08
真っ赤な夕焼け、うつくしい色合いの日落ちて、真っ黒がやってくる。その日も変わらずべべはミズクラゲを引っ繰り返していた筈だった。
日が落ちるのも早くなってきていて、退勤の時間帯には真っ暗なんてよくある季節のこと。シフト制である筈の工場、その下に属するミズクラゲ科が昼間でも全員集まることが出来て、そしてべべやちぃ、丸丘、鳥に夜勤を宛がわれないことに理由があることを知ったのはついこの間のことだ。
餅村と眠子が泊り込みで、其々のミズクラゲの管理を受け持ち、ノーチェが休まず状態を見ている、という事実。
ちぃも工場内に泊り込んではいるものの、夜勤に参加したことはないと溢していた。彼自身はもっと、一人前として扱って欲しいと主張するが餅村や眠子が了解しないし、何よりノーチェが酷く、怒るらしい。怒ったあいつ怖いから、と震えた小さな頭に噴出したのは三十分程前。多分。べべの感覚で、それぐらい。
はじめはちらほらと作業台の合間を走り抜ける、影だった。それから子供の連れ添って笑う声。きゃらきゃらと鼓膜を擽る歓声。それでも子供ならミズクラゲ科にーー小さなつんつんハリネズミが居るし、馬鹿なべべは不思議には思わなかった。その存在に、この緑の楽園に見え始めたものに。
その瞬間までは。
ふと目を開けるとべべの目の前には二つの影、小さな双子の姿。
真っ赤な夕焼けだった。今では余り見ることの無いような。懐かしい匂いが鼻を擽る。水の臭いだ。大きな池、赤い鳥居、夜には怪物みたいに人間を睨み付ける。べべはこの場所を知っている。幼い時住んでいた家の近くの神社だった。
入り口近くには大きなカーブミラーが有った。丸くて頭でっかちのもの。そこに、全て写りこんで丸く歪む世界を見るのが好きで、よく覗き込んでいた。記憶が連なってべべが振り返れば、そこには小さなべべが、矢張り。存在していた。
髪の毛はぼさぼさで、櫛もろくに梳かしていないような状態で、伸ばし放題の無造作な髪形。今と変わらないが、子供の時にはもっと、許されていた自由さがそこにはあった。真っ白なワンピース。端っこが茶色く変色しているのは、ずっと、好き好んで着ているから。
母親、というものがべべに唯一残していったものだと、祖母がべべに教えてくれたもの。何年も、特別な時に着るようにしていた。だから古びて糸が解れている。所在無さげな後姿、そこに、べべの両脇から、手が伸びる。
「べべ」
「べーべ、」
短く告げたのは半ズボンを履いた片割れ、伸びやかに呼んだのはスカートを履いた片割れ。同じ顔だった。同じ背丈、同じ手足の長さ。両脇に並ぶ。挟まれる。見つめる背中三つ。
小さなべべは振り返ることなく、二人の手を両手に握り締めて、カーブミラーを見上げ続ける。
ゆらゆら、ゆぅ、ら、ゆら。
沈んだ色彩と一緒に見上げる、猛禽の瞳。四つ。
「今日は特別な日よ、べべ」
「お祭り行こうぜ」
ぱちん、と拍手のような音と共にべべを取り囲む景色が変わる。静かなだけだった鳥居は明るくぼんぼり飾って煌いて、お囃子が鼓膜を擽る。神社が明るくなる。大きな池がある神社。
大人のべべはその会話を、情景を、見詰めていた。欠けていたものを戻すように。
うん、うん、と頷きながら初めて幼いべべが右を見る。少女の方へ。
「ねえ、おり。からきんぎょ、は今日も居る?」
その拙い声に少女が笑った。
「居るわよ、空金魚。お空飛んで、わたし達の傍に」
「てのひらに、落としていっしょに行きたいなあ」
つかまる?訊ねた声に少女は満面の笑みで答えた。任せてよと少年と目配せ。べべの手に向けて、まずは自ら掬うように手の形を作り、何かを放り投げる。何か、−−空金魚だ、知っている。空を飛ぶ赤い体、白や黒も居ると聞いていた。ひれの大きな魚だって。
空かさず手でまた、蓋をして逃げられないように。
「つかまった?」
「うん、ほら」
からころから、ころころ。音がする。空金魚の鳴き声だと教わっていた。彼女から、織、から。小さなべべはもうカーブミラーを見上げて居ない。掌の中の生き物に夢中だから。
だから知らない。鳴き声が本当は、べべの後ろで鳥が土鈴鳴らしているから聴こえるものだと。大人のべべはその記録を、ゆっくりと咀嚼する。カーブミラーの中、からころ、金魚が泳いでいると信じていた。
本当に、居ると信仰していた。幼い時の時間。
幼い時はもっと自由で、色んな生き物が居ると思っていたかもとべべは立ち去った三人見詰めてぼんやり思考を沈める。吸い込まれていった神社の奥。お囃子の音、雷様はでべそだったし、犬には人間の顔があったし、神殿の裏には秘密基地があった。将来英雄になれると思っていた。
でも。
このまま成長して、何も出来なくて、情けないなあとべべは少しだけ思う。真っ赤な夕焼け見詰めながら、濃紺色に手足を浸しつつ。しばらく呆けてそして、気が付いた。
なんで、こんなに綺麗なもの、忘れていたのだろう。
なんで、こんなに楽しいこと、欠けていたのだろう。
おかしいな、と首を傾げた途端に視界が暗転。
真っ黒な、世界に、生まれ変わる。
綺麗な赤は凶悪な色に、地面に倒れ付した吹飛ばされた身体。焦げた臭い。車が離れた場所に二台、火を上げていた。中に居る大きな人間は少しも動かない。地面に落ちたそれに、何かが駆け寄る。少年だった。幼い、でも、知っている。
べべは、その少年を、知っている。
鳥。
「おり、なあ、おり」
サイレンが鋭くべべの耳を打つ。星はあの祭りの時と同じく綺麗に輝いているのに、事態は最悪だった。目を見張る。身体は動かない。
空金魚、囀る口が見えない。
「おり、返事して、おり」
声が無い。近づく大きな闇が帳を下ろして目の前が真っ黒に染まる。段々と真っ暗になる視界。手を伸ばそうにも何も届かなくて、ただ補完するようにべべの脳味噌に記憶が詰まっていく。記録が、綴られていく。
ばち、と瞬いて、急激に感覚が戻った。
優しい色に染められ、ミズクラゲが無垢な顔をしてべべを見上げている。あれ、と声無く口をはく、と動かしたところで世界が戻ってきた。押し寄せる、音、色、それから。気配。緑の楽園の。温室の、扉から寄りかかるようにして鳥が覗いていた。もじゃもじゃ頭。猛禽の瞳。
他、入り口付近ではべべを見詰める幼いハリネズミと機械の、労りの視線。
その物言いたげな目に、大丈夫、って、いつもみたいに笑いたいのに思考が上手く働かない。
震えてしまって、上手く、何も出来ない。
そんな状態のべべを観察するように見詰めて、しばらく。鳥は静かに、冷静に言った。
「別にお前が使えないから、辞めた方がいい、なんて言ったわけじゃない」
無機質に、淡々と。べべは彼をまっすぐに見詰めることができない。
だって、秘密を覗いたような、こんな衝撃。馬鹿なべべは動揺を取繕う、なんて出来るほど大人ではなくて。賢明でもなくて、ただ、馬鹿で。どうしようもなく単純で、だから。全てがぶれて、元に戻れない。震えて唇を噛んだべべに鳥は尚、続ける。
「ここで働く、っていうのは、そういうことなんだ。ミズクラゲをひっくり返すっていうのはそういうことだ」
それでも、お前はここに居るのか、と優しく訊ねられた。
優しくはない、事柄を。最後の情けといわんばかりに、優しく質問された。
べべは答えられない。だってべべは馬鹿だから、子供だから。
それでも辛うじて言えること、を、べべは思う。
言え。言わなきゃ、だって。嵐の後、迎えに来てくれたことだって、凄く、嬉しかったのだから。
唇をきりりと噛んだ。べべは焦点を、鳥に合わせて言う。
「ここは、わたしの。家、だから」
答えとしては不十分だ。馬鹿なべべにだって分かる。そんなあやふやな答えじゃなくて、もっと、確りとした足取りを鳥に見せたい。べべはこんなにも成長した、って。小さな時よりも、馬鹿なだけじゃないって。もっと何か伝えることがあると思う。思うのだけど、今は、脳味噌が悲鳴を上げている。補完した記憶に思考が爆発しそうだった。
織は、あの光景は。何と鳥に声を掛けていいのか分からない。心の中から言葉が、空っぽになってしまって、自ら声が出てこないべべの沈黙を鳥は無表情で見詰めていた。
均衡を切ったのは溜息。
「そうか。せいぜい頑張れ」
違う、そうじゃなくて、でも。そう声をかけたところで会話が続かないのは明らかだった。
ひらひらと彼におざなりな憐れみをかけられる。あわれみ。余りにも苛立って悲しくて、べべは無力で。心臓を叩いた。どん、と鈍くーー音。負けるもんか、唸ったべべにやっとちぃが駆け寄る。
「大丈夫か?」
べべは震えて頷けない。少ししてやっと潤む視界で、しゃがみ込んだ彼の小さな身体に抱き付いた。幼い子供みたいに泣くにはべべは成長し過ぎていて、だから。泣き声を押し殺した。
あれは忘れてはいけない記憶に違いは無い。もう忘れないように、べべは今だけ幼い時の記録、併せて押し込んで心臓に叩き込む。見てしまった彼の記憶。
その恐ろしさを、脳味噌に刻み込むように。
20140915