11



縋るような一歩さえあれば、微かな光さえあれば、人間は遅い一歩でも少しずつ生きていける、とべべは思う。それと同時に思い出すことは、思考し進むことの無い人間はただの猿よりも劣る、と言われたかつての一言だ。
そんなことないわ猿以下なんてやめて頂戴、とべべはその時幼子のように泣き叫んだものだけど。
今こそ、その言葉は正しかったのかも、と思わざるをえない。
「みんな生きてるわ」
凛として、まっすぐにべべは臆することなく言う。恐ろしいと震える足、それを見ない振りをして。
社員食堂の真ん中、ちぃの隣に置いてきた醤油らーめんは伸びきって目もあてられないような状態になっているだろう。食べている途中なのにどうしようとべべの間抜けな部分が囁く。そうね、勿体無いねとべべは心中で相槌を打った。
でも、それよりも。聞き逃せない一言があった。
そのためにべべは立ち上がって、こうして進んで、此処に居る。
「もう一度言ってよ。あたし馬鹿だからすぐ忘れちゃうの。何がおかしいか。何が死人なのか」
冷え切った自らの声。恐ろしさを奮い立たせて懸命に紡いでいるというのに、べべには別人の言っている言葉のように聞こえる。現実味が無かった。
「さあ、言ってみて」
まるで死んだ祖母に似た調子の、芯ある声。
そんな言い方に少しだけ、ほんの少しだけ。べべはこの間会った祖母に感謝する。強さをわけてもらったのかもしれない、と思いながら。


そもそもの始まりは昼食を忘れたべべの発言からだった。
「ここって社員食堂はあるの?ちぃさん」
その声に胡乱に視線をさ迷わせたちくちくハリネズミ。小さな頭がぐりんと回る。一面のミズクラゲを見詰めながら。しばらく唇を結び思考した後、無いことはない、と彼は小さく返事を発した。
随分と自信無さげな返事ね、とべべは密やかに思う。
「あるにはあるのね」
じゃあ行こうかな、と自分のロッカーから財布を出して、黒い作業服棚引かせべべが言う。平生ならば食事を忘れてしまっていても眠子や餅村からー作りすぎたからという名目でーおすそ分けがあるのだが、その二人は本日休みの趣。べべの手元には食べ物がない。じゃあ一度くらいは社員食堂なるものを利用してみたいと思うところ。
《漂流物干物工場》は大きな工場である。そこにある食堂、食事もそう不味いという噂も流れてこないから、酷くはないのだろう。ーーカレーうどん、蕎麦、天丼、らーめん、スパゲッティ。頭の中をぐるぐると食べ物が回り、べべの胃袋がぐぐうと鳴る。はて何があるのやら。
鼻歌交じりのその裾を、くん、と引かれべべはつんのめる。
振り向けばちぃが真っ直ぐにべべを貫いた。真ん丸な小さな瞳。
「おれも行き、ます」
「……昼食忘れたの?ちぃさん」
でも彼は先程ノーチェが作ったであろうサンドイッチを広げていたような。
首を傾げながら言えば、サンドイッチはおやつです、と棘棘した声が響いた。彼女はノーチェを思わず見遣るが何も反応は無い。瞳のレンズもひたりと動きを止めて、こう言ってはなんだけど、何かを悩んでいるみたいな。
機械でも悩むことってあるのかなとべべは思い、再びその思考を腹の音にかき消された。兎に角食料が必要。
「お腹空いたー。じゃあ一緒に行こうよちぃさん」
「うん」
二人で食堂ならば、長く勤めているちぃのこと。迷うことも無いだろう。大して悩みもせず頭を切り替えてべべが言えば、ちぃは頷いてロッカーから財布を取り出した。準備も万端、よし、と一歩踏み出すところへ大きなお腹。
受け止められるようにして埋もれたべべに腹の主が言う。

「何、あんたたち食堂に行くの?」

言いながら埋もれたべべの身体を軽々と救い出したのは丸丘で。乱暴もせずべべを引き剥がした彼女は変わらず愛らしい髪形をしており、べべよりも身なりに気を遣っているようだった。
「うん、一緒に行く?」
思えば久しぶりの邂逅だとべべは思う。働いている場所が少し違うだけで彼女と全然顔を合わせていない。確か、彼女とはべべを迎えに来てくれたあの日以来だった。
もっと仲良くなりたい。彼女のことを知りたい。そんな一欠けらの小さな希望を抱きながら、べべが暢気に誘いをかけると、ちぃが後ろからべべを諌めるように声をかけた。
「べべ、丸丘は食堂へは」
「別に良いわよ」
すんなりと彼の声を遮って返事が上から降ってくる。
ちぃが目を丸くするのが分かった。いいのか、と小さく発した声にいいのよ、と丸丘の穏やかな答え。
何が、いいのか、何が駄目なんだかべべには理解が出来ないけれど。素直にこの返事は嬉しくて笑顔が浮かぶ。
「本当?」
「ほんと。ちょっとあんたとも話したかったし」
待って、と紡ぎながら愛らしいがま口財布を持った丸丘がべべの後ろに並ぶ。
「ほら行くわよ」
「ありがと」
柵を潜り抜けて《浮遊物科》の優しい空気を後にする。
一歩踏み出せば周りは酷く静まり返っていた。工場の共通の休憩時間なのに、どうしてこんなに静かなのか首を傾げたべべに後ろからちぃの高い声が飛ぶ。
曰く、食事は基本的に社員食堂で食べること、と社内規定にあるらしい。
でも今までそんなこと聞いたことが無いよ、とべべが視線で訴えれば。うちは例外と丸丘から返事が飛ぶ。
「浮遊物科は好きにしていいんですよ」
「ふぅん、特別扱いみたいな?」
「まあ、そんなものね」
社員食堂は小さな売店の目の前を右に曲がって奥深く、遠く歩いたところに存在していた。駐車場を挟んだ向こう側。砂利蹴飛ばして行けば、まず真っ先に鼻腔を擽ったのはかつおだしの匂い。様々な匂いが飛び込むにつれ、べべの胃袋が大きく鳴り響く。それは彼女を挟んだ丸丘とちぃには丸聞こえで、みっともないと丸丘に注意されながらべべは入り口を潜った。
沢山の声、見渡す限りの人の姿、食器の触れ合う音。想像よりもひしめき合う人間と、その空間の大きさ。
こんなに大きな食堂なんてそう見たことも無い!
べべは子供のように視線をきょろきょろと辺りに巡らせて、券売機に並ぶ列に引かれていく。寝癖交じりの毛先が頬にささる、と丸丘に小さく文句を言われても右から左へ流れていくばかり。
何分か一台の券売機を占領して悩んだ挙句、選んだのは醤油らーめん。べべの叔父が好きな一品だった。券をこちらに、と指し示されたカウンターに紙切れ一枚を置く。直ぐに顔を伏せたべべは気が付かなかった。目を丸く驚きに見開いた食堂の人間の、その反応に。
ちぃや丸丘も各々食券を出して、つつがなく出てきた品物をお盆に載せていく。
ほかほかと湯気を上げる麺はべべの瞳の中で輝いて、早く食べてと急かしているようだった。勿論すぐに、と口の中で答えてべべは唾を飲み込む。
「席は」
「こっち」
「うん」
端っこの、人気の無い席に丸丘が率先して向かう。その後ろにカルガモのように引っ付いて向かう貧相な女と小さなハリネズミ。
手を合わせて、箸を取って。食欲を満たすためにすすり始めるべべは、しばらくは食堂の有り難味を噛み締めて味わっていた。−−そう、しばらくは。

はじめは囁き声だった。

次に聞こえたのは罵る声。最後に耳に滑り込んできたのは、個人を指し否定する言葉。
何だか、まるおか、と聞こえたような。
思わず箸を止めたべべに目の前でうどんをすすっていたちぃが額を抑える。
「聞くな」
「いや、でも」
聞こえたもの、とべべが反論する。耳を周囲に向けながら。べべが問うように視線を遣れば、隣の丸丘はカレーライスを食べながら顔を上げない。どうやら気が付いていないようだった。べべは胸を撫で下ろし、らーめんを口の中に放り込んでいく。
何が起こっているのか。それは、気が付いた途端にべべ達へとあからさまに牙を向けた。否、今まで気が付かなかっただけでべべ達がこの食堂の入り口を潜った瞬間から、それは始まっていたのかもしれない。
「あいつらが」
「ああ、久しぶりに墓場から出てきたな」
「相変わらず惚けた面してんな」
「餓鬼も生きてるみてぇだけど」
「あ、あいつこの間問題起こした奴だろ?」
嘲笑、悪口、悪意のある声。捕らえようと思えばいくらでも思考に飛び込んできてべべは眉を顰める。
なにここ、と心中で吐き出してようやく。ちぃの応える声が小さかった原因を理解した、気がした。
《浮遊物科》は社員食堂の利用が自由。それっていい意味、ではなくて。
そもそも《漂流物干物工場》における《浮遊物科》の扱いって、そう。はずれもの、では無かったか。
べべの脳裏に蘇るのは《流木破片科》で自らが起こした嵐の時のこと。
そうか、とべべは思う。そうか、だから。あそこまで行きたくなさそうな姿を見せて、ちぃはおやつだなんて言い張って、丸丘までここに付いてきた。本来なら一人でだって行かせても良かったのに。こんな気分の悪いところ。
何も知らないべべに寄り添うようにして。べべと一緒にこの悪意を受け止めに。
「丸丘相変わらずあんな格好してんのか」
「社会人として失格だよ」
「そもそも人間的なモラルってか」
「ちげえねえ。男の癖によぉ、女装とか」
女装、丸丘が、じゃあ、彼女じゃなくて。
そうだとしたら、酷く申し訳ないことをしたとべべは思い、箸を置いた。無知は罪ではないとどこかで聞いたような気もするが、ここまで本来ならば頭が回っても良かった筈。
「べべ」
「どうしたの?」
ちぃは諌めるように、丸丘はのんびりとした調子で。べべを見る。
その二人の前で、べべはへにゃりと力抜けた笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、二人とも」
だって、こんなの耐えられない。
わがままに付き合ってもらってごめんなさい。
べべは立ち上がって、身一つ、引きとめようとして目の前から飛んできたちぃの制止の腕振り切って、先程から丸丘ばかりを名指し悪意を投げる集団へ。歩んでいく。ここにはミズクラゲの一つさえない。汚い人間ばかり。物言わず語るものは無い。だから、文句があるならその口で。
「ねえ。おじさんたち」
振り返った厳つい顔へ、べべが言う。
「もう一回、何が失格なのか何がおかしいのか、言ってくれる?」
中途半端に聞こえたから悪口かと思って、と笑顔でべべは言う。
その笑みに、食堂が静まり返った。沢山の音の中でべべの声だけが伸びやかに響いていく。
「あたし馬鹿だから、おじさんたちがあたしの先輩の悪口言ってるようにしか聞こえないの。ねえ」
呆然とその声を聞いていた集団の、一人が引きつり笑ったままべべを抑えるようにして肩に触れる。少しだけ卑しい笑いだった。こんな貧相な身体何が良いのか分からないけれど、触って慈しまれて大人しくなるような子供じゃない、とべべは真っ赤になった視界で、思考した。
手を振り払う。
「ねえ、乱暴に触る前に。お話聞かせてよ」
思い切り叩いた手は少しだけ赤くなるぐらいだろう。微かに視界の端に下がっていく男を見ながらべべは考える。思考を連ねるように束ねて、編んでにっこりと微笑む。
「何が聞きたいんだ?姉ちゃん」
「あんたたちが話してたことよ」
「ほう」
一番離れた場所に腰掛けていた大柄な男が低い声で笑う。
「そうだな、俺達が話してたのはあんたが居たテーブルのデブについてだけどよ」
「ふうん」
「丸丘っていう女装男だ。よくあんな奴の隣で食事しようって気になれるな姉ちゃん。あ、それとも」
まだ男だって聞いてなかったか、と不細工な笑いが飛び交う。
いやまあ、確かにそんなこと聞いたことも無かったけれど。こんな形で知りたくも無かったけれど。でも。
「それと食事の美味しさは変わんないよ」
「まあ、一理あるな。でもな、死人の隣で食う飯は、不味いだろう。それは変わんねえ」
死人、また。死人、だった。
死んでる死んでるって馬鹿の一つ覚えみたいに、皆。うるさいったら、ありゃしない。顔を思い切り歪めたべべに囃し立てる声。笑い声も混じった不快なもの。
怒ったのか、と。問う声。
ずっと怒ってる、とべべは思う。
「あんたたちには悪いけど、あたしの職場の皆は生きてるわ。どこもおかしいことはない」
貧相な胸を張ってべべは鋭い声を向ける。冷ややかに、氷柱のように尖らせた言葉。怒り沸き立つそのままに。
「おかしいのはあんたたちよ。あたし馬鹿だけど、それは分かる。最低なのは、あんたたち。ねえ、新人に此処まで言わせてんのよ。おかしいって、そろそろ気が付いたら?」
人間として。
社会人として。
口を噤んで我慢すれば、丸く収まるとべべに何かが囁いた。でも、そんなものの常識や方法全てがべべの頭からこの瞬間だけは抜けていた。
世界なんて糞食らえ、とべべは乱暴な気分のまま思う。こんな、人を馬鹿にして、あんなに優しい人なのにそんなの分からない世界、なんて。
対峙していた男達が立ち上がった音がした。伸ばされた腕はべべの首根っこを狙っている。捕まって、殴られるのかなとべべは拙くその光景を見ていた。
そうしたら、この騒動の合間に二人が。無事にあの優しい場所に帰れたらいいんだけど。
他人事のようにこの状況に想いを馳せていると、後ろから身体を抱え込まれて、視界からテーブルが遠ざかった。
「へ?」
間抜けな声を置いてべべの身体が宙へ。担がれる。早く、と叫ぶ高い声はちぃのものだ、きっと。その出口へ向かって、べべを抱え上げた身体が動く。
「丸丘さん」
「馬鹿ねアンタ」
馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、と素早い動きで丸丘が障害物を避け、難なく出口へ辿り着いた。べべを抱えたまま彼が、ちぃの後ろを追う。集団は追っては来なかった。遠ざかる悪意の吹き溜まりに、べべはため息を一つ。
「ねえ丸丘さん」
「悪いと思ってるわよ。食堂に行けば嫌なことあるって先に言っとけばこれは防げたし。殴り合いにでもなれば煽ったあんたが悪くなる。こんな状態になるのも仕方ないって思って頂戴。それに、私のことでごめんね」
「ううん」
べべは丸丘の背中にしがみ付きながら、懸命に言葉を選ぶ。
もう何も出来ない子供じゃない。
「あたしも、ごめんなさい。我慢できなくて。あと、丸丘さん綺麗だし。可愛いし。何もおかしいことなんて無いの」
後で、ちゃんとお洒落を教えてね、と揺らされながら途切れ途切れにべべは言う。少しして、馬鹿でしょと足をべちりと叩かれべべは悲鳴を上げた。別にいいわよと言葉を貰い、破顔したべべと小突いたちぃ、それから早足で歩き続ける丸丘。三人を迎えるいつもの場所は後もう少し。
こんな嬉しいことがあるなら、猿以下でもいいわとべべは彼の身体に埋もれ揺らされながらそう、少女のように思った。


20150304


「#学園」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -