17



四月。待ち望んでいた電話で、一人で来て欲しいと言われた。その意志にシューサクは逆らうことをしたくなかった。助けを求めるのは簡単だけど、彼女の為に動くと決めたのだからいつまでも躊躇していてはいけない。
「マスター」
明日、休みたいんですと切り出せば彼女の表情が微かに変わった。当たり前だ。明日、なんて。当日休むよりは良いかもしれないけれど、全てのシフトを組み統括する人物からすれば厄介なことこの上ない。彼女は刺青を揺らし、シューサクを見ると、視線を俯かせて煙草に火を点けた。紫煙を取り込んで吐き出して、噛み締めるように、訊ねる。
「どうしても外せないんだな?」
「はい」
「誰かが死ぬのか」
「あるいは」
打つように、暖めていた言葉を返す。嘘はついていない。彼女には吐くつもりもなかった。まだ、人に嘘を吐くにはシューサクは青すぎる。看破されるだろう。それなら、と本音を絞り出す。じくじくと染み出す現状。平凡の目つきに、彼女は鬱蒼と笑んで手を振った。
「分かった。店はもともと一人でやってたんだ。手が足りなけりゃ遊んでる犬でも呼ぶ」
元々このバイトをシューサクに紹介したのは彼だった、明日犠牲になるであろうバイの友人の顔を頭に浮かべ頷く。頭を下げて有難う御座います、と言えば鼓舞するかのように頭を撫でられた。節の目立つ小さな手。魔法を作り出す掌。女性はいつだって鋭くて、いつだって優しい。感謝しながらシューサクはカフェエプロンを畳み踵を返す。

少女の待つ203号室へ。

コモリはあれ以来、何もシューサクに訊ねるようなことはしなかった。薄本を捲って、関係図を書いて、パソコンを弄って、時折そわそわと振り返り彼を見る。菫色が物言いたげに歪んで、くしゃりとして、長い睫毛を伏せてシューサクの隣に寄り添う。眠らない、のに同じ布団に入りたがる。彼女は猫のようにふふ、と微笑み、一緒に居られる時間を愛しいと表情に表す。
何か聞きたいのだと分かっていても、今は何も言うことが出来ずにシューサクは彼女の好きにさせる。平行線のまま歩み続いて、そして、シューサクも進級の折を迎えていた。大学四年生。大きな分岐を迎えなければならない時期に差し掛かっている。
「シューサクくんはどうするのよ?これから」
「就職、ですかね」
「大学院に行くの?」
「それも良いかもしれません」
「この部屋を、」
あと、もしかしたら、一年で。そう言葉少なく眉根を寄せて黙り込む幽霊に平凡は微笑む。悲観的態度を、今更されるだなんて随分と気を使われるものだなあと、ひと匙の苛立ち。そんな遠慮しなくたって。彼女は、シューサクの、もう一部で。欠かさないものだというのに。
「この部屋は出ません、から」
そう静かに吐き出せば微かに少女が笑った。それでも痛ましい感情に、何とかしてやりたいと彼は思う。
だから、
「先日、コモリさんがどうしてそうなったのか、ようやく知っている人と連絡が取れました」
彼女の肩が大きく跳ねる。溢れそうなくらい綺麗な瞳が大きく見開かれて、戦いた頭をそうっと撫でた。触れられないけど、この気持ちが伝わればいいなんて情緒的なことを思いつつ。
「僕が、見て確かめて来ます。だから、ここで待ってて、おかえりってちゃんと言って下さい」
「当たり前、なのよ」
「隠れないで下さいね」
「うん」
「居なくならないで、下さいね」
絶対に、と念押しすると彼女は噴き出した。少し執拗だったかと思う頃には、勿論なのよと幽霊の笑顔。その微笑みに勇気を貰って、部屋を出る。室内は暗がりだが、皮肉なことに外は酷く澄み渡って見事な晴天だった。部屋の真ん中から動かない少女が、シューサクの視線に気が付いて手を振る。いってらっしゃい、告げられる慈しみに声を出した。
行ってきます。


指定された待ち合わせの場所はシューサクの家から乗り継いで電車で一時間、少し遠く離れた駅のプラットフォームだった。見知らぬ駅、不安に駆られながらも指定された駅名を確認しはじめての場所に降り立つ。人間は数人しか居らず、改札口には駅員が一人。自動改札の光なんて見えなかった。
春のあたたかな光がシューサクの身体を包み込む。そっと息を吐いて見回すと、光届かないところに彼が居た。彼女と同じ菫色の瞳を煌かせ、瞬かせ。いつもは撫で付けている前髪を下ろしている。そうすることによって、彼の年齢がますます不明瞭になってーーともすれば近い歳の人間と待ち合わせしているような気分になった。湿布を貼られた頬。随分と奥方にしてやられたようで。
「お兄さん」
声をかけ近付く前に、彼が席を立った。三つ揃えの高級スーツを身に付けた姿。片手には花束の入った紙袋。今日は、早退するから付いてきて欲しい、そう電話口で告げられたそのままに、辛うじて舗装された一本道を彼の後ろについて歩む。
「お兄さん」
「シューサクくん。遠いところ申し訳無かったね」
「いえ、」
聞きたいことは矢張り山ほどあったけれど、もうすぐスパコミだねえという声に押し潰された。は、と目を剥けば引き攣った微笑み。調った顔立ちに浮かべて、難しいこととか暗いことって苦手なんだよとよく通る声で彼が言う。そういうところも、彼女と似ている、と思いつつ応じる平凡の優しさに甘えて低く甘い声が空気に溶ける。
春コミ近くは忙しくてそんな暇が無くてね、はい、勘弁して貰ったんだけどその分スパコミのリストが長くなったよ、はい、また付き合ってね今度はもう分かっただろうし買う方を、お断りします、ええ愛しの我が妹のためだよーー声が仄かに駆けるように追い縋る。
頬の痣が痛むのか、よく彼は顔を歪めている。そんな反応も、そつ無く振り払って、シューサクは革靴が足を止める先を見た。視線の先には灰色の建物。蔦の淡く生い茂る人工物。ぐるりと大きく囲う鉄柵が、まるで城壁のようだった。
入り口には警備員が二人。強面の彼らに、シューサクの存在を伝えて、麗人が敷地内に入り込む。人気は無かった。ただ、空の青だけが眩しく輝いていた。
自動ドアをくぐって入り込むと、青と白を基調とした空間に景色が変わる。緑色のエレベーターに慣れた足取りで乗った彼の黒髪を平凡は追う。追付かない様、花びらを散らす彼の後ろを歩く。
調った指先が選んだ階数は四。
不吉な数字だと、日本人特有の感想を抱き、上昇するエレベーター。
互いに何も話さない。互いに何も口にしない。
引き締めた横顔でコモリの従兄弟の兄は襟元を正し、シューサクは床を見詰めるのみだった。
ふとシューサクは夢を思い出す。桜の花散る鮮やかな色した203号室、震える視界に隙間から覗き込んだ、茶色の切れ端。大きく揺らいで、悲鳴も上げたかもしれない夢の中の少女。紺色のセーラー服。明るい陽光に目を焼かれて、それで、決定打を見ることはここまで無かったけれど。今夜、もし眠るとしたら。その続きが見られるかもしれない、と根拠無く彼は麗人の隣で思考した。
沈黙が膨らんで、たゆたって、浮遊する。そろそろと爆発の折を、迎えそうな時に、ぽーん、と間抜けな音が飛び込んだ。
溺れていた意識がふっと顔を出す。開いた先には明るいカウンター。こちらを窺う目は四つ。従兄弟の兄が美しく微笑めば、声無く、視線を外される。それは、許可された通過儀式のようだった。
後ろを、ついていく。
「答えようか、シューサク君の質問に」
ようやく、兄は口を開いた。その声をぼんやりと聞き届ける。
「俺は、本当にコモリの従兄弟の兄だ。嘘は吐いていない」
「そうですか、」
「そして、ああなってしまっても、彼女を大切にしたいと思ってる。彼女の家族は、もう、俺だけだから」
だから、こうして、十年間。見付けてから長い間そのままにしてたんだ、と滲むようなとてつもない甘さ。胸焼けのする感情に、頷くのみに留める。完全に同意してしまえば楽だということは知っていたが、心まで、同じ方向を向いては何も進まないとシューサクの何かが囁いていた。
「ここだよ」
423号室。そう銘打たれた部屋の下に、名札は一つきり。
ノックをして、流麗な動作で扉を滑らせる。真っ白な部屋。青いカーテンがそよぐ、部屋。窓際にベッドが一つ。飾られている花瓶に丁寧な手つきで新しい花束を生けるとそれだけで部屋が華やぐ気がした。
しかし。それどころでは、無く。
シューサクは目の前の、ベッドに横たわる人間を、信じられないものを見るような心地で見詰める。
「これ、は」
「うん。一目で、分かるだろう?」
「でも、じゃあ、なんで」
「俺には、目覚めが、現状よりもいい事だとは思ってないから」
だから言っただろうと麗人が笑む。彼女の長い髪を梳く優しい指先。それを見ていると、停滞が彼女には一番、いい気がしてしまった。そんなことは、無いと常識的には分かっていても。
目の前に広がるのは横たわる痩せた身体。幽霊のような真っ白な顔色で、肌で、呼吸をする。
真っ白なベッドに横たわって眠る、ぴくりとも動かないコモリだった。


20140323


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