05



あくる日出勤してきたべべはいつもの部屋とは違う場所に行くよう、真っ黒餅村に指示された。私はお役御免かしら、と落ち込む背中にちぃの掌。いいから出張だと思え、待ってるから、と拙い言葉。ノーチェにはお菓子を渡され、彼女と一緒に召し上がって下さい、と労わりの言葉。
「大丈夫だ、眠子ばあちゃんは優しいから」
お前にも変わらず優しいさと諭されて、ゆっくりと向きを変える。真っ黒な作業着身に付けて、いつもなら直進の道を左に折れて、階段を降り、そっと扉の前へ。餅村は変わらず真っ黒のまま、固そうな拳でノックする。

「眠子さん、新入り、連れてきたから」

うぞうぞ膨れる真っ黒餅村。ぷくり、と膨れて割れた口が声を低く紡ぎ出す。恐る恐る後ろから、顔を出したべべの目の前に広がったのは、青い空間だった。
水だ。
正面につなぎ目の無い大きな窓ガラス。一面の水が、部屋を囲っている。音は微かに空間に響き渡るだけ。沢山の瓶や箱がぐるりと並べられーそれぞれタグがついていてーその真ん中に、ミズクラゲを一枚一枚触る彼女の萎びた背中。
背骨のシルエットが、服の上からもはっきりと分かる。毛繕いする、猫みたいなその後姿。
眠子。
かけていた鼻眼鏡の位置をそっと元に戻し、細い声で言う。
「いらっしゃい、べべちゃん。おいで」
べべは背中をぴんと伸ばしてその言葉を聞いた。年長者の威厳、というか。どうしても抗えないもの。そんなものを感じて眉根を寄せる。
対して、その返事だけで充分なのか、餅村はその後姿に会釈して踵を返し部屋から静かに出て行った。遠ざかる足音。えええ、はじめての人とふたりきり、と心中でべべの悲鳴。青の部屋で、尚、眠子が手招きする。
いらっしゃい、その音。ぶくぶく、と海の泡弾けるような、儚い声。
そっと、お菓子を持ったままべべが近付けば。隣の丸椅子指差して、お皿を出して彼女が言った。
「それはおやつの時間に食べようかね」
まずはちょっと私の仕事を見ながら、おしゃべりしようか、と優しく彼女が笑った。年寄りの猫が日当たりのいい場所で浮かべるような柔和な表情。その柔らかさにほっと、べべは座りながら息を吐く。纏めていた前髪が、ぴん、と癖を抑えきれずにピンを弾き飛ばした。あらあら、と眠子が笑う。背中をゆらゆら、と揺らして、青の中。
作業台を覗き込めば、そこには、べべが今まで取り扱ってきたミズクラゲよりも、遥かに透明度の高いものが乗っていた。
「これはなに?」
「ああ、んーとなあ。これは、半分乾いたミズクラゲなんだあ」
作ったのは、鳥とマル、とすらすらと零れる歌のような説明。
綺麗だろ、と言われ素直にこくりとべべは頷く。とても綺麗で、直ぐに壊れてしまいそうな出来だった。
これをあの、鳥と丸丘が仕上げたなんて信じられない。そこに至るまでの道を想像して、そっとべべは息を吐く。大変なんだろうなあ、と飛び出した声に眠子は笑った。
素直な子だなあ、とのんびりとした言葉。
もしこの言葉が丸丘だったり鳥だったりそんな面々に言われたとしたら、べべは馬鹿にされたと頬を膨らませることだろう。だけど眠子の声はゆったりとべべに染み渡る。
やさしく、つつみこむ。
べべはぼんやりと、意識を青に遣って、そうしてやっと言葉を吐き出した。
「眠子さんの、お仕事って、なあに?」
彼女は再び紡がれたべべの問いに傍らの箱を引き寄せた。

「私の仕事は、ここに、頼まれたもの、を入れること」

ぱかり、と開くとそこには小さな壺一つ。蓋を開ける指をぼんやりと目で追いかけると、中身がさらり、溢れた。さらさらとしたもの。灰色の、合間に光、詰めたような。
「これは?」
「お預かりしてる遺灰、遺骨、それから。一緒になんか入ってるね。……ガラス粉かねえ」
飄々と眠子は口にしたが、べべには衝撃的な言葉だった。
遺灰、遺骨、ということは、この壷は。骨壷。葬式で目にする、もの。
「え?遺骨って、死んだ人の骨、でしょ?」
「そうだあ」
「それを。ここ、にいれるの?!」
ミズクラゲって食用でしょ、と子供みたいにべべが悲鳴あげれば眠子は重たい瞼瞬かせて言った。
「そう、食用、だけど。一部の人、にはきれいな額縁で水槽なのさ」
透き通った透明の四枚の花弁。それが、さらさらと眠子の掌から零れる灰につれて色付いていく。薄く、生き落とすように。魂を、吹き込むように。
墓標になる、とべべは馬鹿な頭で、そう思った。
目をまん丸にするべべの目の前で眠子は自らの仕事をこなしていく。満遍なく拡げた大切な、人間、だったもの。依頼を受けたもの。彼女の仕事、人生を表す様に。
「変わりもんもいるんだ。この綺麗なもんに、大事なもの、ずっと詰めときたいって人が」
それは楽譜、そっちは金魚、眼鏡、キャンディ、手紙、本、ビー球、指差された周りの箱や包みを一通り、封を開けて確認して。
べべは気になっていたことを小さく、口にする。
「それ、食べる人も、いるの?」
質問を受けて、眩いばかりの青の中、老婆は笑う。猫みたいに機嫌良さそうにそっと、目を細めて。
「さあねえ、私は、仕上がったものをお客さんに渡すだけだから」
それ以上は知らないね、とのんびりとした口振り。眠子は怖いことを言う人だなとべべは馬鹿な頭でそう思う。確かに、買い上げた後のことなど、作っている立場からすれば見えないし、どうでもいいことなのだろうなと考える。ゆっくりと、拙く。
でも。
「それって、寂しくは無いの?」
告げれば彼女はやんわりと苦笑した。どうだろうね、と声を沈ませて。
この人は怖いだけじゃないのかしら、と微かに認識を改めて。べべは、らしくない、声でこう提案した。そろそろお茶にしない?と。


用意されているティーパックは一種類。特価品なんだあとけらけら笑う彼女にそっと差し出して、べべも自らの分にお湯を注ぐ。じわりと拡がる茶色に、目の前には広げられた焼きミズクラゲ。ノーチェが前に目の前でやってくれたように、今回も綺麗な焦げ目がついていた。
そこに、眠子が戸棚から出してきたとろりとした蜂蜜を一匙。ゆったりと溶けていく中を、さく、とフォークで切り取る。口いっぱいに頬張るとふわりと溶けていく感触。美味しさに表情を緩めるべべを横目に、淡々と眠子がミズクラゲを手で引きちぎり食べていく。ただ黙々と消化する動きに勿体無いなあとべべはぼんやりと感想を抱く。
ノーチェ先輩の、作ってくれるミズクラゲ美味しいのに。
その声無き声が聞こえたか、ふ、とべべを見遣って眠子は笑った。
「ノーチェの、作るミズクラゲは美味いねえ。さすが先人たちのレシピが詰まってるだけはある」
「でしょう?」
「まあ機械だからねえ」
最後に付け足された一言に、ちくり、とした違和感を感じながらも。それだけじゃないの、たぶん、とミズクラゲと一緒にべべは言葉を飲み込んだ。優しい機械の心。確かに、べべは感じたから、このミズクラゲが美味しいのだって、そこには、心が籠もっててもおかしくはないはずで。
そんなことを彼女に言っても、仕方ないのかな、と息を吐いてべべは代わりに別の声を探す。
「なんで、今回、ここに呼ばれたの?わたし」
にっこりとミズクラゲ丸々飲み込んだ、眠子が声を和らげる。
「もしかして、怒られるかと思ったんかあ?」
「うん」
「思い当たる節は」
「たくさん」
ミズクラゲ廃棄の多さだとか。
丸丘と先日少し話し合ったことだとか。
生意気なことしか言わない口だとか。
数々の問題を泡のように心中でふかして、べべは頷く。そう、沢山。べべは馬鹿だから。いっぱい、問題はある。べべの自覚してないところでだって溢れるほど、色んなことが。
言えば老婆は、くるくると指を大気に漂う青向けてかき回して、丸い背中ますます丸くして言い放った。
「違うなあ」
単にあんたとお話したかっただけさあと言われても。
「ねえ眠子さん。べべは、馬鹿だけど。鳥先輩たちの言うように馬鹿だけど。なんかあるんじゃないかって、思うときはあるよ」
伝えれば観念したように眠子が諸手を挙げた。
うんうん、じゃあ、と声がのんびりと青に解けて、融解して、質問を作る。

「辛い思い出はあるかあ?」

丸く曲がった背中がようやく訊いた。べべは夢うつつでその言葉を聞いていた。
真っ青な世界。急に、青が深まったような感触に身を震わせる。
「なんも、ないよ」
「本当?」
「ほんと」
「ふうん。じゃあ、何であんなに綺麗に突然ミズクラゲがひっくり返せるようになったんかねえ」
え、なんで、と目を丸くしてフォークを掌から落としたべべに、眠子は時間をかけてじんわりと微笑んだ。笑みにつれて、青が眩んで、目の前が真っ暗になる。
不意に、ここは本当にミズクラゲ科なのかという疑問が浮かんだ。ここは、べべの知る職場では無い気がする。
こんな深い青を、べべは知らない。
こんな恐ろしい青を、べべは知らない。
明るい場所ばかりを踏んできた汚れた爪先が、色に飲み込まれる。汚濁も何もかも飲み込んで、真ん中で眠子が宙に手を伸ばす。するり、と指先に沿うように溢れ出た様々な色の金魚。皺だらけの掌と遊ぶようにたゆたって、鰭動かし、吸い込まれていく。
ミズクラゲに収束される。
憂い、死も、生も、全て。そう、馬鹿なべべの頭には写る。
「この場所の秘密、教えようかあ」
そうして真ん中で手を伸ばす人の、最後の誘いに、べべの身体が勝手に動く。ふわりと浮くような気分、ミズクラゲみたいに、と思い一度瞬いた先には。金魚に包まれる、べべの貧相な身体。持っていかれるように、意識が揺れる。なぜだろう、べべは目を細める。青のその先。

制止するように手を伸ばす鳥の、焦ったような顔が浮かんだ。

ぷつん、と耳元で大きな音。頭上には大きなミズクラゲ。閉じ込められた馬鹿なべべ。もう逃げ場は無いよ、と金魚が耳元で囁いた気がした。


20140821



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