9月



《暴君の王》と誰もが言う。
その彼の、心境は如何に。



「もう眠りはないぞ!彼の裏切り者。暴君の、奴が眠りを殺してしまった!」

暑さも和らぐ《タソガレ商店街》9月。連日の雨風によりじっとりと湿った空気は優しく肌を撫でていく。クーラー対策として薄手のカーディガンを羽織った私―コウハイと呼ばれている―はちらりと右下を見た。そこには《ヌシさん》と呼ばれる丸い三毛猫が一匹。先程変な言葉を冒頭で叫んだのは彼であるので、悪しからず。
私はこんな商店街の真ん中で叫ぶ甲斐性などは持ち合わせて居ない。持つことさえ御免である。

「芥川?シェイクスピア?変化球で単なる童話?」

私の問いにふふんと鼻を鳴らして彼は偉そうに言葉を紡いだ。

「ワタシの好みは芥川だ。シェイクスピアは虫酸が走る。お猫様だからな!」
「じゃあ『走れメロス』?」
「しかし先のはシェイクスピア著、『マクベス』だ」

絶句。ならば好み云々たる付け足しは要らないのでは無いか、という言葉は飲み込む。必死に飲み込んで、猫を見れば。彼はしてやったりと言わんばかりににたりと笑んでいた。強かな猫である。笑顔が憎らしい。思い切り踏んづけてやりたい。一度くらいは勢いを付けて。
しかしそんなことしようものなら――、私が今から向かう店の主人には怒られてしまうだろう。それでなくても彼は、この商店街のアイドルであるからにして。

「それは良いとして、コウハイよ。数ヶ月ぶりでは無いか?入口で右往左往、何度も足踏みして入らずワタシに会いに来ないとは」

本当に小賢しい猫だ。見透かされたここ数ヶ月の私の憂いに鋭く爪を突き立てる。
隠してもどうしようもないことは、ぶちまけてしまうに限る。私は、溜め息を一つ。

「…バレていましたか。始めの1ヶ月は、この間の事件で負った怪我のせいで家族に禁止令を食らいまして」

本当に、上から下まで大騒ぎだった。
5月の古本襲撃兼立て籠り事件から帰宅した私は、早速右目の痣について家族から悲鳴を上げられ《嘘発見器》と称される母親を前に、父親を隣、後ろに兄弟と周りを包囲された状態で事件のあらましを説明させられた。ヌシさん、ストーカー女、ソラオ先輩、手錠、暴行、諸々。
結果は、勿論。火を見るより明らかである。
そんな危険な所に行くな、と出禁の言葉に始まり。顔に傷を負って、と狼狽えた母親の言葉。その先輩ってのが好きなら名誉の勲章じゃん、と好奇の視線を向ける兄弟。
本来ならば半年の出禁にあたる重大性を持つこの度の事件が、どうして1ヶ月程度の出禁で治まったと云うと。それは私の家族の特殊性にある。即ち、《売られた喧嘩には死んでも勝て》。勝利というカテゴリに関しては満足した故の結果、1ヶ月の出禁。
その1ヶ月、だらりと過ごし残りの3ヶ月。半分以上を暑さにやられ、残りの半分は連絡攻めをされていた。敵は事件の噂を聞き及んだ元クラスメート等の女性たち。
『大丈夫?災難だったね』から始まるメールや電話の言葉の綴りは、最後に『ソラオ先輩って今、どこにいるの?』で締められる。
その連絡攻めに耐えながら。時に断りつつ彼女たちの目を掻い潜り、何度か《タソガレ商店街》の入り口まで来て、帰る。それを繰り返し、漸く踏ん切りが付いて本日。こうして来たわけである。
と、かい詰まんで説明すればヌシさんは鼻を鳴らした。

「教えてやれば良かったものを。少しはあいつも落ち着くだろうて」
「嫌ですよ。私はあの場所が好きなんだから止めてほしいものです」

またあの喧騒は嫌だ。本当に何かが欠けてしまうかと思った5月のあの日。私は、私のためだけに戦った。その筈なのに。何故か彼の手錠を外すのを手伝っていた時、彼が泣き出して。不覚にもときめいてしまった。
私に住所等を求めてきた人物の中には、喧騒を嫌う一途な女の子が居ない訳では無かったからにして。私は、勿体振らずにヌシさんの言うように教えてやれば良かったのかもしれない。
今から向かう場所、穢れを赦さない清らかな場所。幸せと、黄ばんだ紙と、古びたインクに支配された古本屋。そして、先輩自身が唯一安らげて大切にしている、場所。

「ヌシさん」
「んむむ?…何か悟ったような顔だな、コウハイ」
「悟ったかどうかは分かりませんが、」

辿り着いた場所。ドアを開けず足を止めて、私はヌシさんを見る。

「穢れる無かれと父は言います。清らかであれと先生は言います。凛と立ち君であれ、と母は言います。そう言い含められようが穢れを知り、汚れれば私は私でなく、女にしかなれないでしょう。
私の一番嫌いなものにしか、なれないのです。こんな私を、」

あの優しさで凝り固めた人は、――ソラオは。

「受け入れてくれるでしょうか」

声が喉に絡まる。悪意を吐き出すような違和感。寒気。
成りたくないものになる私を、あの場所は受け入れてくれるのだろうか。

「阿呆だな」

暫くの沈黙、後に彼は言う。言葉を噛み締めるように一言一言を絞り出していく。

「穢れを知らねば人は強くはなれまい。白いままのものなど無いぞ。ワタシとて、こんなぷりちーな姿になるまでに苦労はした。汚いことだって知らぬわけではない。
大体、ああ。腑抜けめ」

ぶるりと身震い、彼は短い四つ足で地団駄を踏んで私をキッと見上げる。少しその眼光に蹴落とされ後ずさる私に彼は詰め寄って叫んだ。

「お前も腑抜けだ!人は腑抜けだ!好いた惚れたに関して人一倍脅えて震え先に進もうとしない。一生を謳歌しろ、私のように。日々を楽しめ、猫のように。全力を知らぬものに神が微笑むものか」
「は」

尤もなことを猫に言われるとは。思わず吹き出した私を真ん丸な瞳が見詰める。目線を合わせるようにしゃがみこんで、私は彼を撫でた。
誰よりも正直で誰よりも愛される猫。確かに、たまには彼のように。
甘えてみるのも、良いかもしれない。
私を変えた大嫌いな先輩。私を見抜く、恐ろしい先輩。優しさで凝り固めた臆病な先輩。
総てを引っ括めて私は、先輩、ソラオを。

「好き、かもしれません」

ぽつりと呟く言葉はからん、というドアベルに解けた。あまやかな邂逅。ドアを開けた第三者が、言う。
少しだけ震えた声で。

「あの、久しぶり」
「…はい」
「言いたいことは沢山あって、君が居ない間沢山のことを考えた」
「はい。…私も、考えました」
「でね、だから。とにかく。とりあえず。君の好きなものを沢山用意してあるんだけれど」
「…はい?」
「一緒に、食べてくれないかな」

美味しい紅茶をいれるから、と情けない表情。触れることを躊躇う指先が宙を掻き、握り締められる。
何度かその情景を見て、私は目を瞬かせた。
ああ、この人でも優しさを引き剥がし恐れるときがあるのかと。
恋なんて、認めてしまえば簡単だ。きっと《コウハイ》は《ソラオ》に堕ちていく。後に残るのは強情だった私。強い振りをしていた女の子。

「成る程。――無心の花と見せかけ、そのかげには蛇とか。ですか、」
「え?マクベス?」

私の呟きに反応した彼へ、初めて微笑む。強かに、全てを覆い隠して指を取る。ずっと求めていた体温。

「お茶を、是非。さあ、ヌシさんも」

からんからんと古びたドアベルが鳴く。私には、この音が予兆としか思えないのだった。行き着く先は天国か地獄か、分からないけれど。
誠に浮わつく9月の上旬。はじめの一歩。今度は二人揃って歩幅を合わせ。




(どうしてマクベスを?そう先ずはヌシさんに訊ねれば、
「ソラオがぼんやりと読んでいたものがシェイクスピア作品でな、たまたま朗読をねだった時に有ったのがマクベスだったのだ」
成る程。ケーキを頬張りながら私は物思いに耽る。
「たとい奴がマクベスでお前が夫人であろうとも、あのような結果にはするなよ?」
続いた言葉に私は鼻で笑った。
そんな段階に踏み出す前にあの馬鹿の息の根を止めてみせましょう、そう紡げばヌシさんはにやりと笑んだ。
「その意気だ」と。)



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