07



何日も深く眠って過ごした。
何日も、意識落として生活した。
起こした嵐、あの時付いた傷もすぐに薄皮を張った。二日目には殆どの傷がガーゼを必要としなくなり、がさつなべべは消毒することを止めた。包帯もゴミ箱へ放り投げたが失敗して、周りに散らかっている。
気まぐれに食べて気まぐれに寝て、携帯電話でゲームをして、べべは何度目か分からない疑問に現在、襲われている。
「どうして、クビじゃないのかしら」
その目の前には、出勤停止命令、の文字。
漂流物干物工場からの正式な通達だった。べべの社会人としての、何かがぶつんと切れてしまった次の日に速達で届いたもの。堅苦しい真っ白な封筒に、書面に流れるような文字。もう辞めた、と思っていたべべには予想外の言葉が踊る。
《二週間の出勤停止命令に処す》
馬鹿なべべにも分かる。クビにはなっていないということ。だけど。
「あそこじゃないなら、戻りたく、ないなあ」
一人の部屋にのんびりと響く情けない声。少しだけ泣きたくなって、布団に潜り込んだ。
何度も唸って苦しさと心臓の痛みに胸を打ち付けた。
早くこの苦しみが終わりますように。
早く楽になれますように。
馬鹿なべべは辛いことをすぐに忘れることが武器で、盾だった。四日も顔を合わせなければ忘れてしまっていた人間同士の絆。顔。繋がりそのもの。
なのに、四日以上経っている今、それが、今でもきつく胸を締め付ける。
確かにべべだって、昔からこんなにも忘れっぽい訳ではなかった。ーー沢山覚えていることなんてある日を境に無駄なことだと知って、そういう様にべべが、べべを作り変えてしまったから。仕方ないのだ。全部べべのせいだ。
だから、いつも通り忘れたら。少し休んで他の会社に就職しよう、と思っていた。
今までのように、就職先を探そうと思っていた。
それなのに、一切を忘れられないで居る。獣のように唸りながらべべは思う。
帰りたい。
叶うなら、あの場所でもう一度。チャンスが欲しい。
何が悪かったのか、本当に、聞かせて欲しい。
ミズクラゲ踊る青の空間へ、引き戻して、今度こそ。
布被って心臓を叩いて居ると、本当に臓器が潰れてしまうかもしれないな、なんてふと思った。でも潰れたら、そろそろ。いいかも、とか。思った刹那。
ぴんぽん、と間抜けなインターフォンが鳴り響いた。

「え」

ぽんぽんぴんぽんぽぽん。
連続で押し過ぎて最早原型を留めていないチャイムの音。カレンダーを見遣れば平日。こんな平日に、べべの家を訪ねるような人間は居ないはずだった。まさか、大昔に出て行った母親では有るまいし。頭の中に宇宙人が居る叔父だろうか、でも仕事は、とふらつきながら思考を纏めようと躍起になる。
その間も鳴り続けるインターフォンの音。しつこく、天高く、鳴り響くような。
布団から顔出して、蓑虫のようにごろりと転がって、迷って。やっとべべはそろりと布団を抜け出した。家中とっ散らかった床を、ゆっくりと物踏み付けながら歩いて行く。
扉の覗き穴からは真っ黒な髪しか見えなかった。
変な人だったら、どうしよう。少し思ったけれど、ゆっくりと開けて行く。
宅急便かもしれないし。うん、そうかもしれないし。自分に言い訳をしながらチェーンを外して、ロックを解除してドアノブを捻るーー同時に思い切り扉を引かれた。外開き。確かにそうだけど、悲鳴を上げてその場にべべはへたり込む。なんなの、なんなの、口をはくはくと金魚みたいに開閉して。顔を上げる。光溢れた先には。

「よぉ、おとろし」

憎たらしい、顔。
「な、あ」
「その様子だとぼろぼろになっても俺のことは覚えてるな。よし。うわ、人間じゃないみたいな生活送ってんなお前。ちょっと上げろ」
好き勝手に言っている彼は。
目を何度も擦って、確認する。
目を大きく見開いて何度も見る。夢じゃないことを確認するために。
「おい不細工。一先ず顔洗って来い」
「とり」
「おいおい。鳥先輩って最近呼んでたのに。昔戻ってどうすんだよ」
「とり」
「分かったから。酷い顔してるぞお前」
少し人間らしいことしようぜ、と扉の目の前、彼ー鳥ーはにっこりと猛禽の瞳細めて笑う。変わらない、でも優しい彼に気が緩んで、べべはぼろぼろと涙を落とした。その頬っぺたに流れた涙を指の腹で拭き取って、ついでに頬抓って鳥が靴を脱ぎ奥へと歩み出す。べべを待たずに奥底へ。べべの住処へ。
散らかした部屋。べべの複雑な心示したような四角の生活区に鳥は入り込み、一回り、ぐるりと睨めつけ。仏壇に目を止めた。
一度、微かに揺れる。鳥のぎょろぎょろとした目玉。
「いつ、死んだんだ?婆さん」
まだ、覚えていたのか、とべべは思う。彼とべべの祖母が会ったのは本当に幼い頃の筈。
「……今年のはじめ」
素直に答え、べべは部屋の入り口でしゃがみ込む。胸を叩く。痛みを忘れるように願いながら。
今年のはじめ、同居していたべべの祖母が死んだ。
親類なんて工場で働いた叔父のみで、彼は病院で入院しているから、諸々の手続きはべべが、弁護士と相談して全て行った。拙く大人の振りをして、何度も役所に通って。
その頃から前の職場で上手くいかなくなった。物忘れが激しくなってそれから、一日で同僚の顔を忘れた。仕事がままならなくなって、会社から自主退職を勧められ。抗う理由もなし、べべは、頷いた。
「そうか」
鳥は俯くべべを横目に、床散らかした洗濯物を蹴り飛ばして、仏壇の前に膝を着く。べべが見詰める前で、静かに、線香に火を点け、手を合わせた。一度、きーん、と鳴り響く音。
心臓の痛みを、忘れたようにべべは見詰める。
食い入るように見惚れる。鳥の横顔が、瞼を伏せて、ゆっくりと一呼吸。息さえも出来なかった。
そうだ、とべべは思う。
憎たらしいことに。昔から、こんなにもこの人は綺麗だった。
鳥はべべがそんなことを思考しているなんて露知らず、そっと目を開けて。立ち上がりカーテンを大きく開ける。うひゃあと悲鳴が漏れた。
「あによぉとり!」
「煩いおとろし。気晴らしに人間らしいことしに行くぞ」
「やぁよ!あたし、もう、皆に、嫌われたじゃない」
「ふうん、嫌われた、ねえ」
じゃあ、と窓を開けて一度部屋の入り口に戻ると、鳥はべべを引いていく。暴れる気力さえ無くした子供のようなべべの首根っこを掴んで、窓の外へ。ふわりと浮遊感。あぶない、と思った視線の先に、二つの、顔。

「べべ!」

満面の笑みで見上げたのは焦がれた小さなつんつん頭。
横に立つのはふっくら達磨お腹。
べべは思わず、身を乗り出して叫ぶ。何日分の声、思い切り吐き出すように。
「ちぃさん!丸丘さん!」
後ろから勢いを殺すように鳥が覆い被さった。
「なんでここに!」
「ばか!遊びに行くんだよ!」
「そうよ!早く降りて来なさいよいちゃついてみっともない!目に毒だわ」
「いちゃついてないよぉ!」
とは反論してみるものの、確かに丸丘から見ればそうかもしれない。丸丘は鳥が好きなのに申し訳ないことをした、とべべは冷静になってそっと体重を足の方に戻す。
「鳥」
「なんだよ」
「着替えるからあっち行って」
「んな抉れてる胸なんて今更」
何十年前の話してんのよ、と今度こそ顎下に思い切り頭を打ち付けて、半泣きになりながらべべは部屋に戻る。嬉しさに胸がはちきれそうだった。心臓の痛みが薄らいでいく。

しかし遊びに行く、なんて久しぶりすぎてどうしたらいいのか分からない。べべはキャミソール姿で箪笥の前、小さく唸った。こんな時に限ってお洒落な服なんて、と腕組み睨み付けたところで、後ろからにょきりと伸ばされる手。箪笥を我が物顔で開けて、ズボンとシャツを取り出す。
「お洒落なんていいんだよ」
「……入ってきていいって言ってない」
「煩い。どうせ化粧もしないんだから洒落っ気のあるもん着るだけ無駄だ。楽な格好にしろ」
何年経っても意地悪な口だけは変わらないのね、と諦めて手渡されたものにべべは着替える。鳥を異性として認識するだけ無駄だった。意地悪猛禽の双眸。綺麗なその瞳は、ずっと同じ、矢張り。彼女と、変わらない。ーー思って、はた、と目を瞬かせる。
「ねえ鳥」
「何だよ……また心臓叩いてたのか。いい加減直さないと陥没するぞ」
「うるさい」
そうじゃなくて、胸の中心の痣を見て言わないでよ、でもなくて。
変態、でもなくて。

「ねえ、鳥。おり、はどうしてるの?」

その昔、口に乗せた覚えのある質問を、ゆっくりと紡ぎ出した。
鳥とべべの交錯点は三つ。六歳の夏休み、十六から十八までの高校生、そうして。今。芋づる式に馬鹿なべべは思い出す。
「ねえ、織は?」
もう一度声に出せばゆっくりと頭の中で当て嵌まった。
織。鳥の、双子の姉。からきんぎょ、夏祭り、握った手の温かさ。夕日の真っ赤な色を思い出す。映画のように鮮明に。
鳥が目を見開いて、おぼえていたのか、と訊ねる。うん、と頷いて、着替えたべべは着ていたスウェットを布団の上に投げた。
「ねえ」
「流木破片科で聞いたろ?浮遊物科は死にたがりの集まり。ちぃやマルより先に言うのもあれだけど、あいつらも俺も」
自虐的に、明るい日の光の中、鳥が笑う。

「死にたいって気持ちがどうしても抜けない、どうしようもない人間なんだよ。だから、死んでるのと一緒だ」

それを聞いて即座にべべが思ったのは逆のことだった。

「嘘。だって生きてるじゃない」

目にしたそのままのこと。包み隠すことなんてなく、言葉を繋いでいく。一面のミズクラゲ、青の部屋、狭いけど心地の良い場所。あそこには死人なんて居なかった。べべは拙く考える。
鞄を部屋の端っこから引っ張り出す。財布を中に放り込んで肩に掛けた。

「鳥。生きてるから、べべは、あそこが好きになったんだよ」

死にたい人間なんていっぱいいるけど、あなたたちは生きてるから、仲良くなりたいって思ったの。馬鹿なべべが思考したままを話せば鳥は目を丸く見開いて、顔をするりと逸らした。
「……先行くからな」
「待ってよ!髪の毛」
「梳かすだけ無駄」
失礼ね、と言いながらそれもそうかと納得して部屋に背中を向ける。
質問を上手くはぐらかされた気もするけど、何より下で待たせている二人が優先だった。久しぶりに出た外は海の色彩、真ん中で、真ん丸お腹とハリネズミが眉根を寄せる。おそいと口々に飛び出した二つにべべは始めに抱擁を。貧相な身体が囲う、伝える、さびしかった、の気持ちと大好きの声。

「来てくれてありがと!」

伝えれば勢い良く拳が飛んできた。
とても長い説教や雑談を、出先で食事しながら延々と二人より聞かされてもべべはずっとへらへらと笑っていた。笑顔に面食らいつつ怖い顔した二人が捲し立てる。何よその傷女の子なのに顔にまで、あんなの気にするだけ無駄だからもう流木破片科には近付くなよ、あああもうちょっと化粧しなさいよ後で一緒にドラッグストア行くわよ、べべに変なこと吹き込むなよ化粧お化け、チビ何言った、あんたこそ!子カラスみたいな応酬の声。
でもこんな幸せなんてはじめて、とべべは炭酸水を思い切り吸い上げる。しゅわしゅわと弾ける泡に、記憶を乗せる。人生うまくいきそう、なんて。

べべが職場に復帰したのはそれから三日後のことだった。
勿論配属先は《浮遊物科》。
クラゲ科、ただいま我が家。ぼやいたべべの声は誰も知らない。



20140903



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