4月
《おぼこい娘》とよく馬鹿にされる私は、――不相応で苦しい恋をしています。
《タソガレ商店街》。蕾が膨らみ、後少しで綻ぶ暖かな今日の四月という良き日に、私は涙を流してぐずぐずとティッシュの山を築き上げて居ました。
ああ、憎き花粉症。眼鏡をかけてもマスクをしても猛威は変わらず。私を襲う花粉は、元々の不細工さをも崩して私を嘲笑しているのでしょう。本当に、真っ赤な瞳と鼻に嫌気がさして、鏡なんて見たくありません。
なんてね、鏡見ますけど。恋する乙女ですから、と矛盾の言い訳。
因みにこんな私の実家は八百屋を営んでます。でも私には兄が居まして、――それはそれは完璧な兄が居まして。その兄が店を手伝って居るので、非力で役に立たない私は何処へでも行って働けと厄介払いされています。
八百屋では体力と、笑顔が必要不可欠。陰気な私では精々勘定くらいしか役に立てません。当たり前の結果なのでしょうと、鼻をすすって。
そんな訳で私のバイト先は晴れて大好きな古本屋と相まったのです。ちゃんちゃん。
「あー…今日は花粉酷すぎ」
そうそう。恋、です。冒頭の話に戻りましょう。
私、八百屋の娘――八千代(やちよ)、と言いますが。お隣の酒屋の息子さんに不相応な恋心を抱いております。
出会いは十二年前。真っ青な顔をしておばあちゃんのところに入って行った彼に、お茶とたまたま焼いていたお菓子を持っていったのが始まりでした。
美味しい、ときらきらした瞳に。柔らかく解ける表情。
正しく、一目惚れでした。
それから十二年間。ずっと彼に片想いして、でも言い出せなくて。ぐじぐじと、かっこ良く成長する彼をこっそり見ています。
私自身は変わらぬ《芋虫》のままで。
「せんぱーい」
私が働くこのお店は、小さな頃からお世話になっているお兄さんが《本の修繕師》として経営する古本屋です。
要らない本を、皆から受け取ってお兄さんが修繕して、店頭に並べる。その繰り返し。お兄さんは、何というか。ええ、チャラ男です。私の兄とは正反対。
それから、彼は私の恋の相談相手だったりします。
良いお兄さんなんです。これでも。
「何ー?八千代ちゃん」
「もぅ、辛いですずずずー」
お店の奥からひょっこり出てきた彼の足下から、どてどてどてと足音が聞こえてきました。あ、と花粉を吸い込みすぎてぼやける頭で音の正体を理解します。
ヌシさん、だ。
その通り、ぷにぷにした身体がカウンターに伏せた私の目の前にででんと登場しました。
身体中に桃の花弁。春色に染まったヌシさんは一度身震いすると、私の額を叩きます。べちべち。意外に優しい叩き方に私が笑うと、ため息を吐かれました。何故だろう。
「八千代、情けない面だな。折角この間、佐方息子とお近づきになれたというのに」
「え、マジで?ちょっと八千代ちゃーん。ついに?付き合っちゃった?」
「…せんぱい、恋人では無いです。トモダチです」
何だあ、ってお兄さんは笑いますが。もし、もしそれが叶ったらこんな燻る想いは抱えてません。
花粉症の苦しさとは別の、心の痛み。
私は知っています。私の想い人が違う人を見ているということを。その相手は惣菜屋のお姉さんで、この商店街に於いて完璧な女の人として人気があるということも。
《芋虫》とあだ名された私では、敵わないことも。勿論。
「うぎ、」
考えていたら段々と憂鬱になってきました。
四月で、麗らかな素敵な時期に。こんな気持ちを抱いているのはきっと私だけなのだろうと思うと視界が歪んできました。
花粉のせい。花粉の、せい。
「ふぎ、ぃぃいいいー花粉多い、よぉぉおー」
「…不細工な泣き方だな八千代。誤魔化しきれて無いぞ」
「わたしなんて、わたしなんてっ…芋虫なんでずぅぅううー」
「ふん…よし。ソラオ。ちょっとやってやれ」
あいよ、とお兄さんが持ってきたものが指先を滑ります。刷毛から産み出される魔法。手際よく数分で終えた彩りが私の視界を薄ピンクに染め上げました。息づく桜、最後に花弁を詰まんで仕上げて後に並ぶのは、《女の子の夢》。
お兄さんが満足そうに笑いました。
「完成。直ぐに乾くよ。因みに残りは、君にあげましょう」
掌に放られるピンク色のマニキュアに、目を瞬かせました。
「でも、これ」
「八千代ちゃん。誕生日近いじゃない。持っていきなって。
――少しのことでも、女の子はお姫様になれるんだよ」
きらきらと輝く言葉の花弁が、隙間にすとんと入って心の綻びを治しました。
何か言いたくても言えなくて、音もなく口の開閉を繰り返す私にヌシさんが言います。
「金魚じゃないんだからしっかりしたらどうだ、八千代。ワタシのように!」
思わず噴き出しました。
ふはっと笑えば花弁が舞い上がります。ヌシさんが持ってきた春色は、私の気持ちをやんわりと包み込んで、癒しました。
不思議な猫だと、思います。そして素敵な《魔法使い》。
大好き。呟いたら腕を叩かれました。照れ隠しも、可愛い猫です。この商店街に居着いた、住人の内の一つ。
誰かが私のように彼に助けられていることでしょう。
誰かが私のように、彼を愛していることでしょう。
飽きること無く、ずっと続く幸せの螺旋は彼を中心に出来ています。
「あ」
マニキュアの乾く頃、お兄さんが私の頬にかかった髪に手を伸ばしました。優しい指先が、毛先をなぞって
「春色みっけ、」
そう微笑んだ時のこと。
「―――おいチャラ男」
入り口から不穏な声が響き渡りました。
振り向けば、険しい顔をした想い人の佐方君。
――次の瞬間には腕を引かれて店を一緒に飛び出していました。
駆ける彼の後ろ姿に、舞い上がってしまう脳味噌は、思考回路がオーバーヒート。状況を理解できません。私の長すぎる三つ編みが風に靡きます。緑のエプロンが、はためきます。ただ掴まれた腕だけが熱くて。嗚呼、どうしようどうしよう。どう、すればいい?
ヌシさんがにやりと笑うのが見えました。どうして、何で、私は。
駆ける足が止まったのは店が遠退いた公園でした。
走りすぎて思わず咳き込んだ私に、佐方君は背中を撫でてくれて。落ち着くのを見計らって、ぽつぽつと言葉を落として行きます。
「八が、」
「はい、」
「チャラ男にキス、されるかと思った」
「え、あっ」
そんな馬鹿な!そう叫ぼうにも、そんなことを思われたという衝撃の方が強くて、中々言葉になりません。短音だけが滑り落ちて、情けなくなります。
「あ、あぁあ」
「…一つ良いか?」
ぐるぐるする頭で精一杯頷きました。佐方君が、気まずそうに紡ぎます。
「…アイツが好きなの?」
「ちがいます!わたしは、」
私は貴方だけがずっと好きで、叶わないと分かっていても十二年もの間、ずっとずっと好きで。好きで、好きで!
私の、馬鹿。愚図で間抜けで不細工。
春色の爪を握り締めました。
じゃないと、泣いてしまいそう。私、どうしたら。
「じゃあさ、じゃあ。はち、」
私の両手を握って、彼は言いました。
「俺、八が―――八千代が好きなんだ。付き合ってくれないか?」
え。
真っ赤に染まった彼の表情と、桜色が最後の幸せな記憶だった四月初旬。