01



べべがその求人広告を見かけるのは三度目だった。
一度目は何となく気分が優れない時だった。二度目に見かけた時には生活の万事がうまくいかなかった。仕事を逃げるように辞めて就職活動を始め、そんな頃に同じ広告をもう一度見かけたとなっては、笑って偶然だとは誤魔化しきれない。三度も同じような頃合いに見かけては、運命や必然といった言葉がくるくると頭を回るというのも仕様のないことだと、馬鹿で単純なべべはすました猫のように想う。
その日は、いつもより遅い朝のことだった。珈琲がうまくいれられなくて、いかにもまずそうな液体に仕上がってしまったポット一つ分を、シンクに流して温かい飲み物を諦めた。新聞を一度テーブルに置いて、背中を向ける。
そんなにも同じ広告を押してくるのならばそのもの自体が意志をを持っているのではと空想からだ。
少しばかりべべには空想癖があった。背中を向けている間に足が生えて逃げ出すなり向こうからのアクションがあればいい、とか。子供のように考えた。もっともそんな考えは簡単に打ち消されたのだが。そんなこともなく。
もちろん広告は広告。新聞は新聞。動くわけもない。嘆息は一度。そんな奇跡起こったらこんな場所で世紀の大発見をした私自身がこんな場所で燻ってはいないだろうと、うたかた、考えを巡らせてべべはひそと笑う。
冷蔵庫に眠っていた珈琲を牛乳を同じほどの分量でマグカップに注ぐと。口に含みまろやかな舌触りを楽しみながら、お待ち遠様と告げるように冷蔵庫から首を傾げつつ、べべは短い広告に目を通した。

「ひょ、漂流物干物工場」

考える時間が欲しいあなたへ、人生にやりがいを見いだせないあなたへ、そんなうたい文句付きだった。
社会保険完備、勤務時間はシフト交代制、ボーナスは年二回、夏期休暇、年末年始休暇、有給付与有り、夜勤有りと付け加えてはあるものの、仕事を探している身としては大歓迎の好条件には違いない。月収の金額を見て、迷わずべべは電話をした。金は生きていくのには何より大切だと叩き込まれた社会経験ゆえだった。
三回もコール音が続かない内に電話口に出た女性は朗らかに工場名を話す。噛まない流暢な物言いだった。彼女に向けて舌を噛みつつ、求人の広告を見たのですが、と告げる。
「ああ、求人希望の」
と電話の向こうで頷いた気配。後は慣れた調子で面接までの日取りと方法をべべに告げる。急いで手を伸ばしべべはペンとルーズリーフに彼女の伝えるものを書き取っていった。
履歴書は先に郵送、当日はスーツで来ること、住民票、合否はその場で決まるので、と告げられ目を丸くする。
「その場で、ですか」
「ええ、うちの採用担当者は変わり者ですから」
そういう訳で早い内に、短く切り上げられた電話に一抹の不安がふわりと浮かぶが、なるようになれと自棄になった脳味噌が告げる。
巡り合わせ、ご縁があれば仕事が加えて決まれば幸いのことだ。

機械的な応答の女性の指示に従って、恙無くべべが漂流物干物工場に就職するにはさほど時間はかからなかった。彼女が告げた通り、二週間後の面接で早速ぺぺの顔を見た途端に採用担当者の蛙によく似た口をした彼が目を剥き、採用と短くぶっきらぼうに告げたからだ。
こんな会社でいいのかしらと思いつつべべはその日は帰って三日後には出勤した。
作業着は黒いつなぎ、地味なものだったが派手な柄物や色のものが得意ではないべべには嬉しかった。化粧は禁止、マスクをして、髪の毛は帽子の中へ纏めて、と注意書きの通りにぺぺは用意をしていく。ほつれ髪がぴんぴんと頬を叩いて鬱陶しい。ずっと不精していて放置していたけれどこの際髪を切ろうかしらなんて思考する端っこで、告げられた配置は《浮遊物科》だった。
浮遊物、浮遊物って?
首を傾げるべべの手を後ろに居た黒い影が引く。
大きなもやりとした形の生き物だった。同じく黒いつなぎを着ているから余計に体の形が分からない。天井の明かりが後光のように射して、眩しくて目を細める。
「おお、あんたもミズクラゲ科か」
口がはくりと開いてもごもごとそんなことを言う。話す様子はまるで正月に食べる焼き餅の様相だった。あの、膨らんだ丸がぱちん、と弾けるような。
そんな変な妄想をしている場合ではない。今この餅、何と言ったかとべべは返す。
「みず、……なんですか?」
「ミズクラゲ科だよ!この世界でも少数の精鋭部隊の科さ。芸術だよ、あんたは素質があるんだねえ。採用担当のヤスさんの目は間違いないから嬉しいね」
久しぶりの新人だと浮き足立つ彼に問いかける暇もないまま、引きずられるようにしてべべは工場内を闊歩する。黒い餅に乱暴に引かれて酷く居心地が悪い気分だった。周りの目が何事かとべべに注目する。
見ないで。悲鳴が喉につっかえて出ない。
べべには不幸なことに、いつも簾のようにしている前髪が無い。髪の毛は纏めてしまっていた。顔を丸出しなんて落ち着かない。掴まれた手首が痛かった。餅にしては、力強い、人の老人の、こぶの目立つ節くれ立ったような手だ。
不意に、五年ほど見ていないおじの手をべべは思い出した。彼の職業は、何だったか。朗らかに笑う口元しか思い当たらない、空っぽなべべの脳味噌だった。残念なべべの思考回路だった。
真っ黒な餅がぱかりと口を開けて言う。
「あんたの名は?」
「べべ、で、ぶぇ」
「そうかあ」
べべとは珍しい名前だあとのんびりとした低い声が言う。そうかしらとべべは思い、口を噤んだ。返事を出さなければ続く物はない。そう思っていたのだけれど、そんなわけにはいかないようだった。餅は一筋縄ではいかないようだった。
今日の天気のこと、メンバーのこと、ミズクラゲがいかに素晴らしいかを語った口は尚も澱みなく動いている。噎せることなく動く口。ぱかりと破裂したみたいな。だけど。
彼はべべに名乗らなかった。
なんて失礼な餅なのか!そこも何だか馬鹿なべべには引っ掛かっているのだった。

長い廊下を歩み様々な表記の小部屋を横目に引きずられ続ける。まるで売られていく哀れな家畜のようだ。うっかり歌を口ずさみそうになって声を飲み込む。大きな黒い餅は背中をぴん、と伸ばして歩いていた。曇り一つ無い窓ガラスに引きずられていく真っ黒なべべの姿が映る。前の同じつなぎ着た大きな餅とは違い、背中を丸めて何だか。
みっともないな、べべは拙く思った。こんな女よく採用したものだと採用担当のカエルに口がよく似てたーヤスーにべべは感謝する。
ミズクラゲ科、エリート、はて、と首を傾げると窓ガラスに映った女はますますみっともない、死にそうな女に見えた。べべは眉根を寄せたまま餅に引かれて足を引いていく。

《ミズクラゲ科》

そう黒い太字で殴り書きされている窓ガラスは入り口よりだいぶ奥まったところにあるようだった。
ここまで来るまでに見かけてきた部屋の扉のような見目ではなく、入口は格子。金属製の、重そうな。なんでここだけこんな。べべが目を白黒させていると彼は足を振り上げて重く、蹴りを一回。びいいいいいと耳をつんざくような音。くわんくわんと揺れる脳髄に、べべが目を瞑ると、また瞑ったまままた引きずられた。驚きの声を上げても餅はまだ、べべの手首をふりほどかない。べべの存在なんて気にしていないようだった。掴んでいるから認識はしているのかもしれないけれど、それだけなのかもしれなかった。
べべは、悲しくなってすん、と鼻をすする。単純で流されやすいけれど比例するように打たれ弱いべべには驚きの連続で、正直、もうこの会社をやめてしまいたいとか思ったりもした。弱すぎだろうとよく他人に言われる性質のべべだが、べべは物心付いた頃にはもうこうだったので、諦めて自分に甘く生きている。
帰って寝ちゃいたい、とべべは情けなく思った。首がしまる。彼は掴む先を手首から首根っこに変えたようだった。仕事を始める前から殺される、とべべは項垂れる。
どうしろっての。
そんなべべの現在の状況に、ようやく救世主が現れた。
「モチさん、そんなねばねば引きずっちゃ新入りが泣くでしょう、が」
モチ、とは彼のことだろうか。本当に餅みたいな名前だった。
でも今は、名前よりも。聞き慣れた声だ。首根っこをようやく放されて、ふらつきながら姿勢を戻しそっと瞳を凝らす。
「べべ、かよ」
もじゃもじゃ頭の下から鳥みたいなぎょろりとした眼光。
べべの名前を知っている、名前を知られている、それだけで、悲鳴が漏れそうになった。
べべは流されながらも、その流されやすい性格ゆえに色々なものを無くしてきている。彼は、その、内の一つ、だった。
「とりせんぱい」
鳥先輩。
声が細く漏れる。こんな声久しぶりに出した、とべべは思った。べべがまだ幼く、もう少し軽やかにぺぺと呼ばれていた頃の初恋の人だった。こんな風に、再び会うなんて思っても居なかった。
あいたくなかった、と噛み締めるようにべべは思う。
それは向こうも同じだったようで、モチ、と呼んだ彼を促すようにして部屋の中の方まで逃げるように去っていく。
「あやぁ、ごめんねえ。夢中になると少し乱暴にしてしまうんだ。俺は餅村。モチさんって呼ばれとるよ」
やっぱり餅だったんだ、と普段なら動く口も大人しく閉じた。
さあさあ、と回り込んだ大柄な真っ黒な姿に背中を軽く押されて狭い通路から一転、大きな空間へとべべの情けなく細い貧相な身体は飛び出した。
そこにはハリネズミみたいな小さな男の子が一人、それからころころとしただるまみたいなふくよかな体型の女性が一人、毛づくろいする猫みたいに背筋を丸めた老人が一人。奥に、鳥の後ろ姿が見えた。
「ようこそミズクラゲ科へ!今日からよろしく」
声が響き渡り、各々が笑って、むっすりとした顔をして、睨みつけるようにして、表情すら見せずに、餅村だけが快活に豪快に笑う。仕事に誇り、を持った人間の顔だった。
個性が強そうな面々だった。
こんな場所で生きていけるのかしら、そう思いながらも短くべべは言う。
「よろしくお願いします。べべ、です」
よろしく、とは今度は誰も言わなかった。



20140708


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