10月



10月は真っ黒な染み。


 店内が適切な温度を保てど、じわじわと冷え込む趣を見せる夕闇の頃。客が切れるのを見計らって店前の掃き掃除をしようと外へふらりと踏み出した。頬に吹き付ける風と新商品が秋の到来を告げる。季節の変わり目は体調を崩しやすい為、若干の気を使った防寒対策は上手くいったようだ。時期的に少しばかり早いかと思ったマフラーは見事にその役目を果たし、寒い思いをせずにこうして掃除が出来る。素晴らしい。―なんてぼやいて、素早く落ち葉を掃いていく。もう何度繰り返したか分からないこの行為。慣れてくれば必然的に違うことも考えることは可能な訳で、頭の中は今度の中間模試のことで大半を占めていた。
 化学がね、宜しくないと先程まで友達制作の暗記帳を見ていたことを思い出す。訳が分からない。どうしてあんなものを試験しなければいけないのか。そんな抗議の声は密やかに押し潰して、模試なんて来なければ良いのにと無駄に願ったりしてみる。テストが嫌な小学生か。まあ学生の義務と言われてしまえばそこまでなのですけれど。
 試験前には―誰でもそうだとは思うが―手が空いた時間は一分一秒も惜しい。粗方仕事を終えて簡単な雑務のみを残し、レジで勉強道具を広げる私を防犯カメラ越しに見ながら何も言わない兎には多少感謝している。苦言が無いことに甘んじるこの状況。店長が顔見知りという前提の、勤務時間中の試験勉強であるからにして。
 しかし先の月のことは。赦しては無いのだけれど。
 ぐうたら兎。あれは矢張り、私が私で無くなった一ヶ月間。頑なに何があったか話そうとしない。
 ああ、と溜息が漏れる。やどありさんの言う通り、中のものと話せたら良いのだけれどそうも上手くはいかなくて。直前に会った《魔王》様とは緋つばくろの手引きで再び会うことは出来れど、彼女は「矢張りこっちのほうがいいね」とにやあと猫のように笑うだけ。珍しく苦笑気味のつばくろは何も言わず終い。燈助さんはあの月のことは何も知らないと言うし、八方塞がり。
 ぐずぐずと思考だけが溶けていく。いい加減諦めたら良いのに、と自分でも思うけれど。どうにも気持ち悪さが拭えなくて諦めきれずに居た。私が私じゃ無くなった期間。この体は何を思考し、どうしていたのか。
 はてさて。こんな状態で試験は大丈夫だろうか。溜息と共に思考をシフトさせて役目を終えた箒と塵取りを持つ。くるりんと踵を返し店内を見詰め呆けていると、狙ったかのように、突如肩を掴まれた感覚。
 背筋が総毛立つ。空かさず真後ろへと肘を押し込んで振り向きざまに肩から全身でぶつかった。返し手で箒の柄を確りと握って上から思い切り振り下ろす、―確かな感触。ぴぎゃっと悲鳴。いやに間抜けな降参の声。
 見下ろした姿は、嫌なことに。誠に嫌なことに。見たくない見慣れたものだった。

「くそ親父が」

 自分でも驚くくらいの低い声が漏れ出る。亀山りりの。実父。久方ぶりの姿は年甲斐もなく涙目の彼の顔から始まった。

 りんごんりんごんと来客を告げる音。謀ったように客が居ない店内。赤から青、紺へと変わる空を背景に―物珍しそうに仕立ての良いスーツを着た彼は、店内をぐるりと見回す。四方八方、最後には必ずレジの亀山りりへ。
 つまりの。娘へ。
 そしてくしゃりと笑う。嬉しくて嬉しくて仕方のないといった笑み。居心地が悪い。目を逸らして単語帳を見ても、視線が必ず追い掛けてくる。執拗な感情。暖かい視線。酷く居心地の悪い沈黙。
 何も言わないのも気不味く、最後には根負けした私が先に口火を切った。

「何をしにきた」
「何って、何って!元気かな、って思って」
「見ての通りだよ」
「うん、うん。元気そう」

 てめえもな、とは言わなかった。家まで売りに出して何を今更、とも言えなかった。言ったところでこの性格が治るわけでは無し、代わりに低く問い掛ける。

「前の女とは別れたの。今のお相手は中々に羽振りが良さそうだね、親父」
「え、あ。う」
「人生楽しそうで何より」

 我ながら嫌な言い方になったと思う。嫌気がさしてさっさと帰ってくれないかなと心中でぼやくと、彼は明らかに落ち込んだ風情で声のトーンを落とした。
 ごめんね、なんて。何を今更。
 彼の悪癖。最早病気と言っても差し支えは無いだろう。少しばかりの注釈を加えたい。亀山幸志郎。滅法女にもてる大馬鹿者。生まれて来てから今まで、色んな女に恋をして、それでも直ぐに離れて上手くはいかなくて。(彼曰く、「朝起きたら裸で隣に女が寝ていた」その言葉を何度聞いたことか)一つだけの成功例が出て行った―嘗て心底彼が惚れ込んだ母親であったわけなのだけれど。
 家族には嘘無く誠実であれ。この性格が。少しばかり厄介だったわけで。
 事あるごとに女性との関係を報告する彼に。はじめこそ、母親は溜息と苦笑を漏らした。仕方ない人ね、と悲しそうに呟く声。我慢強い母親は感情を動かすことに段々と疲れていったようで、呆れと諦観が先行し、最終的にはブチ切れて、娘が小学校を卒業すると同時に出て行った。
 卒業式に来ると行っていた筈の母親。姿が見えなくて、とぼとぼと帰ったら、家にも居ない。
 結局彼が帰ってくるまでランドセルを抱えて家の扉の前で待っていたことを覚えている。
 あれは中々―衝撃的な体験だったと他人ごとのように冷静に思う。
 後々に届いた手紙には、謝罪と携帯番号。怖くて、掛けたことは無いけれど。登録したデータだけはひっそりと残って居る。元気かしら、と父親を前にして茫洋と考え言葉を紡いだ。

「あのさ、」
「ん?」
「帰ってくれない?仕事中、なんだけど」

 勉強している姿を見せながら苦しい言い訳だと思う。
 彼は苦笑し、じゃあ一個だけ、と口を開いた。

「お医者さん」

 肩がびくりと跳ねる。

「どうしたの」

 切り込んできたか。
 情報提供は一度だけ行った先の女かもしれない。少々面倒に思いながら、短く切り返す。

「何を聞いたの」
「りりちゃんが、疲れたかもしれないって」
「あの糞女」
「で、僕も行って。話を聞いてきた。その帰り道」

 未成年なことが災いしたか。余計なことをして、と歯噛みする。
 表情を無くしたまま彼を見上げると、苦笑された。そんなに警戒しないで、と。

「先生から聞いたよ。驚くことも、色々。でもさ、ねえ。今の人は良い人なんだ。娘が居ることも言ってある」

 嫌な予感がした。
 次の言葉が怖い。

「リリーちゃん。一緒に、暮らそう」

 息を飲んだ私の後ろで、扉が開いた音がした。
 後ろを振り向けない。怖くて、―全てが怖くて、動けないまま。視界が真っ暗になる。
 頭上から強張った声。

「帰って下さい」

 くぐもって居ない辺りを、察するに。珍しく彼は被り物をしていないのだろう。本当に、珍しい。思いながら、何故か頬を伝う濡れた感触にどうすれば良いか困惑した。あれ、と思う間にぼたぼたとこぼれていく。

「兎くん、久し振りだね」
「今更、出て来ないで下さい。娘さんは元気にやっています。十分でしょう」
「いや、十分じゃないよ。聞いたんだよ僕は。娘が、娘じゃないって、」
「幸志郎さん」

 兎の鋭く刺すような声。
 けれど、聞こえてしまった。暫く思い悩んで居た、答え。

「僕は、娘を元に戻したい」

 兎の、隠し事はこれだったのか。
 思っても、声もなく。ただ溢れる濡れた感触と、激情に。漸くして自分の様子を悟る。
 泣いているのか。私は。

 冷気が足元から這い上がるような十月。真っ暗な世界は静かに幕を下ろしていく。


20121014



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