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じゃあ少し行って来ますねと平凡が告げれば、同人誌のリクエストは多く寄せるくせに上の空で少女が答えた。いってらっしゃいなのよ、と小さな声。近くまで寄っていって、欲しい本があるのでしょうと問えば、そうなんだけどさみしいわ、と幼子のような寂しげな。
全く以って堪らないなあ、と少しだけ傲慢で性悪なことをシューサクは想う。彼女がこの平凡のことを思って、悩んでくれている、なんて多分、自惚れとかではなくて。目の前に横たわる揺らがない事実。
もし、もし、身体に戻るとしてここでの記憶はどうなるのかしら。
泣き喚いた後の確認する声は枯れて鼓膜に届いた。痛切な声音に、平凡は素直に応える。−−分かりません忘れてしまうかもしれないどこかに行ってしまうかもしれない、幸いは、僕が覚えていることだけれど。そう言葉を継げばゆったりと膝抱えていた格好を止めて彼女はシューサクを見た。涙の浮かんだ菫色の双眸。綺麗な宝石の色。
忘れたくないのよ、と告げた煌きに。少女はずっと思い悩んでいるようだった。
その背中を押してやるべきか、シューサクは悩んでいる。
就職活動に周囲が忙しなくなってきた十月。緩やかに旅立ちの用意を調える四年生の合間を縫って、辛うじて息をして。平凡はバイの友人らと共に幽霊の彼女の買物に繰り出して居た。即売会も、スパコミと夏の大きなものを乗り越えれば秋なんて楽に呼吸が出来る様に思えるから慣れとはつくづく恐ろしい。
近頃の真心こもりの小説の更新は少ないと、買物行く先々で心配をされるからまた。のらりくらり、上手く立ち回るような従兄弟の麗人はこの度は欠席の趣。シューサクはゆるりと茶色の瞳揺らして応える。
彼女は元気なんです、でもスランプ気味で。
そっかスランプかあ早く抜け出せたらいいですねと労わりの声。曖昧に微笑んで受け流す。
この場所は、本当に、書く、描く、創る、作ることに溺れた人間の集まりなのだろうなあとシューサクは拙く思う。その中で結ばれた縁、というものも強く残っているようだった。真心こもりに繋ぐ想い。細く、長く、編むように。
待ち合わせ場所に指定したところでは買物の本の他に差し入れだろう、沢山の紙袋を持って平凡同様、荷物に埋もれた紅髪とオレンジ頭の組み合わせ。
「そっちもか、シューサク」
「うん。お疲れ様、二人共」
「うわー。女王様凄いファン多いんだなー」
可愛い女の子も沢山で羨ましいと変なことを言う女たらしのアンは殴っておいて。
閑話休題。
打ち上げという銘打って適当に選んだ食事処で、停滞した話を聞いてくれと乞うように平凡が切り出せば、彼らは勿論と頷いた。
しかしながら大きな紙袋を持って男三人喫茶店に座れば人目を引く構図。
平凡は兎に角として、残る二人は大層な美形に入るから仕方が無いとは言え、無数の視線が集まるテーブルに座るのは、居心地が余り良くなかった。放っとけ、と慣れた様子でバイの友人が冷たく口にして、ひらりとアンが振り向いて手を振る。黄色い声。女性特有の甲高い歓声に、空かさずバイの友人の蹴りが入る。
ああいう輩はうるさいから、下手に手を出さない、だよなそう約束したよなアン、すんません先輩、もう一度やったらどっか行け、了解しました、シューサクにも迷惑かけんな、すみませんごめんなさい。
友人の、後輩を完全に飼い慣らした様子に微かに目を剥いて、平凡は苦笑気味に首を傾けた。仲が宜しいようで。
促されてぽつりぽつりと紡ぐのは事の顛末。二人と、先に須藤には伝えて置いた。十年前にあの古びたアパートで何が起こったのか、どうして彼女がそうなってしまったのか。
須藤はそうか、と告げてシューサクの髪を掻き混ぜてその後、日を置かずに少女に会いに来た。
話し終えて、二人は、特にアンが泣きそうな顔をしているのだが。大丈夫だろうかと密やかにシューサクは思う。暫しの沈黙。口を切ったのはバイの友人だーーキャラメル色の瞳甘く蕩かせてシューサクを真っ直ぐに見る。
労わるような、甘さだった。
「踏み出して、そうなってハッピーエンドかと思いきや、まさかの流れになったな」
お前は大丈夫なの、と言外に問われて頷く。全部、今のところは、と言えば。
傍らより、全然大丈夫じゃないじゃないですか、と弱弱しい声。青い瞳湖面のように潤ませてアンが言う。
「だって、コモリさん、忘れちゃうのかも、しれないんですよね。俺たちのことも全部」
「そうですね」
「それって、それで、本当に先輩は良いんですか?」
「良いも、悪いも」
彼女が生きていると知った時の身体を支配した幸福感を覚えている。突き抜けていくような感情。あれは、確かに平凡の、幸いで。
「彼女が。選んだ方へ僕は流れていくよ」
告げた言葉に嘘は無かった。平凡は203号室を出る気は無いし、彼女をいつまでも、待とうと思っている。平凡の人生を変えただけの煌きがあの少女にはあったから。
「もし、」
ずっと思い出さなかったら、という為の保険かけといてやるよとバイの友人が唐突に笑んだ。
シューサクの顎、微かに指で持上げて唇の端に彼からの未来を祈る呪い。そっと、柔らかいもの落とされて近づく美しい顔に平凡は目を丸くする。遠くで悲鳴だとかアンの驚いた声だとか、刹那、世界が遠く離れていく。切り離された感覚。
「ええと、」
何事だろうか。目をうろんに彷徨わせた平凡に、うつくしい声で彼が言い放った。
「三年」
三年間。そう、至近距離でキャラメル色の双眸が瞬いた。
「コモリちゃんが戻ったとして三年、オレも黙って見ててやる。その間に奇跡が起きなかったら。あの部屋を出ろ」
「さんねん、」
十年とかそういった長いスパンで見られないのかと一言シューサクが苦言を口にすれば、十年なんてお前死んじゃうかもしれないだろと軽やかな返事。
「直ぐに引っ越せって言いたいところを年単位まで引き伸ばしてやったんだ。お前はコモリちゃんに関すると見境ねえし、生きているのか死んでいるのかも分からなくなる。三年が、諦め時だろ」
きっとその頃には、お前も私生活が忙しくなって幽霊のことなんてどうでも良くなるさ、と告げる唇に怒りは覚えなかった。そういうものかと、ただ単純に平凡は想う。三年経ったら、平凡の心も彼女のことを遠く美しい思い出だと昇華してしまうのだろうか。そんなことはない、と言い切れないから、人とは厄介な生き物であると思う。
時間を積み重ねれば感情を忘れる。
会わなければ人の顔など忘れる。
記憶とは酷く、薄れやすい。
そんなことは、短い人生の上で嫌というほど青年は知っている。
だって今まで誰も、再会しても平凡の顔なんて、覚えては居なかった。道端の雑草のような扱いだった。
だからこそ。
「それでも、出来る限りコモリさんを、心の中では待っていたい」
搾り出すようにシューサクが言えば、それ以上の意地悪を言うつもりは無いのか、そうかよと手を離してアンの隣でバイの友人は頬杖を突いた。彼の芯有る言葉が、平凡は恐ろしいと思う。けれどその声こそ、シューサクを慮ってのものだと知っているから。
「有難う、友人殿」
「別に。お前こそ覚えとけよ。三年だからな。例え目が覚めたって連絡が無くても、コモリちゃんが消えてから三年。アンも証人として覚えとけよ」
王様宜しくそう宣言したバイの友人に、一連の流れに気まずそうに肩を縮めていたアンがくしゃりと情けなく笑んだ。当たり前だけどちょっと派手すぎるパフォーマンスに泣きそうになった、とは。彼らしい言葉だと平凡は噴き出す。
冬は瞬くように過ぎて行き、静寂満ちる203号室。彼女は変わらずふわふわと浮いて、よく笑い、よく泣いて眠れない夜を平凡と過ごした。膿んだように凭れて過ごす日々。リクルートスーツの端が綻びる頃に、幸いなことにシューサクの就職先が決まり、残るは卒業を残すのみ。
何度も夜を乗り越えて、彼女は次の年の春先、心決まったようにーーけれど挨拶を交わすような軽やかさで昼間シューサクに告げた。
「じゃあ、あたし、行くわね」
どこに、とは問わずとも。痛いくらいに分かってしまった。
心臓がうるさい。呼吸を惜しむように胸を抑えて、動悸を落ち着かせる。死んでしまいそうだ、と溺れるようにシューサクは想った。
戻れるんですか、と彼女の言葉を咀嚼してゆっくり返した平凡に少女は微笑む。
「予感がするの。戻れる予感」
それは春告げのようなぼんやりとしたものだろうか。一度目を伏せた平凡に彼女はからからと何でもないことのように笑う。
「大丈夫、絶対、大丈夫なのよ」
なんの、保証が。
なんの、根拠が。
声が絡んで上手く出て来ない。彼女が自信たっぷりに紡いで額に口付けるその気配さえ、愛しくて手放したくないと言うのに。
「大丈夫。夜眠れないからあなたの寝顔を見つめながら考えたの。その長い時間、は一年で充分よ。 あたしはシューサクくん、あなたと進みたい」
それは酷く美しい言葉だとシューサクは思う。
それは酷く、残酷な言葉だと同時に思う。平凡の逡巡踏み躙ってそれでもあやすように、絶対大丈夫だと告げる彼女にとてつもなく涙が溢れて来た。
「じゃあまたね。待っててくれるんでしょう?」
美しい彼女に捧げることができるのは、平凡の小さな覚悟だけ。
「ええ、あなたと歩きたい、そのために。ここで、ずっと待つ、自信はあります」
笑顔を作らないと、そう平凡は希うように想う。涙なんて見せてはいけない。何よりも怖がって居るのは、幽霊の少女なのだから。
少ししてやっと、口端を上げた。また、とシューサクは笑って、手を振った。
にっこり彼女が笑って、春風が吹く。彼女が掻き消える。平凡の目の前、満開の桜の下。
花弁が視界に飛び込んで、瞬いた先にコモリ、という少女の姿はどこにもこのワンルーム、見つけることはできなかった。
20140331