10



しとしとと降り頻る冬の雨のことだった。
「コモリさん」
淑やかに声を湿らせたシューサクにコモリは抱えていた膝を崩す。彼女は呻くようにして菫色の瞳を薄く潤ませた。何も言わずともシューサクの不調を悟っているようだった。
そんな、顔をしないで欲しいとシューサクは緩やかに笑う。少しだけ軋むワンルーム。彼女が居て、シューサクは間違い無く幸せだった。平凡が、夢を見た。それだけの話。
「コモリさん、泣かないで」
声を掛ければ彼女は大きくしゃくり上げた。次から次へと溢れる雫。連なる美しさに目を細める。感情が決壊しても綺麗な人は、綺麗なのだと夢現に揺らいだ意識。
次の瞬間、叩き付けられるように、濡れた布。

「何が泣かないでだクソボケシューサク!」

誰のせいでこんなことになってる、と一喝されればそれはもう自身のせいなのでシューサクは素直に項垂れる。
簡単に纏めてしまえば、不摂生がたたった結果の風邪だった。辛うじて中間レポートを提出したシューサクの身体は、何だか怠いなあぐらいのものだったのだが、家に着いてコモリの顔を見た途端に限界の折を突然迎える。玄関先で倒れた身体を幽霊はどうすることもできない。狼狽え、爆ぜたように小柄な身体が駆け込んだ、裏のコンビニ。犠牲者、夜勤中の須藤。
人の良い須藤はその場で様子を見に来て仰天し、店長に電話をかけ、本来なら朝まで仕事のところを五時間ほど交代して抜けてきた。平凡の、力の抜けた肉付きの薄い身体を引き摺り、着替えさせ、現在に至る。
動く事も辛いので掛け布団に顔を埋めて、視線だけで様子を窺えば見事に腹を立てた銀河色。本日も調った服装で右手にはお粥の乗ったお盆。食えるか、と訊ねられて首を振る。じゃあ果物だけでも食えと差し出された桃缶。目の前で開いてお椀に盛り付ける姿は手際が良すぎて何とも形容し難い想いをシューサクは募らせる。言葉にできない歯痒さ。ゆらゆらと視界が回る。コモリは膝を抱えたまま、シューサクの布団の横から離れない。
ほら、と皿を差し出されて関節を熱に侵される痛みに呻く。見かねた須藤に腕を引かれ、上半身を懸命に起こして、受け取った皿から収まった桃を見詰める。震える手つきでスプーンを使い、桃を掬うと、ゆっくりと口内に果肉を運ぶ。するりと滑っていった甘さを嚥下して、一息。
「まだ辛いか」
「ええ、その、呼吸は楽になってきたんですけど身体が」
「熱あるとそうだよな」
ふわりと笑う須藤の双眸が緩やかに歪む。蕩けた感慨にそっと目を落として、痰の絡む喉でシューサクは問い掛けた。熱に支配される思考回路。
「ええと、今日の講義は」
「夜勤明けの一限だけ。もう終わったしアンに出席頼んどいたから平気」
「ええと、」
「お前の方も、サークルの先輩とオレンジ頭のふざけた犬野郎に頼んどいた。アンが終わり次第全部持ってくる」
ふざけた犬野郎とはバイの友人のことだろうか。どうやって連絡先を知ったのかと首を傾げれば、サークル長の眼鏡のあいつだよ、と返事が飛んでくる。成る程、誰よりもバイの友人を気にかける彼ならば確かに連絡先くらいは知っていそうだと頷いて、かつん、と桃を割る。ゆっくりと、一口。
手の打ち方に抜かりがない。こんな綺麗な人に迷惑をかけているのだと、申し訳なさにじわりと鼻の奥が痛んで、シューサクは激情を逃すように息を吐く、ともすれば溜息のようなそれ、に須藤が形の良い眉を吊り上げた。
「何か不満か」
「いいえ、」
「じゃあ何だ。はっきり言え。あの頭弱そうなお前の友達じゃねえし、そんな優しくねえぞ俺」
先輩に向かって頭の弱そう、とは。笑ってしまうが須藤らしい物言いだった。真っ直ぐに、言葉が突き刺さる。厳しさに微かなぬくもりを感じてそれから、ひたすらその態度が当初思っていた彼とは違い、意外なことばかりでシューサクはふっと、息を漏らした。
優しさが沁みる。
こんなちっぽけな人間にこんな慈しみ。
有難う御座います、と心中で呟いて桃を食べ続けることが困難になってきてシューサクは鼻水を啜る。熱のせいか、ゆっくりと頭を擡げた不安であったりとか、感情の波、人恋しさに涙が浮かんだ。視界が歪む。傍らの幽霊の、俯く姿勢。決して触ることの出来な長い黒髪に触れた。頭の輪郭をなぞるように、撫でる所作。
須藤は返事を渋り視線を下げた平凡の顎を、勢いよく掴む。驚いてスプーンを床に落とした彼を見届けて束の間、視線を合わせるように顔を上げさせた。嫌がっても病人。力の抜けた抵抗など、容易に踏み躙って、舌打ちは一つ。
「馬鹿じゃねえの。どうせ、またこんな僕のために手間をかけさせて申し訳ないなどなんだの考えてんだろ」
どうして分かったのか。目を見開いたシューサクの涙の張った視界で須藤が忌々しげに舌打ち。苛立った様子に肩を竦めて見詰めると、平凡の世界で調った銀灰色が光を帯びて歪む。
「お前のその、マイナス思考。ダダ漏れだっての。大方コモリに対してもそんな調子でさっき言ったんだろ。夢見がちなのは結構だが、あんまり変なこと言うな。遠慮もすんな。別に、こんなの、人としての優しさだろ」
お前が罪悪感だとか申し訳無さだとか感じる場面じゃない、と落とした手拭いを拾い上げ薬を渡す肌理細やかな白い手の甲。桃の入った器をシューサクの膝から取り上げ、噛み締めるように言葉を紡ぐ。薄い唇、刻むように、心を穿つように。
「別に、アンも迷惑に思ってねえし、あんたのオレンジ頭の友達も、サークル長も、俺も。面倒とか思ってねえから。弱気になってうだうだ無駄なこと考えるな。薬飲んで寝ろ」
弱気になってるせいか、いつも以上にダダ漏れだぞ、と声がゆっくりと染み渡る。目を見張った平凡の、傍らの幽霊を再び須藤は見遣って、心配すんなと優しい声。ゆっくりと顔を上げた少女に須藤は笑う。
「お前も大袈裟だよな。シューサクは大丈夫だって」
「でも、でも、苦しそうで、あたし何もできないのよ」
「大丈夫だ。死ぬわけじゃない。熱下がるまで誰かしら居るから」
流石に俺がずっといるわけにはいかないけれど、大丈夫大丈夫、とあやすような口ぶりに優しい情景に、堪えてきた涙が一筋つたっていった。ぼろぼろと決壊した平凡に、苦笑気味に須藤が手拭いを渡す。涙を拭って、目に濡れた感触をあてて、堪えきれない嗚咽を胸の奥深くに、背中を大きな手が摩った。目の前の、まだ知り合って間もない後輩の掌。ぬくもり。こんなに優しくされたのはいつ振りだろうかと弱った精神でシューサクは綻びるように考える。平凡の、粉々に砕けて再び生成する気分。蕩ける不安に砂糖菓子をそっと添えて差し出す縁というもの、促されるまま薬を飲み込んだ。煎じた、嫌な味。
「取り敢えず寝とけ。普段隠してるようなことも、全部出てるぞお前。その調子じゃこいつも元気無い面倒なままだから、早く元気になれ」
傍に居てやるからと、美しい彩が優しく笑いかける。ゆるゆると大きく息をして横になること暫く。額に指が一度触れ、冷たいものを貼って離れていく。そっと、薄目を開けると菫色が物憂げに揺らいだ。なかないで、と声の代わりに笑って。シューサクは目を閉じる。
確かに、こんなの全部、熱のせいなのかもしれない。眠った先には何か、軽くなるようなものがあればいいと平凡はうたかた想う。


体が熱で揺らぐような感覚。ゆっくり、目を開けばシューサクの目の前に天井が広がった。須藤の声はしない。コモリの声も、彩もない。――どこか空気が違うようなそれに状況把握に間に合わず惚けていると、がくん、と大きく揺れた視界。薄暗さを増す中で世界が揺れる。はあ、はあ、と息苦しさを感じる動悸。息を切らした、誰か、が押し入れに逃げ込む様子をシューサクは揺蕩う意識で見詰めていた。見覚えのない家具。女らしさの滲む部屋。窓からちらりと見えた桜の木は、確かにシューサクの住んでいる古びたアパートの二階の部屋、なのに。
此処はどこだろう、とぼやけた感覚で平凡は思う。夢だと分かったのは、次いで、彼の意志で視界が動かなくなったからだった。
誰かの視点で、物語は急激に進行していた。
日が落ちて、急いで閉じた先には真っ暗闇。嗚咽を飲み込んで、不安を押し殺して、視界の主である誰か、は俯く。短いプリーツスカート。呻くように滲む場面。目を細めた先で、薄らと襖が開く。
驚いたのか、揺らいだ視界いっぱいに、しい、と指を唇に充てた少女の姿。紺色のセーラー服はシューサクにも見覚えがあるものだった。大丈夫隠れていてね、と幼い唇が刻む。淑やかに細まった瞳。唇の動きに頷くような気配。あ、と声が漏れたのかもしれない。襖が直ぐに閉じる。長い暗闇の後、気配を感じ取ったのか、大きく歯を鳴らした身体。シューサクは見送るように、観客の気分で、見詰めていた。それでも感覚を多少共有しているのか、不安に痺れる四肢は分かる。
何か、の視点。
誰か、の視界の先。
ごとり、と抵抗無く嵐が到来する。耳を抑えて、それで。


「おお!超可愛いじゃん!お嬢様いくつ?うんうん、俺アンって言うんだけど可愛いね!聞いてた以上だ!良ければお茶しない?」
意識の浮上を促したのは非常にテンションの高い声だった。目を開けた先にはバイの友人の姿。確りと自分の身体、であることをまずは確認してシューサクは指先を布団の中で動かす。ひくり、と生々しさの残る映像。瞼の裏に焼き付くようだった。ただの夢にしては目覚めが悪い。
目の覚めたシューサクに気が付いたか、覗き込んでいたバイの友人が緩やかに声を上げる。
「大丈夫かシューサク。魘されてたけど」
「……最悪の趣だよ」
枯れた声。気分は地獄の采配、体調は眠る前に較べればだいぶ楽になった方だった。すっかりと日の落ちた室内、広くもない部屋の隅で押し合いへし合い騒ぐ声。見れば赤毛と銀灰色と黒髪が言い合って声を張り上げて鼓膜を穿つ感慨だった。眉根を寄せれば平凡の長い前髪を退かし、友人の指先が額の温度を計るようにさらっていく。
「うーん、まあ下がったな。いやあ吃驚して気が気じゃ無かったってのシューサク」
「ごめん」
「いいのいいの。こんなこと珍しいじゃん。友達やってきてはじめて、だし。まあ頼っとけっての」
嬉しそうにバイの友人は笑う。その笑顔を見ながら抱き着く幽霊の半透明の身体を抵抗なく受け入れて、悲鳴を心の端っこで聞き届けて、涙目の赤毛のアン。青い瞳に、何か言いたげな気配を察したが、そんなのは後だっていい。
シューサクは彼女を抱き留めたままあやすように声をかけた。だいぶ楽になりました、告げれば良かったと感極まった美しい声。菫色がゆっくりと、煌く。
夢見た内容は、深く考える暇も無いまま。


20140130



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