21



社会人になって四年目の春を迎える。幽霊の少女を失くした部屋は、変わらず桜に染められて酷く美しいけれどどこか空っぽだった。
シューサクは、スーツを身に付けて今も尚203号室に住んでいる。あのような嵐が起こった後も、ずっと。
ただいま、その声に応えるうつくしい声音は無い。それでも彼女の居ない部屋に、奇跡を願って膿むように生活をしている。
平凡が美しい少女に恋をした、負い目なのかもしれなかった。
忘れてしまった彼女に、した約束を忘れられないただの馬鹿なのかもしれなかった。
馬鹿でもいくら時間をかけても良いかなと思ってしまうぐらいには、彼女に溺れていたのかもしれなかった。


仕事に慣れてきて漸くの頃。帰り道ネクタイをだらしなく緩めながら、珍しく早く着けた帰路でーー幽霊の彼女を一緒に見送った、周りの優しい人々の姿を平凡は思い出す。桜色に染まる季節の中、変化は目まぐるしくそして優しかった。
バイの友人はあの後紅髪眩しい女垂らしのアンと交際するようになったのだとか。派遣会社に登録して短く仕事をしながら証券会社に就職したアンと仲良く暮らしているらしい。隣人が面倒な曲者なのだと飄々と笑う声は幸せに満ち溢れていた。そして案じる声に、穏やかに応じるくらいには、シューサクも大人になっていた。
裏手のコンビニの銀河色、須藤は堅実に社会人の道を歩んでいる。その際に後輩の伊藤と何かしらのやり取りがあったのか、疲れた笑みを見せて今でも一人、時折ふらりと遊びに来る。朝まで語り明かしても、酒を摂取していても変わらず平凡よりもいつも、起きるのは彼が先だった。その背中は絶えず優しいものだなとシューサクは甘えるように思う。擦り寄れば押しのけながらも甘やかされる。その優しさは限りない。
同じくして後輩の伊藤も社会人になったと聞いている。一人でようやく、胸を張って立てるようになったのだとスーツ姿を見せに来た彼は眩しい笑顔だった。おずおずと抱き着いてきた愛らしい後輩を、撫でて抱き締めて、鼓舞すれば美しい色彩。
双眸が、シューサクを案じながら煌いた。待つ、ことには酷く敏感な彼が言う。先輩は、大丈夫ですかと落とされた声色に平凡は頷く。
大丈夫。待つことには、慣れている。

「その、筈なんだけど」

なあ、と言葉の尾はため息と一緒に出てきた。
彼女が目覚めて二年。従兄弟の麗人も連絡をくれるし、彼の奥方も時折連絡をくれるがどうにも。遣り切れない。
成長しきった彼女を見た。必死に追い縋って、待ってますからと告げた、それを、恐ろしいものを見るような目つきで見られ、脅えられては。
鮮烈な生きている声音を思い出す。どうしてここがなくならないのかしら、と憎々しげな言葉。穿つようだった。信じられない、と。
「まあ諦めて、他に行って忘れられたらいいのに」
なんてね、と一人で呟いて桜色の煙る中歩みをすすめると、行き着く先の古びたアパートの203号室の入口、そこに。見慣れた後ろ姿。思わずうろんに目を彷徨わせて、迷って、結局踏み出した。
怯えられるかも、と再び思ったけれど、止められない。一階から見上げるようにして二階を仰ぎ見る。203号室真っ正面の位置。

「あの」

華奢な背中が大きく跳ねた。潤んだ菫色の瞳。双眸に、昔の色を想って、直ぐに目を伏せる。
奇跡が、なんて。気のせいだろう、多分。
「どうし、ましたか?」
自然慎重になった平凡の声音を誰が責められるだろう。対するコモリも気まずそうに眼を逸らして暫くの沈黙。
矢張り、駄目かなと平凡は束の間抱いた傲慢だとか、彼が恵まれた幸運だとか、尽きたことを思考する。だとしたら、そろそろ三年。引越しの準備をしなければならないかと回路が動き始めた頃。彼女が顔を上げた。
かしゃん、と柵が鳴る。
「むかしの、はなしをしたくて」
来たの、と彼女が言った。
「昔々の話よ。それでもあたしには、眠る前の現実だった。酷い、ことをしたの。酷い、ものを見たの。助けられなかった、彼女と話をしたのよ。電話越しだったけど」
彼女は、あたしの友達は呼吸してた、生きてたのよと告げる桜色の唇。長い睫毛、黒髪が風に煽られて揺蕩った。
いつかの、幽霊の時みたいに。
「仲直りしたの、昔みたいにちょっとだけ話したの。こんな、怖くて助けられなかったあたしのこと、あたしがされたらどうしようって逃げたこんな女のこと、まだ案じてくれた。大丈夫って聞いてくれた。ーーその時」
耳を傾けたシューサクに身を乗り出して、飛び立つように半身を宙に晒して彼女が微笑んだ。

「あなたに、会って話したいと思ったの。シューサクくん」

弾かれたように顔を上げた平凡へ、彼女が囁く。
「あたしはこんな汚い人間だったのよ」
重ねるように、桜色の中、人間がうたう。
「こんなどうしようもない人だったの」
奇跡を起こす幽霊なんかじゃない、優しい人間じゃない、最悪なの、と決壊直前の瞳。
「それでも、あなたは、」
こんなあたしがいいって言ってくれるのと俯いた美しさが酷く愛しいとシューサクは思う。
だから努めて、断言した。曖昧に切り捨てて来たものを今こそ手を伸ばして腕の中に。
「コモリさんが、良いんです」
声は澱みなく誤解なく彼女に伝わった様だった。
大きく乗り出したその身体。ふわりと浮いた踝、酷く軽やかに舞って、焦って腕を拡げた中に彼女が飛び降りる。十年もの間、食べ物を口にしなかった肢体は想像していたよりも軽い。
それでも、暖かいし、触れられる。
平凡は尻餅を着いて地面に横になり衝撃を押し殺した。彼女の実体、凹凸のある眩しさ、全部、嚥下して。
「長い時かけて、あなたを抱きしめることが出来た」
感極まって告げれば、えっち、と小さな反抗と唇が落とされる。どっちがえっちだと思いながらも受け取って平凡は微笑んだ。甘い彼女の笑み。溢れるように声が伝う。
「だいすきよ。シューサクくん。絶対戻ったら、言おうと思ってたの」
すう、とひと呼吸。緊張しているのか震えた菫色の彩り。

「あたしと結婚してください!」

余りの大胆さに舌を巻く。彼女の声に平凡は真っ赤になって俯いた。
結婚前提のお付き合いからで、勘弁してください。
シューサクの声に自信たっぷりに彼女は宣言する。
「勿論!十年以上培って芽吹いた幸せ、絶対に叶えるんだから!」
「そうですか、ねえ。コモリさん」
平凡はずっと言いたかったことがある。噛み締めるように心を編んで。

「おかえりなさい。待ってました」

放った微かな輝きに少女が満面の笑みを浮かべた。
ただいま、声が静謐の203号室に落ちていく。今日、欠けていたものがことりと落ちて丸くなる音。夜欠けた寂しさが胸の中に収まった。平凡はひそ、と笑む。その微笑みは、雪解けのようだった。
春の訪れのような彩り。煌きが満たすこの情景。
口づけで熱が灯る。はじまりの時。少女に夜が戻り、彼に、朝が来る。
今だけは平凡は、自分が世界で一番だと断言できる。胸を張ることができる。彼女がこの腕に、この中に。

やっと、ようやく。
芽吹く音。春がやって来た。
しあわせだった。





《ヤカケ》


《夜欠け》







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