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この体に戻ることが幸せだとは限らないと麗人は言う。果たしてそうだろうかと帰り道、一人で電車に揺られながら平凡は思う。
親友の、そう唯一の友達の兄がとんでも無いストーカーでね、うん妹の彼女も気にしていたんだろうと思うんだけど一人で暮らしていて、あの部屋でコモリを追いかけて入ってきた兄と罵り合って争って、そのままコモリの代わりになるように逆上した実の兄に犯されたんだ、押入れの中からコモリはそれを見詰めながら震えた指で携帯で、メールを当時仲の良かった俺に送って来たんだけど住所が曖昧で、大学の近くのアパートってことと203号室ってことしか分からなくて、手探りで、何とか探して駆け付けたんだけど散々な有様で、受けたショックの余り言葉を失くした。病院に通っていたんだけど、どうしようもなくて、病院の帰り道、俺の目の前で歩道橋の上から飛び降りた、一命は取り留めたけど、眠ったままあの状態さーー十年前、起こったことを停滞を望んだ兄が口にする。冷たい双眸、恨みはまだ残っているのだろうかと目を伏せた平凡の目の前で彼は疲れを調った容姿に写して、微笑んだ。
「散々罵倒したんだ。一応第一発見者だしね。お兄さんとも会った。彼女とも会った。そして、そんな場面に居合わせたコモリを、汚らわしいと捨てた彼女の実の両親から。俺は彼女を引き取ったんだ」
だから彼女には、俺はまだ、従兄弟の兄だけど。今は本当の兄なんだよと澄まして伝えた麗人はぐしゃりと瞳を歪めた。少女と同じ菫色の華やかな色。奥深くに夜の嘶き讃えて。
「このままじゃ駄目だって、本当は分かってる。十年間、コモリをどうしたらいいんだろうって、思ってた。覚えていないのなら一から大好きだって伝えようと思った。だけど、俺は」
息の詰まる気配。君が居て良かったと落ち着いた砂糖みたいな声が鼓膜を滑って落ちていく。
「コモリは君を信用している。俺も、君を信用している。それ以上に、これを明かす理由は無いよ」
さてこれからどうする、と唱えながらも美しい顔立ちからは停滞を望む色。どうしたら良いのか、判断を委ねて全てを任せて。
僕なんかで良いんですかとシューサクが言えば、任せるよと安心した笑顔。無垢なそれ、は正しくコモリと同じ血を引くものだった。
だからこそ迷う。
伝えるべきか、そのままを意地すべきか。
簡単なことだ、一言嘘を吐けば良い。今日従兄弟の彼と出かけたことだって、彼女のために即売会に行く、ちょっとした打ち合わせをしたと言えば。それだけで済む。少女は、コモリにはシューサクしか居ないから、安心して頷くだろう。楽しみにしてるのよ、と華やかな声でうたうだろう。だいすき、と純粋に告げる笑顔に。
平凡は、挟まれて、身動きできなくなる。そんな先が見えながらも、それでも嘘を吐くのだろうか。
のろのろと電車を降りる。かたんかたたたん、と線路が軋む音。連結部分に差し掛かるたびに跳ねていた身体はプラットホームに足を着いて、確りと存在していた。

「勝手なんですよ、皆さん」

シューサクがぽつりとぼやいた声は酷く頼りない。
「僕なんかで、良いんですか。僕なんかに任せて、後悔しても」
重大な選択を迫られていると、いくら鈍い思考回路でも分かる。
コモリと過ごした一年と、少し。かけがえの無い時間。
十年待った彼女に、全てを告げる役目を背負った。大層なことだった。だけど、それで、彼女を全て。背負えるのだろうか、と平凡が重く圧し掛かる。
誰かのための、選択なんてはじめてだった。
あんなにも綺麗な人のための、人生を変える言葉。

あなたはまだ生きているんです、その事実が重くて。それでも、とてもうれしい。

駅を出れば出迎えたのは銀河色の彼だった。裏手のコンビにで働く後輩の須藤。バイの友人に頼まれて迎えに来たと言う、その素っ気無い態度。シューサクの家まで、そんなに遠い距離でも無かったが、その心遣いを有難いと思う。
「収穫は」
「充分に」
ええと頷きながら彼にひそ、と声を小さく訊ねた。
「どうなっても、コモリさんと友達でいて、くれますか?」
コモリが外に出てはじめて友達になったとシューサクに紹介した美しい夜の色。銀色瞬くその瞳に平凡が写る。とても奇妙な顔をしていた。今すぐにでも泣きそうな、けれども嬉しそうな。
須藤は吸いかけの煙草を一度口から離して大きく舌打ちをする。ちりり、と赤い火花揺らして後頭部を軽く叩いた節張った手。
「馬鹿野郎。友達ってのは、許可云々じゃねえっての。もうお前も、あいつも、俺の内側に居るんだから」
言うまでも無く、そういうことだと告げた声に鼻の奥がつんと痛む。すみませんと鼻声で告げれば痛んだ茶髪を掻き混ぜてぬくもりが逃げていった。帰ろうぜと須藤がー気恥ずかしさからかー頬染めて口早に言う。シューサクは笑顔で応じた。
帰ろう、あの家へ。203号室へ。夜眠らない彼女の元へ。


「ただいま」
帰宅の言葉を落としたのは真っ暗闇の空間だった。一人、膝を抱えた少女が部屋の真ん中に居る。返事がない。
その傍まで歩み寄って、もう一度。ただいま、と噛み締めるように言えば彼女は苦しそうな、それでいて嬉しそうな微かな声で囁いた。
「おかえり、なさい」
「大丈夫でしたか」
「うん。今日は、嬉しいことがあったの。アンちゃんがわんころくんと遊びに来てね」
たどたどしく告げる唇を見詰める。震えた肩。触れることが無くても、寄りかかる事が適わなくても、彼女は感情豊かに声を紡ぐ。言葉を編む。激情を一言、一言、包むように。
「とてもホモで美味しかったの。えろくてすんごいのよ、あの二人。でも、でもね、あなたが居なかったのよ。シューサクくん」
最後の一言が、深く心を浚っていく。
ああ、もう、と平凡は軽く目を見張って心中で呟いた。
だめだ、彼女の言葉は、声はいつだって、シューサクの傍に居て、とてつもなく震える弱い心を支えてぐらつかせて、魅了する。
迷っていた心が跳ねた。思い悩んでいた霧が晴れていく。
そっと、電気を点けずに彼女の目の前にしゃがんで、昨年と同じ桜の美しく咲く頃、平凡は一歩を踏み締める。おっかなびっくり、踏み付ける。臆病な何かを捨てる。
「ね、コモリさん」
「ん?」
「キス、してくれませんか?」
少女が驚いた様子でシューサクを真っ直ぐに見詰めた。零れ落ちそうな菫色の宝石。双眸に、平凡は微笑みかける。桜の花弁が部屋の中に入り込む中、夜の帳は落ちていて、黒味を帯びた春の煌き。頬を上気させてシューサクのジャージ着た凹凸眩しい体がにじり寄る。目を閉じて、彼女の口付けを受けた。
触れることが無くたって。
彼女は充分に平凡に、沢山のものを残した。

「ねえ、コモリさん」

あなたが好きですよ、と願いも込めて。シューサクはそっと、押し上げるように口にする。

「あなたは、生きています。生きて、呼吸もしています。体がありました。あなたが、居ました」

え、と零れた吐息を奪うようにそっと平凡からも口付ける。実際に合わさることは無いけれど彼女の思いや戸惑い全てを飲み込む心地。間近で視線を絡ませてシューサクは告げる。

「あなたが、選んでください」

戻ったら、ここでの十年と少しも忘れてしまうかもしれない。
彼女の記録、全て無くなったことになってしまうかもしれない。
彼女の過去にシューサクは居ない。でも、それでも。
彼女が選ぶなら、それでいいと平凡は強く、想う。
「あなたが、忘れても。僕が、覚えてますから」
すきです、ついに告げた声は、少女を決壊させるには充分だった。
馬鹿なのよと縋りついて泣く幽霊の姿。どうしたらいいかと咽び泣く声。寄り掛かる透けた身体をそっと、抱き締めて。あやすように夜を越えて行く。


20140327





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