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3月3日、新居に越してきた男は新しい生活を夢見て手に馴染みの無い鍵で錠を解除すると部屋の扉を開け放った。記念すべき第一歩、―広めのワンルームの部屋、バストイレは別破格の家賃で借り受けたと言っても過言ではない物件。
いいところですよと物件を案内した頬の痩けた仲介人は薄い胸を張って彼に言っていた。紹介された大家も柔らかく年老いた老婆で、老後の楽しみにちょっとした和菓子屋を経営。人柄も良く安心して暮らせるというもの。少しだけ床が軋むのは問題だが、まま範囲内だろう。青年はゆらりと頷いて既に運び込まれていた少ない段ボールを見渡す。
季節は早めの春。彼を待ち受けていたのは優しく包み込むような日光と溶ける太陽。擦り硝子越しにピンクが揺れる。ベランダ近くに大きく聳え立つ桜の木、は大家の彼女の前の前の、主よりの授かりものなのだそうだ。春を告げる感情のある花のようだと大家は微笑んではにかみ、彼を歓迎した。
成る程、言い得て。本日は桜が数輪、ささやかに咲いていた。瞳を伏せていたものをふと、振り返り天井付近に移す。途端、彼を待ち受けていたのは春告げの小鳥なんて可愛いものでは無くて。毛虫やどこかの色彩焦げた虫なんてそんな何よりもきっと、衝撃的だった。

「はじめまして」

満面の笑顔でシューサクを迎えたのは、ミニスカートより伸びる透けるような白眩しい足を持つ、半透明に透けた女子高生だった。黒い髪の毛がゆらりとたおやかに空中に揺れる。菫色の瞳が煌めきゆっくりと細められた。頭頂に天使の輪っかすら浮かべて自由に遊泳する姿。ただし空中。重力に反した、―はて此処は宇宙空間だったかと彼が瞬くこと数分。
口をはくはくと金魚のように開閉して絶句。顔色を白から青、土気色に落ち着かせ言葉を無くした彼、に対し、慣れているのかにっこりと少女は微笑む。優しい声色が鼓膜を擽り困惑に拍車をかけた。
「私、コモリ、と言います」
名乗った彼女はどうやらずっとこの部屋の住人らしい。住人は彼のように部屋に入って、彼女を見て顔色を変え、すぐさま回れ右出ていってしまうと彼女は寂しそうに紡いだ。
条件にしては人が居着かない部屋=破格の家賃。
じゃあ先人に倣ってチェンジで、と不動産屋にシューサクが電話を掛けようとすると目の前に降り立った彼女がしおらしく涙ぐんだ。
いかないでさみしいの。
それが大変愛らしかったので暫くは良いかと彼は諦めた。大概シューサクはお人好しであると誰かにいつか言われた言葉を思い出し自らを慰める。
代わりに大家に訊ねに行けば、知らなかったのと目を丸く見開いて言葉を紡ぐ姿。彼女はいい子だと保証まで付け加えて食料を渡された。賄賂か。たんまりと袋に詰め込まれた米と和菓子に嘆息一つ。諦めるより他無いということだろうか。美しいものを、泣かせることは良くないと姉に刷り込まれた言葉が浮かぶ。噛み締めるように反芻して部屋に戻ったシューサクは手早く荷解きを始めた。澱みない手つき。彼女は変わらず其処にいて、シューサクの選択を無垢に喜んでいるようだった。

しかし諦めて早々、少しだけシューサクは後悔した。

身体に支障は無い。夜もぐっすりと眠れるし奇妙な同居人が居ると考えれば元より細かいことは気にしない性分のこと、すぐにこの環境には順応していった。けれども一週間も過ぎて、やけにコモリが交遊関係を根掘り葉掘り聞いてくる。おかしいなとぼんやりと思いながら友達に話すような気軽さで新しい環境や出来事を緩やかに打ち明けていれば、夜中。ふと目をさました青年の部屋の天井で、昼ドラも斯くや―と唸りたくなるくらいの愛憎劇を宙に指で描いていた。仄かに発光している物語の主人公はシューサク。
登場人物は全て男。
矢印で書かれた相関図、ハート散りばめられた歪な縮図。まるで天体図のような広がりに無言でうろんと視線を彷徨わせる。見ない振りをして彼は目をふせて、いや見ない振りは良くないと上半身を起こした。
「あ」
おきてたの、と震える彼女の声。ぎこちない笑顔ににっこりとシューサクは微笑み返し電気を点ける。
どうにも嫌な予感が拭えない。
時刻は真夜中二時半。青褪める彼女に訊けば迷い困った視線が押し入れ辺りへ一度泳いだ。彼が直ぐに思いつくもの。確か、そこには一つだけ前の住人のものだと思わしき荷物があった筈だ。段ボール一箱だったので大して気にもかけなかったが、これは何かがあるに違いない。
腰を上げて押し入れを開けるシューサクへ彼女の可憐な悲鳴。

「だ、だめっ開けたら禿げる!」

幽霊が禿げるか。
言葉なんて無視。問答無用で箱を電気の下に晒し、開けばそこには薄い本が詰め込まれていた。薄い本詰めの段ボール。びっしり、よりもびっちり、に近い密度で詰め込まれた諸々な執念じみたもの。ジャンルは多岐に渡るがどう見てもこれは同人誌であり、恋愛の対象は男と男によるものだった。
シューサクの姉はその方面に大変深い女性だったから、わかってしまう自分が憎らしいのか感謝すればいいのか。
そこで思考回路は停止。
同居人の幽霊は腐女子。奥底まで腐りきっていて、三次元をも美味しく頂いてしまうような。
一つの結論を打ち出し、恐る恐る彼が後ろを振り向けば、コモリは大号泣していた。
「お願い捨てないで…」
涙が連なるように落ちていく。不平不満罵詈雑言全てを飲み込み、シューサクが理由を伺えば。彼女は鼻水をすすり、えづきながら必死に訴える。そんな醜態を晒していながら彼女は変わらず愛らしいので、またそれは世の中に不公平なことだと自らの容姿を鑑みてシューサクは溜息。
「お、男の人だってさあ百合とか男の娘とか大好きじゃん。これだって君たちで言うところのエロ本でありバイブルだよ。エロ本捨てられたら困るでしょ?聖書捨てられたら神父さんは職を無くすしキリストさんは絶望の趣だよ。お坊さんだって路頭に迷う。だから捨てられたら私も困るの」
「僕はエロ本持って無いですけどそうなんですか」
鬼気迫る調子で少女は延々と口をよく動かすけれど言ってることが全く以て滅茶苦茶だった。シューサクの目の前に用意された選択肢は二つ。捨てるべきか、引っ越すべきか。しかしながら学生の身。未だ存在していることが幻のような好条件。こんな格安物件を手放すことは惜しい。
そうしたらこの本を捨てるしか。視線をダンボールへ彼がちらりと遣ると少女は空中で肩を大きく揺らす。若干潤目で躊躇われるが、先々のことを考えても此処で厳しくしておくしか。ましてや幽霊と、同居を、何も対策をせず今日まで許してきた事実を彼女には考慮して欲しい。
冷静に唸ること一分。颯爽とゴミ袋を広げた彼に下を向いて無言だった彼女の。畳み掛けるような、声。

「捨てたら呪う」

地獄に落とすような趣。本気で、呪う感慨しか窺えなかった。躊躇なんてひとかけらも無い。静謐に、冷えきった部屋の温度。地を這うような感情にすっかり怯えたシューサクは素早く本を元に戻して、おずおずと。膝を空中で抱えた彼女へ改めて、声をかける。
「腐女子なんですか?」
「はい…ネタにして、ごめんなさい」
涙声。先ほどとは大きく違う彼女に苦笑と溜息がこみ上げ、恐怖が緩和される。労るように次いで問いを投げた。
「他に隠してることはありませんか?」
「はい、だからえっと、出ていかないで下さい…」
この際だから隠し事を明かすよう求めれば、本当に何もないと頭を振って少女の菫色の瞳が真っ直ぐにシューサクを捉える。ほろほろ泣きながら言うコモリは、それはそれは美しく可愛かった。長い髪の毛が揺蕩うようにして、空中で踊る。宙で膝を抱えたコモリ。短いスカートがひらりと捲れ真っ白な太股がシューサクの目の前に晒された。次いで少し見える黒のパンツがいやらしくて、それ以上に困ったように泣く彼女が愛らしくてシューサクが折れる。
代わりにと条件は一つ。頼むから、と懇願すら滲ませて。

「あなたが腐女子なのは気にしません、引っ越しもしないし捨てません、から。ジャージに着替えて下さい」

 
20131113


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