20



あの喧騒から遠く離れて一年、毎日を目まぐるしく過ごした平凡に、彼の見知った麗人から連絡が来たのは新緑眩しい五月のことだった。どこか余所余所しい口調だったことは覚えている。仕事で君が居ない間に部屋を見せて欲しい、そう丁重にシューサクに告げた声には嘗ての快活さは窺えず、疲労が見て取れた。
「コモリさんは、」
まずはそこを教えて頂きたいのですが、問えば渋った後に彼が言う。
「目が覚めた。君のお陰さ、でも」
まだ会わせられないと彼がうたう。声音が真っ直ぐ鼓膜を通っていって、脳味噌で意味を理解するまで三秒。心が拒絶を受け止めるまで加えて十秒。
息が詰まって、胸が痛む。どうして、と平凡が訊ねれば彼は声を絞り出すようにどうしても、と告げた。
「どうしても、まだ」
君に会わせるわけにはいかないんだ、と辛うじて最後の、ごめんね、と消え入りそうな謝罪。切られた通話口から通話終了の合図が届く。何が彼らに起こっているのか誰か分かる人間が居たら教えて欲しいと拙く平凡は思考して目を伏せる。


悩み悩んで一週間後、震える指で折り畳み式の携帯電話を取り出しワンコール。暫く掛けていなかった番号を呼び出せば不貞腐れたような声が耳を穿った。元気そうだーーそっと息を吐けば何かを賢明な彼は悟ったのか、仕事帰りでいいかと声。言葉に反応して返事をすれば居酒屋に集合と突き放すような言葉と共に電話を切られた。
変わらないな、と思う。同時に、変わらないものが平凡だけではなくて安心したとは言わなかったけれど。昼休み終了を告げた声。先輩の呼びかけに反応して席を立つ。難しいことは人に相談しながら纏めれば良い。
そこまで考えて失笑を自分に禁じえない。
なんて、人任せな。

「で、俺に協力しろと?」

社会人一年目の後輩に頼るのは大変申し訳無いんですが、と項垂れるように口にしたその日の夜。須藤は髪をかき上げて、良いから話せよと居酒屋にて平凡の話を聞いた。途切れとぎれに動いた話をする、耳に受け止める、その間も積み重ねられていく煙草の灰。もくもくと指が華麗に灰皿に灰を叩き込んで、不遜に彼が銀河色を溶かす。
微かに憤りを感じているようだった。どうしてだか、シューサクには分からないけれど。
惚けるようにして全てを話し終えたシューサクに盛大な溜息一つ。
「馬鹿か」
「はい」
「はい、じゃねえよ。もう少しお前なあ」
あの馬鹿な犬みたいな友人は、今丁度派遣の仕事始まったばかりで抜けられないそうです、アンは無理で伊藤は今まあ無理だし、はあ。そう平凡も見知った頼れる候補を指折り数えていた彼の動きが止まる。
「はあって呆けてんのか。いや、お前がいない間いつあいつらが来るかもわかんねぇから見張れって話だろ」
「まあ、そうとも言いますが」
大まかに、誤魔化すことなく言えばそういうことになるけれど。視線を彷徨わせたシューサクに須藤が仕方なさそうに笑う。
「平気そうな後輩、何人か知ってる。連絡取ってやるから」
「有難う御座います」
しかしよく此処まで一年間何も連絡せずに堪えたなと、感心するような呆れたような声。実にその通りだとシューサクも自分を顧みるに呆れることしか出来なかった訳だけれど。悠長に事を見守り過ぎている。
「見舞い行かなかったのか」
「病院に、ですか」
「ああ」
「お兄さんを信用してた、ということもありますが」
いや、それはきっと嘘だ。口を結び自身の言葉を否定して、平凡は言葉を探す。きっと何の取り得の無い彼は、
「知るのが怖かったのかも、しれません」
麗人が告げた言葉。声の調子をシューサクは覚えている。コモリの過去を鑑みるにきっと良い目覚めでは無かったのだろうとは思う。シューサクに会わせることが出来ないと麗人が断言する位には、現状はきっと切羽詰っている。
そう考えを連ねるように言葉を繋ぐ彼の頬を、須藤は瞳歪めて手を伸ばし引っ張った。いた、と溢せば痛くしてると応える声。
「馬鹿かお前」
「ひゃい?」
手加減無しのように感じるのは平凡の気のせいだろうか。思い切り引かれる感覚に涙が出そうになる。潤む視界で、酒に入った氷ががぎん、とバランスを崩す音、強く響いて眉根を寄せる。
いたい。
どこが、いたいのか。
誰が、いたいのか。
「怖いなら抱え込むな。こうして、呼んででも良いから誰かに話せ。俺だけじゃなく、誰かに、でいいから」
頬は引かれたままだけれど、告げられた声色の優しさに、シューサクは驚いてそっと手を重ねる。有難う御座いますと意を込めて彼の手の甲を撫でれば、目を丸くした銀河色。頬からやっと手が放された。ひりつく皮膚を抑えて視線を須藤に合わせる。すると、静謐の夜の色が、思い切り眉を顰めてシューサクを見遣った。
「お前、会社でそんな行動してないだろうな」
「え?何がですか?」
「まあ。…そうか、そういうやつだったよなお前」
それ、危険そうなおっさんとかにすんなよと言われ平凡は曖昧に頷いた。それの指すところが分らないままだが頷かなければ尚不機嫌になる趣は目に見えていた。
その後、酒を飲みながら雑談へと話が流れ、冷蔵庫の中身を聞かれーー答え怒った須藤に手を引かれ食料を買い込み二次会を家で始めた結果、の。
酔っぱらいの出来上がり。
二日酔いの朝。

「すど、さー」

「ああもう馬鹿か!」
世界が揺れる、声が響く、心臓がうるさい、せり上がる感覚、手足が痺れる、迷わずトイレで凭れて吐いた平凡に労わる様に背中の摩り。情けない。社会人二年目にして今更酒にやられるとは何たる失態。呻きながら讃えられた水面を見詰める。差し出された水を口に含めば多少胸が軽くなるような気分。扉に寄り掛かって目を閉じる。
「無理すんなよって言ったじゃねーか」
「本当ですね、」
「油断すんなよ全く」
お前ほんと甘え方が下手くそ、微かに奏でられた笑い声に首を傾げる。下手糞、だろうか。そんな自覚は終ぞ無いのだけれど。首を傾げる平凡に須藤は声を潜める。自覚が無いから救いたくもなるんだ、と告げられた柔らかさに目を瞬かせた。
救われて有り難いと思って、とても申し訳ないと思って、もしかしたら。この現状にあるのは、それだけではないのだろうかと繋がった縁に思いを馳せる。
助けたい救いたい、手を差し伸べたい。もしかしたらそんな感情も、隠れてあるのかしらとか。なんて。凄く傲慢な考えなのかもしれないけれど、そんなものが微かにでもあるとしたら酷く嬉しい。
茫洋に思考を漂わせるシューサクに、会社へ休む連絡は入れたからと須藤の声。遊びに来た家族が吐き通しだから流行の食中毒かもって言ったらお前も休めとお達し、とふざける声に辛うじて笑みを返す。僕は放って出社して下さいと促した平凡に、放って置けるかと朝一番に突っ撥ねたのは須藤の優しさだったか。何にせよ有難いことだった。こんな状況では何も出来やしない。
一通り吐いて再び水を嚥下すればすう、と抜けるような心地。胃袋は既に空っぽの趣だった。胃袋に優しいもの作ってやるからと言われ布団に入る。台所に誰かが立ち、久方ぶりに部屋の中に人が居る心地よさ。意識を落とそうと努めればゆるりと眠気が降りて来る。
漸く、体調が上向きに機能し始めたのは日の高く昇った午後のことだった。
気配を感じて目を覚ませば、覗き込む銀灰色。間近に迫った美に少しだけたじろいで、起きてますよ、と小さく平凡が紡ぐ。おう、と微笑んだ彼を押し遣って伸びをした。
何だか何年かぶりにゆっくり眠ったような。
「涎垂らしてたぞ。どんだけ寝てなかったんだよ」
「分かりません」
何だか、と笑みを返して起き上がる。飯出来てると告げられ目の前に出される卵粥。出汁の香りに正直な食欲が悲鳴を上げた。くうう、と子犬が鳴くような。苦笑を一つ、頬張って、美味しさに顔が綻びる。
「須藤さん天才、」
「当たり前」
優しさを甘受して、美しさを目の前にして、幸せだと目元を和らげる。
ならば問題から目を逸らしてこのまま、幸せになることも可能なのかもしれないと薄情なことを思った矢先、鼓膜に届いた変革の声。
視線を向けた先でがちゃり、と扉の鍵が開く。
ともすれば、助力を仰ぐことがなくなったといえば都合がいいけれど。
確かな予感と、恐怖と。瞳を揺らして動揺し、立ち上がらないシューサクの代わりに須藤が察して玄関先まで見に行く。ドアまで一直線に見渡すことのできるワンルーム。開けた外界では大家の老齢の彼女を一番前にして、背の高い麗人と、後ろに長い黒髪が覗いていた。
麗人の前に、対して平凡と攻撃的な須藤。なんという偶然。
「仕事じゃ、」
「諸事情でな。今日は休みを貰ったんだよ。話は聞いてる。ーー部屋なら、いくらでも見せるぜお兄さん」
「それ、は」
「なあシューサク」
従兄弟の兄の、表情が引き攣る様子が見て取れた。口内に残った卵粥を飲み込んでどうぞ、とシューサクは頷いて見せる。目覚めたばかりの、十年ぶりの世界を体験する人間を一人で外に放したくないはずだ。況してや彼の大切にしている妹分。出かける際には一緒に違いない、とシューサクには朧げながら確信していることがあった。それは、強かな平凡の観察力が得た結果だったけれど。
室内に誘い入れる手。意を決してゆっくりと、麗人が体を動かす、その横を。嵐のように小柄な体が駆け抜けて室内に飛び込んだ。
コモリ。
菫色の瞳、頬痩けた姿、身長は記憶に残っているよりも少し伸びて、それでも力強く畳張りの床を踏み締める。ただし土足で。

「あなたね、ここに住んでる変わってる人は!」

強烈な声だった。荒削りな生命の音。目を見張る平凡の前で彼女は、部屋を恨むように睨め回して大きな舌打ち一つ。ほんと悪趣味、とはどういうことだろうか。
「あの、」
「ここで住んでる人の気が知れないわ。大体兄ちゃんに聞いた時点で、耳を疑ったのよ。この部屋がまだ存在してるって事実が信じられない」
この場所で何が起きたか知ってるの、問われ、世界を呪う声に躊躇する。双眸がぎらぎらと瞬いていた。
コモリ、生きている彼女、は。
平凡の声を待たずに踵を軸にして室内を一回転。幽霊の時のように軽やかに華やかに、長い黒髪を棚引かせる。新緑の光受けて、若々しく、雄々しく。荒々しく、壮絶に、微笑んだ。
「知らないの?知らないなら教えてあげる」
鮮烈に彼女が言う。よく通る声で嘲笑うように、醜悪に。

「ここはあたしの友達が犯された部屋。殴られて精液まみれにされた部屋。悲鳴も助けも誰も来なかったしあたしも何も出来なかった、ただ見てただけなのよ!そこの布団置いてあったところであたしの友達は犯された!」
汚濁を吐き出す。それはシューサクも知っている事実で、203号室の過去だった。夢の中、彼女が見た、聞いた全てだった。知っている、だってシューサクも夢で見たから。少女が震えて襖から覗いたものを刻むように覚えている。視線がこちらに向いて助けてと告げていた。それでも彼女が動けなかったことも理解している。だってあんなものは怖い。男のシューサクだって恐怖を感じたのだから、女のコモリは尚そうだろうと思う。
汚い過去を口にする。人間の感情を黒く塗りたくる。それでも儚く美しい光景だった。細い枝のように腕が大気をかき混ぜて、足が地団駄踏む。後悔するように菫色が揺れる。
ねえ、と世界を恨む声。あたしの友達はおかされた、のよ、拙く再度、最後は泣くように紡いで肩を落とした彼女は、それでもここに住むの、と矢継ぎ早に呪いのように口にした。彼女の感情が、大量の情報を伴って平凡に押し寄せる。嵐のような光景を見遣って、心臓が早く脈を打つ中、平凡はどう答えるべきか悩む。
どう答えたって、今の彼女は簡単に傷付いて、しまいそうだった。
悩んでいる間に喚いた彼女の肩を部屋に上がり込んだ麗人が掴む。ーー失礼だよと嗜める声。漸くしてどれだけ失礼なことを仕出かしたのか分かったのだろう、正気を戻した彼女が言う。
酷く義務的に。ごめんなさい、と。
これを危惧していたのだろうか、彼を見遣れば麗人の顔がぐしゃりと泣きそうに歪んだ。
ああ、なんだ。平凡は捨てられたわけではなく裏切られた訳でもない、本当に慈しみの中をもがいて悩んでいただけか、と思う。
思って、譲れない部分を曝け出す。

「でも、ぼくは、」

ここで待ってるって約束したんです、告げれば彼女が弾かれたように言う。

「そんなことがあったのに?」
「ええ」
「こんな、気持ち悪いことがあった部屋で?」
「はい」
「なんで」

それは、泣き声を飲み込んで告げる。
どうして、貴女を待つかって、それは。

「好きな人、と約束したから」

菫色がぐにゃりと歪む。尚紡ごうとする否定の言葉を兄が後ろから止めた。そこまで、と凛とした声。
「すみませんでした。お休み中に」
礼節を保った態度。合わせて、須藤が言う。いえ、と苦虫を噛み潰したような顔で。強烈だった。全てが、全部が。
失礼しました、そう告げて二つが退場して沈黙が流れる。部屋を満たしていた空気が元に戻ってやっと、シューサクは涙をぼろりと落とした。摩る掌。須藤の温もり、嗚咽を零しながら思考だけが遥か彼方。
はじめて、待つだけ無駄なのかと拙く紡いだその横で、瞳を辛そうに細めた銀河色の彼は返事を言えずにいる。


20140404


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