Beautiful days 6
踵を鳴らして踏み入れる。白の境界線。清潔の白、無垢の白、医療の白、純潔の白。様々な白が私の頭を巡る。その中で、彼女はヌシさんを膝に乗せ、呆けて外を見詰めるばかり。
―黙殺の白か。
黙って花と差し入れだけ置いて帰るつもりだっだが、思わず声を発す。消えていなくなるなよ、という牽制。儚いにも、限度がある。
「随分と元気そうだな?包帯」
「ん、―ああ。…早く声を掛けてくれないかな娘さん。気付かなかったよ」
「そうか」
いつになく意気消沈した様子に、苛立ち。静かに佇む姿に快活な様子は無い。溜め息を一つ。
あのばぁやさんの葬式から直ぐに【これ】の下準備は水面下で行われていたという。
「ある朝、起きたら病室だったんだ」と彼女は然程気にならない様子で私にヌシさんを遣いに寄越した。手紙を受け取って、嘆息。何と阿呆な。
不平不満を絶えずぼやくヌシさんを宥めすかし、早速彼女の見舞いに訪れれば――追い返された。病院側は既に彼女の家族の息が掛かっているということか。葬式といい、何にでも私が傍に居たから、また問題を起こしやしないかと危惧しているのだろう。その気持ちは、分からないこともない。すごすごと尻尾を巻いて帰れば二日後に再びヌシさんが私を呼びに来た。
この神様、完全に遣いっ走りだ。憐れになって揚げ立てのコロッケを差し出す。―ペロリと平らげた。もっと無いのかと目で催促するでぶ猫を放置して病院へ足を向ける。
彼女の状態を鑑みるに、病院に移すとしたら精神科だろう。と、思いきや行き先は内科の病院だった。完全に個室。家名に泥を塗りたくないのさ、と彼女の言。成る程由緒正しき家からそんな入院患者が出たとなると充分に醜聞になるのか。週刊誌の良いネタではある。
「手は回したから。もう君の来訪については誰も文句言わないよ」
「…そう」
看護婦や医者からの心地悪い視線にげんなりした私の顔に、彼女は少しだけ声を立てて笑った。
強かさは変わらず健在のようである。彼女の特技を駆使した結果に感嘆の拍手すら送ってしまいそうになった。ブラボー。
それはさておき。彼女のベッド脇にある机にたんまりと盛られた見舞品の多さと言ったら。私の持ってきた花と母親お手製の和菓子が霞んでしまいそうだ。いや、実際霞んでいる。密やかに肩を竦める私を横目に包帯は包みを開けて早速和菓子を頬張っていた。色とりどりのおはぎ。きな粉、こし餡、うぐいす餡、それらを平らげ指についた餡を舐める姿は変わらず豪快で間抜け極まりない。
近年、犬の方が綺麗に食べられるというもの。
「あんた、」
「んむ?見舞品だろう?」
その通り――その通りなのだけれど。
このベッド脇の豪奢な見舞品は無視か。八ツ橋もあるしチョコレートもある。焼き菓子もパンも、わらび餅も非常に美味しそうな。一目で高級品だと分かる包みを見遣る私に気付いてか、包帯は目を瞬かせる。
「チョコなら食べて良いよ。一番安全」嗚呼そうですか、って。
「は?」
思わず声に出した疑問符に彼女は口端を上げる。策を弄して通じずというのは陰謀を企む者としてこれほど恥辱を感じることはないよねぇ、なんて。
「どういう事だ」
「にゃふ。どうにもこうにも。鳥は檻を脱しても厄介なまま。優秀過ぎるゆえに自分はあの家の後継者。何をどう囀ずるか分かったもんじゃない。
手っ取り早いのは口を封じること。速やかに、舌を切るか殺すこと。
贈り物の中身は毒薬だらけ。何が入ってるか分かったもんじゃないよ」
何を。伸ばしかけた手を引っ込める。蓋を開ければ人を陥れる嘘ばかりとはよく言ったものだ。
私が出会ってから未だ変わらず、彼女の周りは混沌に充ちていて。中心に立つ彼女は飄々と笑う。時に寂しく、目を伏せる。
一人は嫌だと本音をぼやいて、揺らぎ、弄す。
あんたは馬鹿だ、そう言ってやりたかったけど何度も言っているし、彼女も耳に蛸だろう。私は言葉を飲み込んだ。黙して、一息。
「…仕返し、とか」
「既にしてしまった」
大人気ない即答だった。思いがけない返事に彼女の顔を凝視してしまう。
「大見得を切ったろう?あの通り、自分は敵に容赦する気は無いさ」
「その根性は嫌いじゃないけど」
「有難う。お褒めに預かり恐悦至極、と言う限りかな。…ばぁやがもう居ないのだから、妹は自分が庇護せねばならない。それもある」
ぽつりと出た言葉にふわりと浮かぶ疑問。
そう言えば、ばぁやさんの不明な「宜しくお願いします」といいこの姉妹には何があるのだろうか。
首を傾げる私にヌシさんが拙く言葉を投げる。収容してから何度も妹が一人で此処に来ている、と。はて珍妙な。
答えを求めて白を捉える私に、彼女が秘密を打ち明けるように密やかに囁いた。包帯の妹も年老いたメイドに護られていた一人だった、と。ばぁやの意志は守ってやりたいし何より話せば中々に可愛い、とはにかむ彼女の心境の変化に戦慄する。
冷静に述べれば、あの閉鎖空間の中でそれほどばぁやさんの死は大きかったということ。妹という立場を利用して我儘放題のお嬢様、というレッテルは良い意味で払拭された。見目が幼いのも、何かしらの要因あってのことかもしれない。
私は滔々と考えを繋いで、日常を再構築する。最後に、世界が緩やかにひずんでいくのを感じて眉根を寄せた。
包帯はそんな私の様子をつぶさに見詰め、満足そうに微笑み。
「さしあたって敵は叔父上と母。この二人には、毒を撒いておいた」
伏せていた取って置きの澱みを、打ち上げる。驚き―戦き―呆れ。毒、とは。喘ぐように訊ねれば彼女は最後のおはぎを咀嚼して、言う。
「自分の毒は、芽吹かない限りは無害だよ。叔父上は少女趣味。母は男好き。今は庭師とお楽しみのようだ」
数々の負荷で成長出来ない妹のために、一度くらいは身体を張ろうかと。――どこか晴れやかな表情に根拠の無い危惧感。思わず彼女の入院着を掴んだ私に指のきな粉を綺麗に拭った舌が引っ込んで、弧を描く桜色の唇。
「どうしたんだい?娘さん。自分は、大丈夫さ」
ああこれまでに、こんなにも彼女の存在を危ぶんだことがあっただろうか。狂っていない筈なのに狂っている、声をたゆたわせ、またしても沈黙の海を選ぶ私に白はただ微笑むのみ。
その二ヶ月後、日も明けぬ内に彼女の妹から急ぎの電報を貰って、私は家を飛び出した。
後悔をたっぷりと背中に背負い、舌打ちを一つ。舌打ちを聞いているのは夜の静寂だけだ。何も問題は無い。
それよりも何よりも。黙した代償は大きい。臆さずに彼女を叱りつけるのが私の友人としての役回りなのに!とんだしっぺ返し。悲鳴と連動する、革靴の音の高らかさ。
そして物語はエンディングへ。おぼこい八百屋の成金娘は懸命に、駆ける。
20111009