06



べべの心に、常に寄り添う光景がある。
灯りの落ちた一人ぼっちの部屋。ただいまを言っても返る事は無い、おかえり。ぬくもりのあったものたち、持ち主がいなくなったものを捨てないで居る。なにも捨てられないからと抱え込んで、そして、そっと封をした。覆い隠していた。線香の煙が眼に沁みる。大きく、家には不似合いな仏壇と、位牌、二つ。
それはべべの、祖母のものだった、父親のものだった。だった、ものたち。全部捨てられない。べべから最後に去ったのは祖母だったか、その祖母の顔さえ思い出せない、馬鹿なべべ。
でも救いはあった。だって辛いことって、人には必ず一つや二つあって、忘れることが一番だって、べべは教えられていたから。
忘れて流されるままに生きることが楽だった。助けの手が無ければ自分でやればいい。行動を一つ、二つ、増やして見ないようにする。一人ぼっちだって、そんなこと。馬鹿なべべはどこに行っても何をしても変えられない。変わらない。ずっと、そう思って。
でも、それっていつからなのーーべべは自問する。
青満たされた中で、膝抱えて首傾げる。
べべは忘れていた筈だった。全部、辛いことなんて、見せない顔なんて、一時限りのもので納得してそれで楽だったのに。鼻の奥がつんと痛む。不規則に痛みを与えるものは、そっと嫌なことを揺り動かした。
唇が動く。頭上に浮かぶミズクラゲ。一人はやあよ、駄々を捏ねてべべが手を伸ばすと。
ぎゅ、と握られた。

あれ、とあぶくを吐く。

意識が沈んでいたものが浮上して、目を開ける。
その先に、ちぃの潤む瞳。鼻を真っ赤にして、覗き込む姿。
そしてその後ろに一つ目冷蔵庫、ノーチェの案じるような光。
背中を見せているのは鳥だろうか、もじゃもじゃとした頭がべべの視界を支配する。
なんで、どうして、ここに、口を動かしても声が出ない。べべが困惑していると、ちぃはその瞬間、思い切り額をべべに打ち付けた。鈍い音。
声が戻る。
「い、ったああああ!!ちぃさんなんで!!!!」
あたし何もやってない、とべべが叫ぶと胸倉掴んで小さなハリネズミが叫んだ。
「うるせえ心配かけさすなぼけべべ!」
その剣幕に押され、べべは悲鳴を飲み込む。
「ちぃさん、丁寧語、」
「馬鹿不細工べべ!何やってんだよ!べべ、もう」
決壊三秒前。心中でぼやいて、思い切り小さな頭を抱きこんだ。身体が彼より大きくて良かった、と思う。必死に抱き締めて、暴れる身体を抑え込んで、ゆっくりと息吐くまで。抵抗を止めた彼の身体の、微かな震えは見ないことにした。べべは、安堵してノーチェに声をかける。
「ノーチェ先輩」
「べべさんが倒れて、三日、経っています」
「そっか」
餅さんは、問えば、反省して廊下に目覚めるまで正座しています、と素っ気無い一言。もしかして、とちぃを抱き締めながらべべはノーチェに訊ねる。
「怒ってる?」
「いいえ」
反応に首傾げたべべの、後頭部に強烈な一発。前後に首が思い切り揺れて、脳味噌が跳ねる、感触。蛙が潰れたような声に、下から悲鳴。後ろから低い声。
「調子のんじゃないわよ」
丸いお腹の、とぐらぐらする視界で窺えば丸丘は鼻を鳴らした。
「だから言ったじゃない。こいつ使えないって」
その言葉はこの場にいる全員に向けたものだろうか。全員集合かけんじゃないわよこんなことで、と文句を口にしながら狭い休憩室を大きな身体が去って行く。振り返った鳥から、紫煙が立ち昇る。やる気のなさそうな鳥の横顔。それでもぎょろりとした猛禽の瞳、は生き物を、殺しそうな。
「べべ」
酷く冷えた声が、ちぃを解放したべべに向けられる。
少しの逡巡のあと、やっと彼が搾り出した言葉、は。
「お前、ここを辞めた方がいい」
否定の言葉だった。


何が間違っていたのか、という悩みを抱えながらべべはミズクラゲ科を後にする。誰かが話を持っていっていたのか、蛙口のヤスから既に異動の報せが来ていた。
移動先《流木破片科》。
なにそれ、と思いながらべべはロッカー室で項垂れる。新しくべべを迎えに来た流木破片科の人間は、それはもう、普通の、どこにでもいるような微笑の優しい人間だった。同じような黒い作業着着ていても、灰色の工場に映えるような美しい女性だった。
「べべさん?今日から宜しくね」
「はい」
合わせて微笑むけれど、べべは心中でずっと落ち込んだまま。背中を丸めて彼女の後についていく。入り口に近い日当たりの良い作業場。全面に広げられた変色した木の破片。波で削られて大まかに丸くなってはいるものの、まだ棘の鋭いものも存在する。言われた通りに分厚い手袋を嵌めて、黙々と作業にべべは従事した。発色の良く安全なものを右、その他歪で危険なものを左。無機物を扱っているからか、常に破壊音が響き渡る。鼓膜に残るような、海の悲鳴。
ぼこっ、ばき、めき、と周りに倣って分けていく。会話は勿論無い。目線を下げて、仕事して。それはべべが今まで経験してきた社会と同じだったけれど。
物足りない。
寂しい。
つまらない。
べべは唸り声を微かに漏らしつつ、熱くなった目頭をそっと拭った。涙なんて出ていないのに、そこには水滴が沁みたような気配がする。
不意に視線を感じて顔を向ければ、横の人間がべべから目を逸らした。反対側からも突き刺すような視線。目を遣れば、直ぐに逸らされる。何度もそれを繰り返し、ようやくべべは自分が注目されているのだ、と自覚した。
「あの」
声が空回る。
「何か、ありますか」
ごと、めきめきと常に鳴り響く音。かき消されるかと思ったべべの声音は、工場内に立派に響き渡った。途端、酷く静かになる。目、沢山の目玉がべべを捉える。
沈黙、ゆっくりと漂う空気。
「あの、」
繰り返し問うことしか出来なくて、べべは困ったように声を出した。
「あんた」
声が返る。振り向くと、一人の作業者が怯えたようにべべを見た。

「死にたがり、じゃないんか」
口をあぐり、と開け放してその声を受け止める。
「え?」
理解までにたっぷり十秒。死にたがりって、なに、と拙くべべは思う。
「なに」
「浮遊物科は、死にたがりの集まり。クラゲにみんな心持ってかれて帰って来ない。あそこは墓場。ゴミ捨て場。死人だらけ、でも、あんたは、そっから来たのに普通に見える」
「待って、」
「丸丘くんは未だに変なことしてんのか?」
「待ってよ」
理解できない。べべの脳味噌が捩れて悲鳴を上げそうだった。既に熱暴走、考えることなんて出来なくて、べべは立ち上がる。一斉に、目が集まった。声が飛ぶ。
「鳥くんは息してるか?」
「餅村さんは健在か?娘さんはどうなったかなあ」
「ちっさい坊主は、成長したか?死んでないか?」
「眠子さんは死んだんじゃないかって話で、旦那さんは」
「みんな死んでんだろ。あんなとこ」
「まって、まって、まって!ください!!」
息を切らして叫べば。渦巻く異様な空気に気が付いたか、はじめにべべを案内した綺麗な女性がそっと、声を落とした。

「べべさん。あなた、今日は帰った方がいい。私から言っておくから」

助け舟のつもりだったのかもしれないけれど。もう限界だった。
質問攻めも声も、言葉ももう沢山だとべべの脳味噌が告げる。
こんな場所、やめてやる、と鮮烈に、思考した。あの場所じゃなきゃ、べべは嫌だ。怒りで目の前が真っ赤になる。
「なにが!」
勢い良くべべは叫んだ。
「何が死にたがり?何が言いたいの!あそこでみんな生きてた!みんな息して仕事してたわあんたたちみたいに!」
「それはあんたが新入りだからそう言えるだけだ!あそこはひでぇところだ!問題児の吹き溜まりだ!」
怒鳴り声。先に叫んだのはべべなのだから、この激情に負けるわけにはいかない。拙く、思考して。爆ぜるように怒鳴り返す。
こんなこともう、しなくてもいいのに。べべは追い出されたのだから。
こんなこともう、しなくてもいいのに。べべはもう、嫌われてしまったのだから。
忘れてしまえと自分に言い聞かせれば良かったのに。今まで通り、薄れるように。そうしたら楽なのに。
でも。
理屈ではうまく説明が出来なかった。べべは馬鹿だから、思ったことを撒き散らすことしか、出来ない。
「確かにあたしはあそこを何も知らないわ!こないだ入社したばかりだもの!!でも、でもね!!今朝まで肩並べてた人の悪口に同乗するほど馬鹿でもないのよ!馬鹿馬鹿って言われても、あの人たちを」
優しくべべを見てくれた人たちを、たといべべが捨てられたとしても。
べべを馬鹿にするのはいい。慣れっこだから。許せないのはあの場所を、馬鹿にされること。

「べべの先輩たちを馬鹿にしないでよ!ちゃんと生きてんのよ!!」

好きだった。あの場所が。
涙が溢れる。
叫ぶように唸り声を一回。涙を思い切り噴いて、貫くようにべべは言い放った。
「こんなとこ辞めてやるわ!性根が腐るもの!」
人間として最低な場所に居たくない、言えば、額を何かが強かに打った。それは、角の取れた木片。ごとっ、床に落ちて尚割れる。尖ったものも、飛んでくる。肌露出した場所に数々の切り傷を作ってもべべは折れなかった。無言で後は立ち続けた。悲鳴もあげ無かった。弱くてどうしようもないべべにしては、珍しい選択だった。
やっぱり、あの場所がとんでもなく好きだったのね。べべは一人ぼんやりと思う。
唖然としていた何もしていない人間が叫ぶ。やめろ、あぶない、正気に戻れ。
嵐が、流木破片科を襲う。
べべは中心でただ立ち続けた。それが、ミズクラゲ科の生きている姿だと示すように。


20140827


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