10



どうしても分からないことは口があるんだから人に聞けばいい。べべが幼い頃から叩き込まれてきた教訓だった。抱え込むのは良くない。一番悪いのは抱え込んだまま分からないまま引き返せないことまでやってしまうこと。仕事だってそうだ。失敗してからはじまり、ではもう遅い。
それを、大きくなってはじめから何でも出来るって自分は賢いと思い込んで、忘れていた。いけないこと。
ならもう遅いかもしれないけれど、とべべは一番事情に通じている人が居る場所へ向かう。
階段をゆっくりと下ってその先真っ青な空間。老婆の作業部屋。ノックは二回。快く応じる声。扉を開け、ノーチェがお土産にと持たせてくれたミズクラゲのラスク、可愛らしいラッピングの中でかさかさと音立てるそれを先に差し出し、冷たい床に座り込む。
あらあらと歓迎した空気は一転困惑気味に。

漂流物干物工場浮遊物科。困ったように眉根を寄せる眠子の職場の床にべべは正座をして、三時間が経っていた。

真っ青な空間で全てが眠子の仕事を待っている。瓶に入って、あるいは箱に詰められて。早く早くとミズクラゲの夢を見る。でも少しくらい、時間を頂戴ね、とべべは声無く語りかけた。返事は大きな窓ガラス、その外で泳ぐ巨大な魚の緩慢なひれの動き一つ。
目の前には眠子の他に餅村。真っ黒餅が、口がぱちんと割れてうぞうぞ動く。この青い部屋。猫みたいな背中の女性の隣で。
「べべちゃん」
「教えてください!なんでここでべべは倒れたの?」
「べべ」
「餅さんも!あの蛙に交渉してくれたのは知ってる。ここに、戻してくれたのはありがと!でも知りたいの」
ここでミズクラゲに取り込まれて、それから何かがおかしくなったのよ、と訴えるようにべべは真っ直ぐに言う。勿論そのおかしくなったこと、を嫌なわけではない。仕事にだって呼吸があると教えてくれた皆、あたたかい掌で戻らないべべを迎えに来た同僚たち。恵まれていると思う。その感情に報いたい。恩返しがしたい。少しずつでも、感情を通わせて、家族になりたい。
その為には、まず。
分からないことを解決したい。
はじめの一歩は気合よね、とべべは心中で祖母に声をかけた。そうさ、気合さと月を前にして切れ長の目をした少女が笑う。きっとべべの傍に寄り添って、いつも居る。例えばこの部屋の空気の中、青の中に祖母は居る。叔父だって一緒だ。
「べべちゃん」
「眠子さん」
見たのね、と彼女の双眸が眼鏡の向こう側できらりと光った。うつくしく青吸い込んだ瞳。頷いて、背筋を伸ばす。再び額を床に擦り付ける。
「お願いします、馬鹿なあたしに教えて下さい。ここのこと、お願いだから」
静謐の青い空間にべべの声が喧しく満ちていく。さっきからお願いだから、お願いしますと懇願の言葉しか出てこない。誰かに聞くという選択肢もあったはずなのに、べべは獣の持つ直感に従ってここに来た。それが当たりか、否か、答えは無いけれど。
粟立つ肌が教えてくれる。ーーここは、あたりだ、と。拙くべべの脚を床に縫い付ける。
もう後悔なんてしたくない。忘れたくなんてない。

「おれからも頼みます、ばあちゃん」

不意に、後ろから幼い声がした。振り返る前に隣に並ぶ影。ちぃ。つんつんハリネズミが同じように床に座る。
「ちぃさん、」
「聞いたでしょう、一緒に。この馬鹿が他のところで何をしたか。追い出されたっていうのにおれたちの味方だよ。こんな馬鹿、めったにいない」
でも、だからこそ、と口調を砕けさせて彼が言う。頬を紅潮させて真摯に。
「だから、おれは、話して欲しい。話したい。分かって欲しい。今のリーダーは眠子ばあちゃんだ。だから、説明するのはばあちゃんの役目。おれに決定権は無い。それでも」
それでも、と声を掠れさせてちぃは言う。工場に住み着いた少年は大人のように言う。
「おれたちだって、すくわれただろ?べべの言葉に。ばあちゃん」
おねがいします、と同じように頭を下げた。べべも惚けながらも湧き上がる熱に従って同じように頭を下げる。耳を支配する沈黙。時折ぱしゃりと聞こえるのはなんの身動ぎか。ミズクラゲがゆるりと海の中を揺蕩っていく。部屋の中、扉の外、呼吸音四つ、衣擦れの音が微かに。心へ滑り込む。
しばらくして口を開いたのは眠子だった。
「まあ、見たんなら、ねえ。秘密にしておくあれも無いよぅ」
傍にある箱をたたん、と指先が叩く。動きに従って出てきたのは真っ赤な金魚。宙をふわふわと浮き泳ぐその姿に諌めるような声が飛ぶ。
「眠子さん」
「いいよおモチさん。少し、お話をするぐらい。どうせどう足掻いたところであの時点でこっちは大歓迎ってことだろ」
それにどうやら随分と少しの合間に肝っ玉が強くなったんじゃない、とくすくすと愛らしく年寄り猫が笑う。途端恥ずかしくなってべべは顔を上げた。
「じゃあ、いいですか?」
隣でちぃが頭を上げないまま声を絞り出す。
「うん」
頷いた笑顔に、いい加減顔を上げてよちぃ孫ぐらいの年齢にそんなことされちゃ気分悪いよ、と一言ちくりと針の応酬。すんません、と一度上げた頭を下げて項垂れるちぃにしわくちゃの掌が、出て行け、の合図。
でも、ちぃは頷かなかった。
「それは嫌です。こいつが心配だから。おれもノーチェも」
「ふむ……じゃあモチさん、あんただけ」
ちょっと秘密会議なと追い出された大きな真っ黒餅。異論は無く、ぱかりと口を開けて、べべとすれ違う際に。良かったなあ、と言葉を飛ばした。べべはそれに頷いて、奥へ、ちぃと進んでいく。
狭い部屋の中、扉が締まる音が大きく響き渡った。金魚を遊ばせながら眠子は歌うように告げる。
「見てのとおりここは私の作業場さ。私だけじゃない。先人の、その時の長は皆ここで過ごしてきた。同じことをして、魔法のようなものをつかって、新入りに秘密を打ち明ける」
「秘密?」
「うん、そうだあ。新入り選定も本来は私がするべきなんだけど。ここの部屋で起こったことといい、今回は先にミズクラゲがやってくれたみたいだねえ。私も歳を取ったから」
子供を見るような目つき。商品に対して、否、もしかしてその先。深い海、に対して?べべは小さく心中でぼやいたけれど、誰からも答えはない。祖母も叔父もひっそりと音落としたまま。
ミズクラゲに飲み込まれた気分は、あれは、篩にかけられたということだったのか。
「見たろ?色んなもの」
「はい」
頷く。酷く真っ直ぐに。瞳揺らさず、痛みを噛み締めるように。
絶望してはいけない。挫折してはいけない。頓挫してはいけない。
ここはべべの正念場、べべの舞台だ。
しっかり前を見ろ。目を逸らすな。絶対に、とべべは拳を握る。
「全部見ました」
「その上でこれからも見る。尚、痛みがあると思う。それでも、ここに居たいかい?」
優しさが声ににじむ。今この時にまだ、逃げる余地を残されていることに馬鹿なべべは気がついた。でももう。誓ったの、と全てに希うように。
「居たい。ここに、家族に、なりたい」
赤いひれが目の前を通過していった。青い青い部屋に朱射し込むそれ。金魚の動きをそっと纏わせながら老婆はにっこりと笑う。
「了解」
返事は軽快で、短かった。嬉しさが滲んだように聞こえるのはべべの都合のいい妄想だろうか。
くるりと背中を向けて眠子が様々なものを取り出す。蓋を開け放って、全て隠すものは無いと告げるようにふわりと解き放つ。宙に浮き出て、生きているものも死んでいるものも鮮やかに染まる。ミズクラゲの色そのものに。光を帯びて海の色に。
「簡単なことさ。こいつらは、人の憂いを食べるんだ。遠い昔の記憶、懐かしい思い出、後悔した感覚、何もかも」
だからその副作用に作業者はそれを何度も見てしまう、過去を繰り返すのさと眠子はしゃがれた声で告げる。
「嫌なもんだろ?忘れたい人間だっているのに。だから、繰り返し見ても平気なーーここには昔を見たい人間しかいない。餌をやらないとミズクラゲは美しく成り立たないからね。前に進んだら途端にこいつらは正直でねえ。霞んでしまうんだよ、この輝きが」
「まって」
うたうように連なる言葉を切って、べべは頭を整理していく。一つ一つ組み立てて積み重ねていく。四肢は水の中で溺れるような感覚がしていた。いや、まだだ。まだべべ自身は溺れていない。思考は澄んだように動く。
唐突に脳裏に浮かんだのはあの言葉。
ミズクラゲ科の人間は、死にたがり。
かつて、反論した。あの。
「だから、みんなは死にたがりで、ここは墓場なの?」
喘ぐように訊ねれば彼女は背中を向けたまま、肩を震わせた。
その感情は背中だけじゃ読み取れない。でも無理矢理開くものでもない。べべは堪えて声を待つ。
「そうさ、皆掃き溜めにいる死にたがりってもんだ」
少しして、苦々しい、沈んだ声。
餌を上げながら美しく製品を仕立てる。その為に作業者の過去の記憶が犠牲になって、そういうことなのだろう。でも、本当に。そうなのだろうか。真実が。犠牲なんて悲劇的な響き、なのだろうか。
そうでは無いんじゃないか。皆すすんで此処に居て。それは次に進むための、一休みで。べべには上手く頭が纏まらないけれど。
そういうことなんじゃないの、とべべは思う。
悪いことばかりじゃない職場なんじゃないの、とミズクラゲ科を罵る人たちを思い出す。
狭い世界のことをべべは考える。
「じゃあ、眠子さん。一つだけ聞いていい?」
ふと、衝動のように。ここに、私の居場所はある?そう聞きたかった。
べべは酷く臆病でいつだって保障が欲しい生き物だから。でも、そのことを言うことは憚られた。馬鹿なりに、今此処でそれを聞いちゃいけないと本能が囁いた。

「私が、ここに来た理由。繰り返し見たい昔って、なあに?」

誤魔化すように言えば、眠子はやっと振り返って微笑んだ。
それは子供を慈しむような、あやすような声だ。とても優しい音。
「それはべべちゃんがゆっくり探したら、いいさあ。ようこそ、浮遊物科へ」
ちぃが後ろから慮るようにべべの作業着の裾を引く。その確かに引き止めるような力加減に心の中で頷いた。私ここに居てもいいのねと縋るように、声無く呟く。踊るものたちはミズクラゲの額縁待って、ただくるくると海の色。戸惑うことなく浮き続けた。


20141208


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