岐路



 なあう。彼女の猫らしい啼き声を久方ぶりに耳にして兎は目を瞬かせた。おや、と言えば首にはベルベットのリボン。りりんと細やかに揺れる鈴は錯覚か、青い装飾品に音の鳴る飾りは付いていない。ならば耳鳴りか。愛らしい耳鳴りもあったものだと視線を下に遣る。蓋付きゴミ箱の上―よく守銭奴の彼女が磨く、物の最終地点。色褪せた行き着く場所は彼女の茶の身体にしっとりと馴染む。
「イクさん」
「ええ」
 お久しぶりね、常套句が鼓膜を舐めるように流れていった。ふらりと靡く尻尾がぺたんと蓋を叩く。折り畳まれた小さな耳。可愛くて特殊な猫なのよと自身の身体を生活の糧にしている彼女にしては媚びた様子を通行人に振りまくことが無い。兎は静かに彼女の隣へ移動した。
 大きな変化。兎の記憶が正しければ、兎の想像が正しければ。
 秘密を訊ねるかの如く柔らかな口調を心掛け、そっと壁に寄り掛かった。細く余計な肉が無い、アンバランスな服装の風体。
「ついに、ですか。イクさん」
 その見目より紡がれた確信を突く言葉に彼女は目元を綻ばせる。
「ええ、ついに、よ」
「それは良かった。皆さんに続いて、ですね」
「ええ。本当に」
 こんな日が来るなんて思いもしなかったわ、と彼女は言う。脳裏には彼女の主を浮かべているのだろう、美しい横顔に兎も微笑んだ。
 彼女がこのコンビニの前で、シロタという男と夕餉を共にしていることは知っていた。
 何度も、そう運命のあの日。彼が魚肉ソーセージを片手に、これって彼女好きかと不安げに上田に訊ねていたことも。亀山が、イクさんはそれ大好きですよと口添えして下関が珍しく笑み。それから遠藤緑が、れっつらどん、と調子良く押し出しての結果。素晴らしき連鎖が大切な常連客の幸せを齎した。
 怠惰の名の元に、怠惰の育んだものが成し得たものは中々にお気に召して頂けたようで。戯れに兎が頭を下げればそっぽを向いて姫は言う。―調子乗らないで頂戴。いやはや、ごもっともで。
「シロタさんだっけ、再就職おめでとうとお伝え下さい、イクさん」
「気が向いたらね」
「とか言いながら、ねえ」
 伝えてくれるんでしょう?と彼は煙草を取り出して火を点けた。

「……兎」

 聞き慣れた呼び鈴の叫び声。レジに長蛇の列が刻まれている証。後ろから、そして横からじとりと睨め付けられながらじりじりと焦がれる火種に彼は笑う。

「何せ怠惰な僕からの最後の別れ惜しみですよ」

 神様だってそれくらいは許してくれるでしょうと軽い口振り。その背中に殴打、前から鳩尾へ見事な猫パンチ。加えて亀山りりの怒鳴り声が空高く打ち上げられるまで後五秒。


20120313


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