12
秋口の木枯らし吹いた美しい紅葉風景が目の前に拡がった。べべは流れるような赤の中に飛び込んでいく。たゆたうような赤黄ほんの少しの緑、息を思い切り吸い込めば森の匂いで肺が満たされた。山なんて久しぶりだった。毎日海は目の前にあるけれど別段見たいとは思わない。行かずとも周りには潮騒が常にあるから。
折り重なった水の波紋の上に立ってべべは、むむむ、と小さく唸った。
これもいつもの夢かと景色に目を見張りながら思考する。
さきほどまで、ちぃと丸丘と、ノーチェと一緒に夕方の休憩をしていた筈だけれど。そう、ばば抜きをしてべべが負けて、人数分の飲み物を買いにいくことになって。小銭を忘れたと《浮遊物科》の扉を潜った。
無機質なロッカールームから小銭で重たくなった財布を取り出して、踵を返した途端に耳にするりと飛び込んだ、ぴちゃ、という音。なんだろうと思ってーもし水の栓が閉まってないとかなら、閉めなきゃとか思考したことは、覚えている。
向かった先は平生なら丸丘と鳥が管理しているミズクラゲの加工部屋。半分だけ乾いた、半透明の彼らを見た瞬間意識がふわりと遠のいて。
「こう、か」
困ったなあとべべは思う。誰かの秘密を覗き込むときにはいつでも、狙ったかのようにミズクラゲはタイミングが悪い。こんなことをしている間に現実のべべの身体が鳥と丸丘の職場である部屋の、ミズクラゲに何もしていないといいのだけれど、と視線を前に遣った先に。小さな兄妹の姿。
見目は少しばかりふくよか。いい家庭で大切に育てられていそうな、二人が揃いの服を着て落ち葉を踏み締めている。さくさく、というよりは地面に縫い付けているような踏み方。随分と執拗に踏むなとべべが見詰めていると少年が顔を勢い良く上げて少女へ自慢げに主張した。
「ほら!こんなにしずんだぞー!おれのほうがおもいね!」
「えええ、そんなこと」
二、三回ほど同じ場所を少女は踏みつけて、歯噛みする。どうやら彼には勝てないと悟ったらしい。くやしい、と高い声がべべの耳を劈いた。
「今年もおにいちゃんのかちかあ」
「ねんきがちがうんだよ、ねんきが」
「一年しかちがわないでしょ」
「でも、一年って大きいぜ」
そのまま少年は歌うように彼女との一年の差を上げ連ねていく。真新しいランドセル、大きな校舎、給食の美味しさ、休み時間に友人と過ごす時間の鮮やかさ。少女にはまだその経験が無いのだろう。目を輝かせながら、早く一年生になりたいと小さく呟いた。
「なれるよ。来年だろ?」
「うん」
「まってるから」
いっしょに登下校しよう、とゆびきりげんまん、べべの目の前で幼い約束が交わされる。ゆびきりげんまん嘘付いたら針千本飲ます、指切った、と笑いあう二人の合間には仄かな愛情も見え隠れしていて、兄妹にしては随分密な気配すら漂わせていたけれど、べべはそんな状態には気が付かず、情景をしゃがみこんで見ていた。
鳥の時よりは自由に身体が動く。でも触れることは適わない。前と同じようでいて、少し違う世界だけど。
これは多分、丸丘の秘密、だとべべは思う。
答えはいつものように、返ってくることは無い。
ただしその予測が正しいと言わんばかりに舞台は小学校を通り越して突然高校へ。
記録の中の丸丘は今と変わらずふくよかな身体をしたままだった。対して、少女は細い、しなやかな体つきに。女に、なったのだと思う。周囲の目を引く女性だった。そんな女性でも、丸丘の傍を離れないまま。二人は睦まじく過ごしていた。帰る先は一緒、家の中で絡めていた手を離す。互いに目配せをして。
「ただいま義父さん」
「ただいまぁ、お義母さん」
伸びやかな声と光景がべべの後ろから罅入って、みしり、と音を立てて崩れたのは次の瞬間だった。
ガラスが粉々に弾けとぶように平和な家庭が崩壊する。一番にべべが揺さ振られたのは悲鳴だったーーそこは同じ場所の筈なのに、電気は落ちゴミが散乱し、酷い有様だった。
なにこれ、とべべは唖然とする。凄い変わり様だった。あんな綺麗で平和な家からは想像もつかない。
その横、二階から長い髪の妹が、男性に引き摺られて降りて来る。
「やだぁ、お父さん、やだぁ」
すすり泣く様に痛いよと懇願するのは、妹である少女。制服のままだった。見える肌の位置にはガーゼと湿布、痛々しい見目をしている。その後ろ、しばらく後を丸丘が上半身だけ這って付いていく。顔が腫れ上がって居た。腰から下の力も、入れることが難しいようだった。
ずりり、ぺたん、ずりりり、ぺたん。
力は弱いが必死に進んで、彼女たちに追いついて、止めようとしているようだった。
先に向かった二人が部屋に入って、鍵が落ちる。やだ、やだ、と細く懇願する声。それが、本格的に泣きながら叫び助けを求める声になった。布を裂く音と、殴打音。べべは目を見開いて扉の外で丸丘を見ている。ーー見ることしかできない。だって、それが今までのパターンだから。案の定、やってみようとしても部屋の中に入ることはできなかった。何も、触ることも出来なかった。扉を叩くことさえも。
「離せ、よ、クソおやじ」
丸丘は悪態を吐きながら懇願する。
「おねがいだから、そいつだけは」
止めてくれよ、と涙を腫れ上がった両目から滝のように流して、懇願する。
「やめてくれよ、おねがいだから、さあ。そいつは女の子なんだよ、ねえ、親父、あんたの、娘、なんだよ。俺にしなよ、俺ならあんたの子供じゃない、それに、そいつは」
あんたの妻じゃないよ、と丸丘は上半身を持ち上げて扉を叩いて訴える。何度もうねる木の板。でもそれ以上揺らぎもしない。中から水音と変わらず殴打音、痛いよ、お父さんと声が響く。うるさい女の身体しやがってお前がそこにいるからこうして穴を使ってやるのにどうして反抗するんだ喜んでるじゃないかこんなにそんなところはあの女そっくりだなーー呪詛のような言葉が止まった瞬間、彼の中で何かが弾けるような気配がした。
べべが立ち尽くす目の前で、丸丘は扉の横、靴箱に立てかけてあった金属バットを大きく振り上げる。
鈍い破砕音。木が折れる音。
二度、三度、四度、何度も打ち付けてようやく扉の蝶番が壊れる。大きな身体で寄りかかった先、扉と共に見とめた部屋の中で汚された妹の姿。床に散らばる衣の破片。そうしてその顔を見た瞬間に、丸丘は金属バットをその覆いかぶさる獣の頭を。
「っ、あ」
脳天割られたような気分でべべは目を覚ました。
ふらつく、身体を近くの作業台に掴まって支える。半乾きのミズクラゲの横。先程まで商品が並んで居なかったところへ一面隙間無くミズクラゲが並んでいた。これから眠子によって様々な思い出を吹き込まれる箱。額縁、たち。
息を切らして今見たものをべべは懸命に嚥下しようとする。ーー気分が悪い。呻いて、よろけてバランスを崩す。
ふらつく、骨が浮き出た貧相な身体を後ろからひょい、と持ち上げる影が一つ。
「何やってんのよあんたは」
「まる、おかさ」
ん、と紡いだ瞬間に涙が溢れ出た。その表情に覚えがあるのか丸丘は目を逸らす。
見たのね、という声に。見たよ、とべべは言う。
「見たの、見た、よぉ、何も、出来なかった。ごめんなさい、」
「記憶に何か出来るわけないじゃない……馬鹿ねえ」
飲み物買いに行くの一緒に行くわ、という丸丘の身体に背負われたままべべは《浮遊物科》を後にする。作業部屋を遠く離れて、小銭でお腹が膨れた財布がべべの作業着の中で揺れた。
「あんたが見たのはあたしがこんな格好をはじめた理由よ」
今でも覚えてるもんねえ、吸い取られるぐらいには、と落ち着き払った調子で丸丘が言った。
あれが今から十年前、と告げられた時間の流れをべべは涙の止まらないまま頭で捉えていく。十年前。制服を着て、べべよりも若い二人。安寧の家であった彼の場所でなにが、そして。妹の、彼女は。
「別に何も不思議な話はないわ。義父は酒に弱かったのよ。飲んだときの暴力がどんどん酷くなって、我慢ならなくなった母が浮気して出て行った。残されたのは私と妹だけ。で、あんなことが起きたのよ。……女のあんたには酷いもん見せたわね」
「ううん、だいじょうぶ、びっくりしたけど、」
強がりね、とため息交じりの声。
「終わった後の方が酷かったもんよ。殴って重体にした義父は逮捕され、まあ私は情状酌量をかけられた。長い合間暴力を受けてたから、ってね。そんなに長い期間置かずに妹と再会したはいいけど、彼女、ちょっと頭がいかれちゃってねーー自分を、弟だって言い始めたのよ」
「おとうと」
「そう。んで私がお姉さんだって。笑っちゃうでしょ?」
化粧も女装もそこからよ、と噛み締めるように言う彼にべべは堪らなくなって首に抱き付いた。ちょっと歩きづらい、と言われても。いいもん、と子供のようにしがみつき続ける。
「まあ、残る人生ね。妹がそう思い込んででも幸せになりたいってなら。付き合うより他無いもの。だって助けられなかったし」
出来るのってそれぐらい。淡々とした声をべべは聞いていた。
本当に?お節介かもしれないけれど、本当に彼はそう思っているのだろうか。
そんなべべの思考を読み透かしたように丸丘が言う。
「別にこれ以上の解決策もハッピーエンドも欲しくないわ。もう過ぎちゃったことだもの。それに、私、少しだけ今を楽しんでるの。女装も悪くないわ。お洒落だし。それに」
二人だけになったから、と言われた言葉を理解するのに少しだけ時間を有した。べべが驚いて間近で彼を見ると、彼はゆったりと微笑んでいる。
そうしてはじめて、べべは丸丘と妹の合間にあった大人の愛情を一欠けら理解したけれど。それを口には出すことはしなかった。
だって丸丘は、彼女の王子様みたいなものだし。
そうか、と頷いて。べべは子供みたいに擦り寄った。大きな背中。
「丸丘さん、お兄ちゃん、だもんね」
「そうよ。はじめて会ったときから、義父に連れられてやってきた彼女は私が守るんだって決めてるもの」
「そうだよね。うん。かっこいいねえ」
本当に、かっこいい。
噛み締めるようゆっくりと言えば、褒めても何も出ないわよなんて言いながら丸丘は頬染めて笑った。尤もそんな照れた顔は、ひと呼吸置いたらがらりと変わったけれど。
「そう、だから。あんたも少しは頼りなさいね」
なんたって、お兄ちゃんだし、と自信に溢れた声を聞いて少しだけべべは今日という日が、救われたような気分になった。
「うん」
鼻水を啜って涙を袖口で拭う。
彼がそう言うなら、それもいいかも、なんて。べべは神様に丸丘の幸せを願う。
ねえ神様、いるとしたら。どうかこの人が妹と、幸せになれますように。
「だからね、妹が余りにも完璧だったから。あんた見てると年頃の女性としてはどうなのって思うわけよ」
次の低い声に背中が震えた。
「げ」
「げ、とは何よ。今度服も買いに行くわよ」
約束、と言いながら買った缶ジュースを片手にぶら下げて丸丘が歩き出す。結局甘えてしまったし、何だかんだで優しい人だなとべべは思考する。
「ねえ丸丘さん」
その大きな背中にべべはこう提案した。
ゆびきりげんまん、しようよ、と高らかに。それはちぃやノーチェも知らない、二人だけの秘密事。どうなっても変わらずに幸いが実って、というミズクラゲの頼み言。
遅い、と告げられて落とされた、ちぃからの手刀は痛かったけれど。酷くべべの心に沁みた。今いる場所が平穏なところだと、教えてくれているような気がして。
破顔したべべの腫れた目にノーチェがそっと温かいお手拭きを差し出す。ありがと、とはにかんだべべに丸丘の嘆息ひとつ。柔らかい顔だった。良かった、とべべは思う。今を生きている、顔だわ、とも。
忘れていたつらい事を、もし思い出したとして。べべは丸丘のように受け入れられるのだろうか。自らへの問いだけが後に残って、べべの心をそっと撫でていく。
20150312