14



今まで築いてきた全てが色褪せたようだった。
雪解け眩しい春前の二月。震える手でノブを回し、ふらつく足取りで帰宅した平凡が心配なのか、ふらふらと彼の周りを絶えず幽霊が動く。四六時中、離れない華奢な身体。考えないように、座って無心になろうと本を読んでいれば背後に寄った長い黒髪がさらりと揺れる。落ち着かなかった。避けようにも避けられない。
「コモリさん」
「なあに?」
迷ったが、ややあって声をかければ彼女は嬉しそうに答える。そう言えば、彼女の名前を呼んだのは二日振りか。帰宅してから、ただいまと声細く告げただけだったかとシューサクは少しだけ後悔した。同居人なのに、礼儀さえも受けた衝撃で忘れてしまっていたらしい。
この二日、死人のように起きては寝て、辛うじて睡眠のリズムだけを刻んでいた体が息を吹き返したようにくうう、と鳴く。
彼女と話したことで安心したのか、正直なものだ。シューサクはげんなりとして溜息を吐いた。
コモリは背後から背中に頭を差し入れて、にょきりと身体伝に生えるようにシューサクと顔を合わせる。人体を栄養源にして成長する化け物、B級映画宜しくそんなものを彷彿として、青年は思わず思い切り咽せた。ただし美少女、というところが非常に海外の映画のようだった。
「ごほっ、こもり、さ」
「ようやく笑ったのよ」
へらあと微笑まれて申し訳無く思う。凄く恐い顔をしていたのよ、と眉間を半透明の白い指でつつかれて眉根を寄せること暫し。目を閉じて、開けば、こんな顔と彼女が顰めっ面してシューサクを見上げる。平生の美しい顔とのギャップにまた、噴出して。
近頃変に考えすぎたかと腰を上げる。大きく、伸びをした背中に抱き着く凹凸眩しい身体。
「元気になったシューサクくんに、うちゅー」
だからと言って勢い良く逆セクハラは止めてもらいたい。口付けを然りげ無く避ければブーイングが降ってきた。じゃあうなじに、とか小さく聞こえた気がするけれど感覚が無ければ反応のしようもない――なんて甘く考えていると、ふに、と柔らかい感触が走る。
何を、顔を赤らめて振り返ればマシュマロを持った姿。そう言えば少し前に従兄弟の兄が彼女にと祭壇ならぬダンボール箱にお菓子を数点置いていったのだった。宙に浮くマシュマロ。にしし、と彼女が笑う。指先に摘んだ春色のもの一つ。
あぐり、と噛み付いて奪い去ってしまえば。シューサクくんのえっち!と可愛らしい悲鳴。
珍しく平凡に軍配が上がったようだった。素晴らしいこと。
そんな、何とも間抜けなことに、彼女は平凡がこの二日間何に思いを馳せていたのか知らない。
そんなものか、と息を吐いて。やっと順調に生命活動を始めた胃袋に従って台所に立つ。何気なく冷蔵庫を開ければ、空っぽの趣。
「コモリさん、コンビニ行きますけど一緒にどうですか?」
前のように誘いを掛ければ、頬の赤み引かないまま彼女は目一杯の笑顔を作る。
照れ臭い、といつもなら自分がしているであろう顔に、シューサクは微笑んだ。何笑ってるのよと少女が言う。別に、と答える声。
真っ白な太ももが宙を蹴って、平凡に後ろから抱き着いた。
今日の彼女はくっつきたい気分なのかとシューサクは好きにさせる。
空中でふわふわと揺蕩う黒髪。菫色した大きな瞳。青空を移して彼に話しかける華やかな声色。
「シューサクくんが呆けてる合間に、春が来ちゃうのよ」
「そうですね」
あなたがもし、人間なら季節感を大切にしそうだ、とは。心に押し留めて彼女の声を聞いた。


「おいひっつき虫」
不遜な声が店内を巡っていたコモリとシューサクに届く。きっと、と、そうっと振り返れば不機嫌丸出しの須藤。コモリが何なのよ、と首を愛らしく傾げる。何も糞もねえよと吐き捨てるように言葉。
言いながら掌が、シューサクの腰を撫でた。ひゃあ、と悲鳴。爛々と目を輝かせた腐女子の前で何を仕出かすのかこの人は。うろんな目で見詰める平凡に気が付いたか、舌打ち一つ。
「須藤さん?」
「シューサクてめぇ、あれから食ってねえだろ」
どうやら舌打ちはコモリの反応に対してでは無いらしい。それはそれでまずい人に捕まったなあなんて思考していると、ちょっと来い、と言われて腕を引かれる。眼鏡の穏やかな男性に一声かけてカウンターの奥へ。
連れて行かれた先は従業員しか立ち入りの許されないバックヤード。そのテーブルの上に次から次へと山積みされる商品。
「須藤さん」
「あ?」
「これ、売り物じゃ無いんですか?」
「廃棄に決まってんだろ馬鹿」
そうは言われても。期限が明らかに廃棄前だし会計済みのテープの切れ端がくっ付いているのは、どう突っ込めばいいのやら。
首を傾げた平凡に良いから食えと言い置いて、須藤はレジよりの呼び出し音に踵を返す。銀灰色の瞳。昼間の明かりを吸い込んで鋭く歪んだ色彩が、全部食い終わるまで帰さないと告げていた。引き攣り笑いを零す。
しょうが入りの中華スープ、卵が眩しい親子丼、緑黄色野菜の揃ったサラダ。デザートはガトーショコラ。これだけたどたどしい字で、シューサク先輩へ、と可愛らしいメモ帳一枚の添付つき。
須藤が手作りお菓子、なんてことはしないだろうからきっと、金糸の伊藤が作ったものだろう。彼は料理が上手いとサークル長が言って居たっけ、とうたかたシューサクは考える。
手を合わせて、諸々食べ物や人々の縁に感謝して。

「いただきます」

「どうぞ召し上がれなのよー」
作った訳でも無いのに、そう生き生きと答える−−席に着いた彼の目の前に彼女が一人。この一年足らずで、完全に家族のような扱いになった少女の姿。
美しさが眩しくて目を逸らす。親子丼の封を開ければふわりと湯気漂う気配。舌の上でとろけた卵に目尻が綻ぶ。
「心配かけて、申し訳ないです」
咀嚼しながらシューサクがそう漏らせば、
「大丈夫!シューサクくんの分の御礼ぐらいあたしがちょいちょいっと」
と、宙を滑るように彼女が踊る。黒髪ひらりと遊ばせて、声を通るは微かな歌声。
「弱虫だっていいじゃないか、たまには胸を張って君を歌ったって。
 強がりだっていいじゃないか、僕のために歌う晴れの歌」
「童謡とかアニソンではないんですね」
珍しいな、とシューサクは思う。歌の得意な彼女はいつも日本語染み渡る童謡や、好きなアニメのテーマソングを口ずさんでいるから。
彼女にしては綺麗な歌詞のものを選んだなともぐもぐとゆっくり食べていると、勢い良くバックヤードの扉が開く。
「おいコモリ!何でお前俺の所属するバンドの曲知ってんだよ!」
「ふふーん。ようつべたんは万能なのよ!しかも須藤さんが歌ってた時のログがあたしのパソコンに!」
「だから木村の音程じゃねえのかよ!胸を張るな!そんなねぇ癖に!」
「まあ失礼な!」
具体的な数字を言ってやりましょうかと声を張り上げるコモリに対してヒートアップしていく須藤の怒鳴り声。それは取り敢えず、コモリの声は全員に聞こえるわけでも無いだろうから、へたすると須藤が一人で怒鳴っている構図になってしまうのだが、それを注意してやるべきだろうかと考えつつ、サラダを頬張る。トマトの酸味が舌を優しく癒して、それから。
「オッス!なんか表の店長さん?に聞いたらシューサク此処だって、って何で須藤くん怒鳴り合ってんの?コモリちゃんと。しかも声須藤くんの分しか聞こえないからすげぇ面白いね!」
平凡が突っ込む前にバイの友人のオレンジ頭。ひょこりと飛び出して明るい笑顔でへらへらと爆弾を突っ込む。
動きを止める須藤。三、二、一、と頭の中でカウントすること三秒。途端、頭から湯気をぼふんと出した彼は立ち眩み、壁に寄りかかったまま打ちひしがれた様子でバックヤードを出て行った。
何というとどめだろう、絶句して尚飲み込むこと暫し。
ぎしり、とパイプ椅子を揺らして彼がシューサクの横に座る。
「話は須藤くんから聞いた。んで、アンからも聞いた。その上でどうしたいか、どうしてあげたいか、でしょ」
ねえコモリちゃん。
そう伸びやかに届いた声に彼女がこてんと首を傾げて歌を止める。
蕩けたキャラメル色の瞳がシューサクとコモリ、両方を移して。どうぞ、と瞳が語る。こんな大切なところ丸投げかよ、とも平凡は思うけれど。
この場面は、確かに自分の役目かなとも、傲慢に想う。
「コモリさん」
「なあに?」
「自分が、どうしてそうなったか、知りたいですか?」
「え」
「もし、知る方法が有ったとしたら、知りたいですか?」
噛み砕くように、ゆっくり言えば彼女の菫色の瞳が大きく濡れて、ゆらりと煌いた。
嘶く、昼の灯りの中。うっすら透けた身体が、シューサクの前に立ち止まって。
「もし、知ることが出来て、それがシューサクくんの手によってもたらされるのなら、」
へにゃり、と愛らしい笑顔。

「あたしは、きっと。この十年間で一番の、幸せものね」

全く以って馬鹿だなあと頬赤らめながら平凡は思考する。
全てを、こんな平凡に任せて。何の取り得の無い男に任せて、彼女はそれでいて、幸せになれると断言するのだから。
分かりました、と須藤より恵まれた飯をかき込む。まずは腹ごなしから、と鼻歌歌うバイの友人と彼女の歌声が入り混じって、うるさいと苦言を呈しに須藤が飛び込んで来るまで。束の間の満たされた昼食を。


20140220




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