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愛撫するように大気を細腕が掻き混ぜる。淑やかに降る雨の中、確かに彼女はベランダの手すりに腰掛けて、歌っていた。目を瞬かせた先にも、確りと、間違えることのないそのシルエット。自らが嘗て渡したジャージの上だけを身に付けた蠱惑的な身体。十年の時を人間に突き放されほぼ一人で過ごしたという、美しい容姿を持ったコモリ。人が入れ替わり立ち代り彼女の姿を認めて目を逸らす。
異様だと、異常だと、恐ろしい、と。
幽霊というカテゴリに属するし、存在は、そうなのだけれど。
手をふらりと振れば鮮やかに咲き誇る彼女の愛らしい笑顔。
おかえりなさい、その言葉で。全ての恐怖が緩和されるのだから、今まで恐れて彼女の前から居なくなってしまった人は勿体無い事をしたなあとシューサクは思考を遊ばせる。そして彼女は、自分には非常に勿体無い。


時は彼女と出会って四ヶ月。季節は夏を迎えて居た。
外は気だるく身に常に纏う嫌な湿気だらけ。茹だるような暑さにTシャツの襟首をぱたぱたと開いて閉じて、身体の温度の循環を試みるも、あえなく失敗に終わる。当たり前だ、外気は容赦無くシューサクを攻撃する。攻め手は恙無い。その中で、汗の滴る彼の項を見詰めていた少女がぽつり。
「真夏のバカンス、萌えが必要なのよ」
訳がわからないため黙殺する。
口を噤んで静かに目を逸らした彼へ、今度は回り込んで周到に、視線を逸らせないよう目の前で、少女は追い掛けるように一言。唇を重々しく開いて。
「萌えが、必要なのよ」
区切らなくても理解している。けれど染み渡るように学習は、したくない。胡散臭いなと半目で見詰めれば、何を勘違いしたかコモリはジャージのチャックを全開にした。
「わぁ!」
「はあ」
「わお!脱いじゃった!」
「そうですか…」
所詮は幽霊。そして彼女が着ているセーラー服は冬服仕様。決して涼しくなるわけもないストリップショーを無視して扇風機をぽちりと付ける。大家の年老いた彼女よりの貰い物は錆び付いた歯車のような音を立てて立ちあがり、尚モーターの音を響かせながら生暖かい空気を捻り出した。
暑い。
「ううう、夏コミを過ぎたあたしのご褒美は戦利品を読み終えたら何もない…」
風を受けるシューサクの鼓膜に低音が届く。
そう言えば薄い本買って、と彼女のお願いで従兄弟の彼に連絡をとったのはついこの間か。六万円が通販だけであっという間に消えた。加えて従兄弟の彼自身が買い込んできた薄い本、紙袋二つ。ノベルティーも欠かせないのよときゃらきゃらと宙で読んでいたことは記憶に新しい。そして夏の服装眩しいイケメンは颯爽とシューサクの頬に口づけ落として去っていった、あの衝撃。
そして、読み終えたからと新たな刺激の要求。子供か、とシューサクは出掛けた言葉を飲み込んだ。
「萌えー。萌えが欲しいのよぉぉおお支部巡回も全部しちゃった暇ぁあー」
「暇なら働け貧乏暇なし、です」
と言っているシューサクも本日はアルバイトが休みである。残念なことに。
暫く毎日シフトに入っていた(クーラー目当てに)シューサクを見兼ねてご褒美休暇としてマスターが言い渡した自由な時間だった。何度か辞退した上でしびれを切らした彼女よりの強制休暇なので、どうしようもない。斯くして、久しぶりに丸一日、特に暑い時間を過ごす平凡と幽霊一人。
「わんころくんはー?」
「泊まり込みの短期バイトで那須高原へ」
「あにちゃんは?」
「これ以上彼に借りを作りたくないんです」
会う度に奢りでご飯に拉致される申し訳なさを理解して下さい、と口を開いた矢先に飛び込む汗。吹き出す不快感にシューサクは眉根を寄せた。暑さも寒さも格段好き嫌いの無い人間ではあるが、最高気温四十度近く。生き物にだって限界はある。
項垂れていたって暑いことには変わりなし。目を細めて観察されるよりもましな事をしたい、とシューサクはコモリを見上げてこう、提案した。

「外に出ましょう」

刹那の沈黙。いやよ、と拙く響くワンルーム。途端に押し入れに引っ込んでしまった幽霊に今度はシューサクが首を傾げる番だった。
「どうして嫌なんです?外嫌いじゃないでしょうに」
ベランダの手摺に腰掛けて歌を歌っている場面も多々見掛けている。雀やシジュウカラ、伸びやかに成長した桜の木を撫でる指先だって、何度も。それなのに何を今更と溜息を青年が吐けば、微かに顔を覗かせた少女。
「なんか、バチって、するのよ」
「バチ?」
「ぐいってされる感じで無理するとバチバチ!って」
擬音ばかりで訳が分らない。湿気の多く孕んだ風を仰ぎ続ける扇風機の前、指し示して詳しく話すよう促せば、すすっと襖を開けて愛らしい顔が覗く。コモリ、齢十八歳。セーラー服にシューサクのジャージを腰に巻き付けて、目の前で力説することには。
出られない、とのことだった。
要点だけ掻い摘んで説明すればシューサクと同居するまでの十年間、入れ代わり立ち代わりの人間に嫌気がさし、何度も外に出ようとしたらしい。その度に身体を何かに引かれ、無理をしようとすると、弾かれたように部屋の中に戻る。痛い、という感触をその時ばかりは感じて嫌なの、と尖らせた唇。大層可愛らしい表情ではあるのだが、
「まあ今もそうなるかは分からないですよ。この間コモリさん、言ったじゃないですか。僕と会えたのは十年かけて芽吹いた幸運だ、って」
「う、それでも、」
「じゃあ一度だけ。その幸運に任せて一緒に出てみましょうよ」
ネットばかり齧り付いてると本当に引き篭りのただのオタクですよ、と声にシューサクが出せば渋々と、焦れた後に頷く小さな頭。
「じゃあ、一回だけ」
「はい」
「一回だけなのよ!ちょっとでも痛かったら、やめる」
「はい、行きましょうか」
扇風機の悲鳴を殺す。スイッチがじじ、と嫌な声を上げるが気にしない。唸りながらふよふよと浮いて付いてくる凹凸眩しい身体。紺色のプリーツスカート翻し、黒髪を靡かせてあっという間に玄関先。未だ怖がる彼女よりも先にシューサクは一歩、サンダルをはいて外に出る。不安げに揺れる菫色。
触れることは無いだろうけど。そっと、安心させるように平凡は珍しく微笑んで腕を広げてみせた。
「よし、受け止めますからどうぞ」
「…ふふ。そんなこと無理なのよ」
知ってますけど、と声が響く。幾分か晴れやかな表情で、幽霊は囁いた。
「ありがと」
触れられたら、引っ張って貰うのにーとは。何とも可愛らしいぼやきを残して恐る恐る。人間のように地面に足を着けて、コモリは一歩。そして、二歩。三歩目でドアの外へ、敷居の、外へ。
ん、と飲み込んだ緊張感。

すんなりと、幽霊は何事も無く、外へ飛び出した。

「あれ?」
目を白黒させる美少女。但し透けた身体。先に踏み出していたシューサクの前で長いまつ毛を瞬かせて、子猫のように首を傾げる。あれ、ともう一度疑問符。
その後ろで部屋の鍵を締めてシューサクは口にする。彼女のための祝いの言霊。
「良かったですね。幸運が続いてますよ」
「うん、」
「コンビニ行きたいんで付き合って下さい」
「ん、」
「コモリさん?」
喜びを噛み締めるように何度も見上げる青い空。暑さが日光と共に降り注ぐ地獄の趣。Tシャツを扇いで反応の薄い彼女をシューサクが見遣れば愛らしく、蕾綻ぶ花のように少女は笑んだ。全身で叫ぶ歓喜の声、は音にならない。
「お供するのよ。アイスが、いいなあ」
辛うじて、やっと。掠れた声。
微笑みながらも決壊寸前の菫色。大きな瞳が潤んで、煌めく。直ぐシューサクは前を向いて、振り返らずこう言い放った。
「食べられないじゃないですか」
溢れた嗚咽は、聞こえない振りをして。買ったアイスは二人分。冷たさはゆるりと喉を通っていった。


20140112


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