09



変わらないものはずっとなんだったっけ、そう拙くべべは思う。秘密を覗いて、過去の苦味は辛いけど、ここに居たいと思った。困ったようにちぃはべべのぼさぼさの頭を撫でて泣き出しそうになるのを慰めてくれた。ノーチェは美味しいお茶を淹れてくれた。落ち着くまで二人は仕事を中断して待ってくれていたけれど。
結局何も出来ず終いでその日は終わりになってしまった。一日のノルマ分の仕事は終了していたが、消化不良のような気分が残る。
一度退勤してまた、何となく帰る気がしなくてべべは作業着を着てまたここに戻った。昔は仕事が早く終われと願っていた癖に、どんな心変わりだろうと明かりの落ちた作業場でべべは考える。
休憩室で夜勤のノーチェに会うことは無かった。もしかしたら、彼はまだちぃを寝かしつけているのかもしれない。ノーチェは、ちぃの家族のようなものだから。
端っこ。綺麗に売り物となったミズクラゲを前にして、べべはゆらりと思考の海に漂う。
本当に、何を見たのか。なぜ見たのか一切が分からない。
ミズクラゲのせいだ、と猛禽の瞳の彼は言ったけれど本当にそうだろうか。本当にそれだけだと言えるのだろうか。べべ自身が知りたいとは思わなかったのか。彼のこと、これから、叔父の言う《家族》になる鳥のことを。
知りたいと思わなければ見なかったのでは無いのだろうか。あんな真っ黒に飲まれた嫌な記憶。焦げた臭いが鼻を擽る。首の後ろを嫌な予感が撫でていく。
怖かった。凄く、怖かった。
「死にたがりって、そういうことなの」
べべは小さく呟いた。綺麗に整列したミズクラゲの中。
「ここの人たちは死にたいって、みんな、思ってるの」
でもあんなにも優しくて、生きていて、べべを迎えたその掌。掴もうと思ったのに少しだけ心の中、距離を作っている自分に気が付いてべべは嫌になる。
ミズクラゲなんて仕事なんてやっていられるか、と怒鳴ってわめき散らして暴れてやりたい気分だったけど拳握って地面に打ち付けた。緑の楽園、飛び石の散る作業場。うっすらと海の嘶き聞こえるこの場所で、べべは一人でずっと考えていた。
「ねえミズクラゲ」
きっとこれは甘えだろう。
馬鹿なべべの糸に縋り付くような、根拠の無い願い。
「おじさんの時みたいに馬鹿なわたしに教えてよ。あんたたちって、なんなの?ここって、なんなの?」
すぐに声が返ってくるのならばこんなところには居ない筈だ。膝を抱えてこんな場所になんて、子供じゃあるまいし。
だけど、べべはまだ怖かった。また目に見える形で糾弾されることや、手を離されること。見放されること。置いていかれることが。馬鹿なべべはそんな苦しみだって今までは、忘れてきたけれど。
これからは忘れたくないなあ、と小さくべべはぼやいた。煌く濡れたミズクラゲの表面を見ていると、頭の芯がぼう、としてくる。だって忘れるってそれだけで終わりってことじゃないと消え入るような声で出したのが最後、ゆっくりと意識が下へ下へ落ちていく。


見上げた月は三日月の趣。角度によっては嘲笑する口のように見えて寒気がする。薄らと漂う夜の気配に足が竦んだ。夜の帳。暗くて深い空の下。救いは星だった。彼らが沢山広がって煌きながら、べべを見下ろしている。
いつの間に外に出たのかしら、とべべは思いつつも。心のどこかでは分かっていた。これは、べべの叔父や鳥の時と同じ。でも、四肢は思いのままに動く。そうしたら。
わたしの記憶なのかな、とべべは立ち尽くす。
じゃあ誰が、と思いながら空を見上げていると真横の土を蹴るような音が耳に入った。
それが、飛び上がるのは一瞬だった。
伸びやかに跳躍して、一息に。星まで跳んでいったそれは明るい星を掴んでするすると落ちてくる。落ちる速度に比例しない軽やかな着地。いやまず生き物としてはありえない芸当を仕出かしている。重力って、どこにいったのか。
それは、人間の形をしていた。
長い黒髪、膝丈のセーラー服。細い四肢は真っ白で、雪のような色。調った顔立ちはきりりとしていて鋭い目に、べべはどきりとする。片手に掴んだ星を振って彼女は笑った。
「や、べべ」
姿形に見覚えは無い。でも、その話し方に特徴があった。べべの名前を呼ぶとき、変に語尾が持ち上がる。
口をついて出た言葉はこんなものだった。
「もしかして、失礼かもしれないけど。もしかして……おばあちゃん?」
「正解」
彼女はにっこりと笑って掴んでいた星をぱくりと飲み込む。うん、うまいと嚥下される光。するすると光が落ちていく。彼女の喉を通り過ぎて胃袋まで。微かに灯る光はセーラー服に隠されて仄かな温かみを伝えるだけだが。
これはなんの記録だろうとべべは思う。
呆けているべべの手を引いて彼女は濃紺色の空の下、歩み出す。明かりの少ないこの街中。星と月がちかちか瞬いてべべと若かりし祖母を照らしている。
「記録、というか記憶、というか。お前自身はこのことは忘れちゃいないさ」
まず話したかあたしもあやふやだし、と告げる声に。べべは順繰り記憶を漁って微かなものを提示する。
「星を、食べる、おはなし」
「うん」
「おばあちゃんの、若い時の写真」
「うん。そうそう、思い出してきたな」
押入れの奥底にしまってた物を拾い読みしていたんだろうと合点した調子で彼女が言った。べべは早く歩く長い足につまずきながら辛うじて引かれてついていく。疑問は沢山、水のように沸いてくる。
どうしてミズクラゲに願って、あなたが出てきたのか、とか。
ここは、そのお話の世界なの、とか。
口を開いても何から訊けば良いのか分からない。金魚のように口を開閉させる馬鹿なべべ。間抜けな顔。溢れ出した全てに悲鳴を上げそうになった。
そんなべべの心情を悟ってか手をより強く握って、全ての疑問を彼女は一蹴した。
「あたしはどうでもいい。それよりも、だ」
指を鳴らせば星が落ちてくる。掴んで食べながら彼女は言う。時折指を舐めるような動作をして。
「鳥と喧嘩したんだろ?」
頭が強く穿たれた気分だった。
彼女はべべに背中を向けたままずんずんと歩んでいく。
「しかし勝手だよなあ鳥も。どうしてここにいるんだとかあんだけ意地悪なこと言っといて、一度は迎えに来て仕事に向いてるとか好き勝手なこと抜かしてまたお前を突き放すんだもんなあ。辛かったろ?べべ」
言葉が心の奥底に突き刺さるようだった。こんなに鋭い言葉を出すような人だったっけ、とべべは祖母の生きている時を思い出そうとするも、引く手の強さに全て掻き消されてしまう。
確かに鳥は嫌そうな顔をしながら、べべを励まして、突き放して、結局は背中を向けて酷いやつ。少しだけ、べべも言われてみてそう思う。
でも、本当にそうなの、とべべはふわりと思考する。
そこだけしか、見ていないんじゃない。
「あいつの記憶なんて見たって辛く感じることも何も無い。あんなやつのためにあんたが傷つく必要なんて無いだろう?」
刹那、織の姿が頭に浮かんだ。あの時縋るように名前を呼んでいた鳥。あれは何歳ぐらいの記憶だったのだろうか。
おそらくは高校生になる前。べべが小学生の時に母親が出て行って父親が死んで、そして引っ越して祖母と二人で暮らしていた空白の時間。その辺りになる。きっと。
高校生になって再会して、一言も鳥は織のことを教えてくれなかった。
隠してきた秘密を覗き込んだのはべべで、ミズクラゲのせいもあるかもしれないけれど、覗き見たものに関して何も言えなかったのはべべのせい。人には口に出せない話だってあるって、その対処法だって。きっと知っていたのに。学ぶ機会だってあったはずなのに。
知らない振りをしていた。その方法を、馬鹿だからって、身につけないまま。
どうしたらいいのか分からなかった。あんなにも、自分が子供だったなんて。こんなにも、無力なんて。
全部背負おうって、ここを家にしたいって、家族だって。仲間だって。思ったのに。
そのための準備を怠っていた。全部、馬鹿なべべのせい。
「織ちゃんは確かに可哀想なことで。でも所詮そんなのも他人事だし」
「やめてよ、」
「べべはもっと自分を大切にしなよ。あたしみたいに自由にさ」
「やめて!!」
叫んで腕を振り払った。ぐるぐる熱上げる頭で反論する。うつくしい彼女へ。力を込めて。
「鳥はあたしの仲間よおばあちゃん!」
返って来たのは冷たい一瞥だった。
「馬鹿みたいに可哀想な子だね、あんたは」
彼女は氷のような否定を一度吐いて、連なるように言葉を続ける。
「所詮仕事だよ。あたしの馬鹿息子があんたに何吹き込んだのかしらないけど。家族じゃないものが、家族になれるなんてありえない」
声が。
深くべべの平たい胸に突き刺さった。奥深く、肉体じゃないところ。胸の痛みに唇を噛み締めたべべに、若い姿の祖母は一転。近くまで顔を寄せるとうつくしく笑って思い切り指で額を小突く。地味にじわじわと痛い。獣みたいに低い叫び声が漏れた。額が痛む。
幼いころと同じ叱り方だった。記憶にある叱られ方。
優しく、注意するような、怒っているわけじゃない。彼女そのものを表すような怒り方。
「とか、なんとか言ってね。先に逝っちまったあたしがもう大人のあんたに強制することじゃないさ」
ただね、と彼女が言う。
「やりたいことがあるなら、それを最後まで貫きなよ。どこにだってあんたをいじめるものはある。それでもやりたいなら最後まで折れることは無いって言う精神だけ持っときな。気合が足りないよ」
「おばあちゃん」
「やめてよべべ。しんみりするのは苦手なんだ」
ほら、お前さんがしんみりするから私のお腹の星がより一層輝いて。−−月が怒っちまった。からからと告げられる彼女の背中に大きく膨らんだ満月。
「例えば爺さんと付き合う前のあたしはこんなんだったさ。お月さんと戦って、星食べて、その繰り返し」
夢で神様が許してくれたからって食べても食べても太らない食事として星を選んだのは失敗だったかね、と彼女は微笑む。笑い事じゃない、そんなことを笑って吹飛ばす。半べそのべべに向かって快活に。馬鹿なべべに向かって優しく砕けるように。
「まあ、でもあんたの時代までのうのうと生き延びたんだ。気合第一、あと、嫌われてもいいって覚悟も一欠けら必要なこった」
ねえ、と彼女は踵を返して大きく踏み込んだ。膨らんだ黄金色の球体まで勢い良くいち、にの、さん。あしうらが鈍くコンクリート蹴り上げて広い夜空へ。長い黒髪翻し見る見るうちに飛んでいく。
「鳥なんて殴っちまえ。わかんないことは口があるんだから人に聞きな。負けんなよ」
その凛とした声最後に、瞼が落ちていく。


ぎぎ、ぎぎ、と擦れあうような音が鼓膜に届いて目が覚めた。目の前には一つ目硬そうなノーチェの銀色のボディ。その、人の手模した指先にあたたかい色した毛布が握られていたことに、べべはぼんやりと告げる。後姿変わらないミズクラゲたちを見遣って。
助けてくれたのかな、と思う。
「あんがと」
受け取って。
「ねえ、ノーチェ先輩。あたし、どうしたら良いかな」
空が白んできている。もう朝なのだ、と目を瞬かせるべべの目の前で一呼吸。機械は時間を置くと、誠実にこう、切り出した。
「私には人間のことはよく分かりません。ちぃさん以外に、まだ人間そのものと密接にかかわったこと、ありません」
でも、と彼がきゅきゅとカメラを絞りながら言葉を濁す。人間のように思案して。
「私の経験で言えば、どうしようもなくつらい事が分かってしまったとき。人の秘密を覗いたり、そんなとき。言葉に出来ないとき、行動に移すことが、あなたたちらしいかと」
存知上げます、と告げられて破顔した。
そうよね、とべべは思う。くよくよ悩んでいたって仕方が無い。口が有るんだから訊けば良い。下手に遠慮なんてものをしたからいけない。お利口さんぶっちゃって、どん詰まりになってどうするの。
力強く。馬鹿なら、ねえ、時には衝突したって。何か得られるのなら。
頷きふと、顔を上げれば。遠く向こうで、ぎぎぎ、と扉を開いた気配。
隙間から覗いた、ぼさぼさの髪の毛。しかと見届けてべべは立ち上がり駆け出した。くるくる跳ねて鳥の巣みたいな癖っ毛。ぎょっと見開いた猛禽みたいな目で。
「鳥!」
あたしを思い切り殴るなら殴ればいい。
べべは抱きついて引き剥がそうとする四肢に抵抗する。首根っこを掴まれようと腕を捻られようと絶対に離さない。気合が足りないよ、と踏ん張りな、と心の端っこで祖母が笑う。
弱虫でいじけたがりのべべとはもうおさらば、そうべべは想う。
「織のこと!もっと教えてよ!」
「何を、今更。見ただろ!?あれが全てだ!!」
小さな男の子みたいに鳥が血相変えて叫ぶ。ちぃさん以上に刺々しい声に怯みそうになるけれど、踏ん張った。負けてられるか。
「全部じゃない!!全部じゃない!絶対に!!」
何の根拠も無いけれど知らないままで終わらせたくなかった。
一歩、踏み出すと決めた。じゃあ最後まで貫いて。
「鳥と高校の時また会って、あん時はおっかなくて言い出せなかった。だから忘れちゃった。でもあんたのこと知りたいよ、あたし。織姉のことも。だって、」
今でもここが。
べべの奥の奥が。不確かで、あるのか分からないものが、痛んで苦しいから。

「ふたりとも、大好きだから!!」

ひゅい、と息を飲む気配がした。
少しだけ弱まった制止が、完全にぴたりと止む。恐る恐る覗き込んだべべに、最後、一呼吸。どん、と鳥の掌がべべを突き飛ばした。細く貧相なべべの身体。簡単に地面に倒れて、でも倒れた先は苔生い茂った柔らかい場所。
目を白黒させたべべに、鳥が顔隠したまま言う。
「時間が、欲しい」
刻むように一言一言。
「悪かった。でも、もう少し、時間をくれ」
それは勿論、べべは自信満々に頷いた。
「いつまでも、待ってる」
でもあんたが逃げ出したら悲しいな、とお願いするように一言。告げればくるりと鳥は踵返して逃げ出した。遠く彼方、扉を閉めて。消えていく真っ黒な作業着。見送って力なくべべは地面に寝転がった。
「疲れたよぉ、ノーチェ先輩」
「はい」
「あれで正解?」
「そうですね、概ね間違ってはいないかと」
よし及第点、ガッツポーズしたべべに小さな影が覆い被さる。目くじら立てたちぃ。ハリネズミ、怒り心頭の顔に向かって、べべは暢気に朝の挨拶をした。怒鳴り声を上げた彼と朝食まであと十分。



20141113



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