5月



最低、と彼女が言う。
手を伸ばす術を知らない俺はただ茫然と、諦めきった表情で、翻るスカートを見ていた。




《タソガレ商店街》五月、気温はまさに初夏の趣。空も晴れ渡り絶好のハイキング日和の今日の良き日に、最悪の記憶と共に俺、――ソラオは作業場で目を覚ました。
古本屋、兼、古本の修繕を受け付けるお店。古本を売るだけでなく、時には大切な本を預かり修繕して手元へとまた返す。利用客はほぼ知り合いのため、自由な時間に店を開けられるのがこの商店街の良いところである。支えあうように密やかに息づく長屋造りの建物は、古びた見た目であるものの割かし気に入っていた。
初めて此処を見掛けて一目惚れ。《独り立ちするならば此処が良い》という夢の一歩を踏み出す運びとなったわけで。
くあ、と欠伸を一つ。
立ち上がって頭を掻きながら、修繕完了間近だったものに触れる。

それは《思い出》だった。

古びた学術書。星座を描く小難しいそれを持ってきたのは十に満たない少女。品物に彼女が似つかわしく無い、と首を傾げる俺に彼女は言った。確か、

「『おとーさんが、ゆいいつ、わたしにくれたもの』」

私はお父さんから離れなきゃいけないからこの子だけでも、と少女は大人びた表情で言ったっけ。何回か店先で見掛けたことのある、優しげな父親に手を引かれたその肢体が震える。
――ソラオ兄ちゃん、直して。
そう助けを求められた瞳に報わない理由があるだろうか。否、無い。
然らば無償で。受け渡しは三日後。
必ず、取りに来ると彼女は言った。

「愛されてんなぁ、お前」
 
俺と違って。まあ本とは愛されてしかるべき物だけど。
呟く言葉は先程の夢のせいだと思う、きっと。
そう言い訳して表紙を撫でる。残る過程は傷付いた背表紙に糸を通して布を貼ってやるだけ。終わったら少女に渡してそしてまた、いつものように店のカウンターに座って。本を読む。文字の海に溺れて夢を見る。
本は良い。本は好きだ。何も要求してこないし何も言ってこない。関わりは紙を隔てて。完璧な第三者となれるから、気楽に楽しむことが出来る。
現実世界ではそうはいかない。いつでも当事者だから禍根を残さないように人と付き合わなきゃいけない。優しく。絆すように。
唯一嫌いじゃなかった後輩はその態度を心底嫌っていたようだが、そうでもしなきゃ、ね。

「久し振りねソラオ」
「…………うわ」
「ソラオ!助けろ!」

ナニコレ、何事。そう呟きたくなっちゃう事態が万が一にも起こらないとは限らないわけで、って、起こってるし。
目の前には鋏をヌシさんに突きつけるA子ちゃん(仮)。
確か俺が《ソラオ》としてのキャラクタを確立しきれてない時に関わりが有った子だ。下手くそに、傷付けてフってしまった女の子。
どうしてここが分かったのか、そう俺が訊ねるよりも先に、彼女が言う。

「漸く見付けたわよソラオ!探偵雇った甲斐があったわ」
「……愛されてるね俺」

金かけてまで俺を見付けたかったなんて、愛されているか余程憎まれているかの二択でしかない。ひきつった笑いをもらして思わず呟くと、そうよ、と彼女は言った。
はい?と見詰めた先には綺麗に厚く化粧された顔。吐き気を催すタイプの《女の顔》だった。真っ赤なルージュ。綺麗に彩られた唇が弧を描く。

「私と結婚するか、もしくは死んでちょうだい」
 
ああ神様。これを嘘だと言うのなら。もう少しましな嘘にしてもらえると非常に助かるんですが。
嘆く心中の声も虚しく、押し付けられた枝切り鋏の刃にヌシさんが悲鳴を上げた。


そんなこんなで割愛して。


結論だけ述べれば。俺は自分で自分を拘束する羽目に陥って居ります。
がちゃんと軽やかに鳴る手錠。一つは両足、一つは両手。悪戯用や(夜)戯れる用では無く、本格的な物過ぎて余計に引いたのは秘密。
その間に彼女はヌシさんを引き摺りながら入口まで行って、《休業》の札を掛けると共に鍵まで閉めた。ヒーローへの救援信号は送れない。
そして満足げに戻ってくると高らかにヒールを謳わせて彼女は俺に言う。

「何時間かけてでも頷かせてみせるわよ、ソラオ」

と。
明らかに悪役の台詞、とは突っ込まない。刺激したら割りを食うのはヌシさんだからだ。だから、目一杯愛想笑いをして。
思考回路を働かせる。状況を打破する作戦。打開策。必須条件は二つ、店を破壊せず、ヌシさんに傷を付けさせない。
万が一の場合。店は、片付ければ良いかもしれないけど。ヌシさんはどうにもならない。命というものは、それなりに貴重だと馬鹿なりに俺も知っているからだ。
さてどうする、さあどうする。
悩む内に時間は過ぎていく。短針が角度を変えて進度を速める。

「なあ」
「何よ」

了承の返事以外聞きたくないんだけど、と彼女は視線で語る。
それでも俺には、聞きたいことが一つだけあった。その答えによっては、彼女の要求をのんでも良いとさえ。

「何で俺なの?」

自分でも嫌になるほど馬鹿らしい質問だった。
それでも彼女は有難いことに、良い予兆と受け取ったのか、微笑んで答えてくれる。

「優しいところと顔が良いところ」

笑顔は一級品、中身は最低。ワイドショーで言っていたそんな表現が頭に浮かぶ。評するには下らない言い方だと、笑ったものだけど。馬鹿にならない。
 
「ごめんね」

俺が気を引いている間に、ヌシさんは抜き足差し足で彼女から離れている。先程まだらの斑模様が角を曲がっているのを見た。
謝罪の意に気が付いたのか、真っ赤になった顔色が憤怒へと変わる。振り上げられる凶器。標的は残ってる小癪な俺。鈍い光に危機感を感じるけれど、どちらかといえばヌシさんが逃げたという事実の安堵の方が大きい。

だから。
大丈夫。どうにかなる。

そう思って切っ先を見詰めていると、何故か視界の端に映る真っ白なレース。場にそぐわない色彩。ベージュのカーゴパンツの裾が華麗に舞って、小気味良い音と共に一閃。見事悪役の手首に当たり、不覚にも取り落とした枝切り鋏がすかさず遠くへ蹴飛ばされる。素早い所作、目を瞬かせる俺を尻目に。ヌシさんが歓喜の声を上げ、彼を抱き上げたヒーローが応じる。

「ナイスだコウハイ!」
「どうも。ヌシさん。
そしてそこの方。私はソラオ先輩が大嫌いですが、」

悪いタイミングに遭遇する、そう嘆いていた愛すべき後輩が右目周りに痣を作って顔を腫らし、凛と立っている。

「それ以上に感情のまま暴走する女という生き物に虫酸が走ります。
―――さて」

ご存知ですか、と冷えきった瞳で遅れてきたヒーローが放つ言の葉は。

「《正当防衛》という言葉の意はなんでしょうね」

見事悪役の顔色を真っ青に染め上げてノックアウトした。





(「先に奇襲を食らった」とヒーローは言う。
「しかし気が付くのがまた妙なタイミングで自分の不運を嘆きたくなりますね。ああ別に先輩を救いたかったわけじゃなくタイミングですから」
俺の手錠を外しながら延々と紡ぐ彼女の右目を押さえてやると、擦れた手首に爪を立てられた。これで彼女が嫌いじゃないんだから俺も大概馬鹿な奴だと思う。)



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