呆然と首を振って店前に出る亀山りりを誰が慰めることだろう。
 残念ながら魔の月始め、夕方のシフトは変わらず私一人。これで遠藤緑や下関、或いは上田さん辺りが入れば笑い話への転換もまま速かったことだろうに。項垂れながらも業務をこなし、時間だけが刻々と過ぎていく。
 あっという間の閉店三十分前。
 そろそろと伸びをして画面がブラックアウトした女子高生の必需品に想いを馳せた。修理にいくらぐらいかかることやら。いっそ新規契約で安いものを狙うか、なんて思考しながら窓の外を何の気なしに見遣れば不思議なことに、【窓ガラスに張り付く少女がいた】。

「、」

 なんだあれは。
 天気は曇天、その中でも際立つ優しい焦げ茶の色彩。顔半分を覆う包帯、布一枚を纏ったような幼い身体。茶色が、光を点し始めた屋根の下くしゃりと歪む。そして、だらだらと雨が降っている訳でもないのに窓ガラスが濡れていた。涎。涎か。溜め息を盛大に吐いてひらひらと手を振ってみる。
 途端、ぱちくりと瞬く大きい瞳。うわ、睫毛ばっさばさ。呟いて指を入り口へ。
お入んなさい、と声無く言えば彼女は跳ねるようにして自動ドアの前へ。開いた扉に肩を跳ねさせるも、緩やかな私の手招きに恐る恐る入場を果たした。素足がゆらゆら頼りなく床を叩いていく。
 黒い猫がひょっこりと、彼女について入ってきた。―きっと連れだろうと見逃して、物珍しそうに辺りを見回す彼女へ廃棄になる予定のチキンを差し出す。

「ぅ、え?」
「どうぞ。おあがんなさい」
「いいの?お金、」

 お金無いのよ、と辿々しく彼女が言う。随分と透き通る声だと思った。
 こんな小さな子に捨てる予定の食べ物を与えて金をふんだくろうだなんて随分と性根が腐っているじゃあ無いか!心中で悲鳴を上げて自分用に出したものに齧り付く。

「いいのいいの。捨てるんだから」
「そうなの?」
「うん」
「食べて、いいの?」

 いいよ、と畳み掛けるようにして私が言えば彼女は瞳を輝かせて齧り付いた。良い食べっぷり。思わず浮かんだ笑顔で口を付けていない部分を引き千切り、傍らの黒猫に差し出す。銀と緑の瞳。一瞬の逡巡の後に、猫は軽やかにカウンターに飛び乗って上品に肉の切れ端を啄んだ。この子にひっついているにしては随分と育ちの良い猫である、なんて。失礼かなと人の気配が無くなった店の奥に目を遣った。兎。―全く。こんな時間に居なくなるとは大した度胸である。

「これ、美味しいね!」
「そう?」
「うん!こっちの世界の人は、こんな美味しいものをいっつも食べてるのね、」

 少女が纏った布切れがばさばさと落ち着きなく揺れる。大きなシーツを想起させる洋服じみたもの。こんなものを纏う少女が、こんな飽食の時代である日本に存在するとは俄に信じがたいことで。
 気が付けばゆるりと次の肉を差し出して、問いを口に出していた。あんたはどんなところから来たの、と。

「綺麗なところよ」

 でもとても厳しいところなの、と傷だらけの四肢を翻して猫と同じようにカウンターに少女は飛び乗った。

「あたしはドレーで、今はね。幸せを探してクリカエシしてるのよ」
「クリカエシ、って繰り返し?」
「うん。いっつもいっつも失敗に終わっちゃうんだけど、ギデオンがね、助けてくれるのよ。あたし忘れちゃうんだけど、ささっとぴゅーっとね」

 今月の《お客様》は随分と、苦労しているようである。
 はたはたと落ちてきた雨粒の中、二つ目の肉を腹へ収めた少女がにっこりと笑った。

「《獣と神の御名において》あたしは、ただ一つのあたしのためにやっているのよ」

 すとんと心の端に落ちる言葉を神妙に紡いで、彼女は焦げ茶の髪を振り乱す。小動物が戦闘に向かう前に身を一度奮わせるような行動。擦り寄る黒猫が、ギデオンを指すのだと理解するのには少々時間がかかった。
 果ての見えない繰り返し。それは一体、どんな思いで続けているのだろうと緩やかに瞬きを一つ。

「ふうん。何か、随分と。小さいのに頑張り屋さんなんだね」
「小さくなんてないのよー。単にね、我が儘さんなだけよ」
「それでも続けてられるってのは、凄いことだよ」
「それはあたしにとってのただ一つが決まってるからなのよ。死んでも、何度だって頑張れる。だけど。ねえ、」

 肉を頬張っていた時とは打って変わって、静かに唇を拭い、彼女が立ったままの私をひたりと見据え―言う。

「あなたは、何にもなく、ただ。頑張り屋さんなのね」

 見抜いたような言葉に、息を飲んだ。視線を逸らして何と対するべきか刹那迷い。諦める。こんな真っ直ぐな視線、何というか。逃げられない。せめてもの反撃としてデコピンを一発。ぱちんと唄うそれに、彼女が額を抑えて肩を落とした。

「ちょびっと痛いのよ」
「おちびさんに、言われて悔しいから」
「ごめんなさい、」
「いやいや大人気ないのは、あたしだし」

 本当に、亀山りり。反撃できないからといってこの暴挙は何とも大人気ない。苦笑気味に目を伏せれば頭に何かが置かれた感触がした。お疲れ様、と透く声が言う。ありがと、と言えば彼女は忍び笑った。
 少しの間を置いてゆるりと吐き出した息は、空気に解けるように歌へと変わる。

《神よ 世界にただ一つきり
 小鳥のただ端切れが 戸惑い叫ぶ
 ああ 私は
 駒鳥のように惜し繁く 奏でて遊ぶ皮肉の輪廻
 幸せを ただ一つの幸せを
 君よと転ぶ 最果ての物語
 未だ終わらぬ通りなれど 丸く全てが
 平穏であらんことを 獣と
 神の御名において》 

 少女の歌声は切なく遠く灰色の空気を揺るがして浸透していく。この世界へと、彼女の世界とは違って平和と飽くる日々、その日常へと。訴え時に甘く解すように、心侵す夢物語。
 それに比べたら。先までの悩み事やそんなもの、どうでも良くなってきて目を伏せた。私の平静を悟ったようにして、彼女が囁く。

「ただの頑張り屋さんこそ、あたしは凄いと思うのよ。
 だからおねーさん。貴女は、すごい」

 きっとそれは誇ってもいいのよ、とゆったり少女は言ってカウンターを降りた。
 そろそろ行かなきゃあ、と名残惜しげに翻る白い布切れに、少し遅れて黒猫が続く。傍らを離れた太陽のような温もりがふと恋しくなって顔を上げれば、彼女は美しく―花のように微笑んだ。

「おねーさん。《獣と神の御名において》、貴女に幸せがありますように」

 待って、と言えばひたりと細すぎる足が素直に止まる。
 一期一会。月初めに会えた客の中では最も苦労人で、恐らく二度は会えないであろう彼女の名前を、聞いてみたかった。

「あんたの名前は、」
「鶫」

 禁忌を噤みなさい、と神に秘密にした名なのよ。そう言って彼女は裸足で駆け出した。はたはたと雨が降る中をあっという間に白がかき消える。
 繰り返しへと、果てなき永遠へと。飛び込んでいく少女。目指すのは幸せで、それって。
 それって世界の色は違えども歩む道は変わらないということかも、珍しく感傷に浸って首を振りぼやけば。彼女について出て行った筈の黒猫がカウンター越しに私を見上げて、低い位置から口を開いた。ギデオン。真っ黒な、猫。

「亀山りり。君は、繰り返しを無駄だと思うかな?」

 銀と緑の不思議な組み合わせ。哀切を含んだ響きを口端を上げる。あんたも喋るのね、なんて今更な常套句を心に押し込んで。

「そんなの。鶫ちゃんが、満足であれば充分でしょ」

 分かりきったことを聞かないでよ、と笑ってみせれば《彼》は《人間のように笑った》。

「《獣と神の御名において》、君に僕のツグミが会えて良かった。神の采配に、感謝するよ」

 にゃあうと祈るような啼き声。りんごんりんごんと間抜けな来客音。今度こそ消えた月初めのお客様達に、奥よりばたばたと騒がしい足音。珍しく髪を乱した怠惰な店長が営業用のエプロンを身に着けて、私を見詰めていた。
 押し付けられるように、小さな紙袋。本当に、ごめんと低い声が小さく言う。
 中身を悟った私は笑んだ。許してやらないことも無いですよ、その声に閉店を告げる音。
《LOWSON》五月の、煌き。



20120503



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