02



心をぎりぎりと締め付ける様な居心地の悪いチャイムが鳴る。始業のチャイムだと教えてくれたのは勿論真っ黒餅の餅村で、素知らぬ振りして扉を潜り出て行く背中を一つ、呼び止めて今日のべべの行き先を決めてくれたのも彼だった。
破裂したような餅の口があぐあぐと笑う。少年に向かって、べべに向かって。

べべに仕事を教えてくれることになったのはちぃ、と呼ばれた少年だった。

小さな身体、金色に染めた小さな頭、無愛想な瞳きりりと引き締めて義務的によろしく、と告げる。変声期前の子供だった。丸い頭が上下する。べべ自身も標準よりも低めな身長ではあったのだが、彼はそれ以上に小さく、本当に子供なのだとべべに認識させるほど。百三十、くらいかしらとべべは心の中でぼやく。
ハリネズミみたい。
彼は髪の毛をつんつんと逆立ててべべの手を引く。またその掌の小さなことといったら。
「ねえ」
「なんですか」
「ちぃ、さんは、すんごく小さいのね」
どうしてこんな子供が、こんな場所で、そうは口に出さずとも彼はべべの心を悟ったらしい。躊躇なく舌打ちとともに膝への蹴り一発。悲鳴と、油断していたところを狙われた不甲斐なさで呆気なく崩れ落ちたべべを前にして、ふん、と鼻を鳴らす。
「おれは!あんたに!仕事を教えるんですけど!」
生意気な口叩くなよ新入り、と大きく喚くように口が動く。付け焼刃の丁寧語。その様子にほんの少し前の鳥を思い出してべべは尚唸って見せた。意地悪意地悪、小さく唱える呪いの嵐。いたいいたいと情けなく、声を湿らせて、帰ってしまえばよかった、なんてただひたすらべべは思う。思い、しっかりと握られた掌、が僅かに心の端に引っかかる。怒りながらも離さないちぃの手。
本当に怒っているのならば手なんて離して二打三打と続きそうなものだった。
今のは、確かに、私が、悪かったのね。
ようやく。彼よりも長生きしているべべだけれど、彼の怒りや彼の叱咤はもっともだと拙く思い、頭を下げた。小さな子供だからといってもべべの先輩だった。子供だと馬鹿にした発言に聞こえたかもしれない。配慮や思慮が足りないと昔からよく言われるべべはこんな失敗をしがちだ。
べべが悩んでいた時間は、彼からすると酷く長いものだったかもしれない。いや、確実にそうだろう。怒りが多少収まったような顔色でべべを恐る恐る窺っている。
きっと、根はとてもいい人なのだとべべは頷いた。
べべ中でちぃを子供、ではなく彼を一人の工場の人間として、思考をシフトさせる。
「ごめんなさい、ちぃさん」
「ふん、分かりゃいいんですよ。新入り」
鼻を鳴らして満足そうに指された呼称に、べべは弾かれたように反論する。
「私、べべよ」
「そんなの、知ってますよ」
立ち上がると離さない掌がぐいぐいとべべを引く。名前を読んでくれないのは未だ壁があるからか。それも仕方のないことなのかしら、と自由な職場、先ほどの自己紹介の場をべべは空っぽの脳味噌に描いた。
誰しもが口を噤んだ冷たい空気。
「ねえ、ちぃさん」
「ん?」
振り返らない背中。それでも掌が返事とともにぎゅう、と握られる。その手の皮の厚いことといったら。
べべの手の方が柔らかい。ーーべべの手は甘やかされた掌だとかつてべべの過去の記憶の誰かが言っていた。
じゃあ彼の掌は、はたらいているてのひら、だとべべは思う。
「ほかの人、」
「ああ、あーと。今日が初めて、ですっけ?」
尋ねる様な少年の、少し優しい声色にべべは手をきゅ、っと握った。彼の歩調が緩やかになって、べべの隣に並ぶ。手を繋いだまま。
私迷子になんてならないわ、とべべは思ったが口を結んだ。小さな頭をがしがしと繋いでいない手でかいて、前を見たまま彼が言う。その鼻の先には小さなかさぶた一つ濡れたハリネズミの鼻のようにひくりと動く。
「ええと、あんたを引っ張ってきたのはモチさん。ホウマン、な体型したのが丸丘。背中丸めてんのが眠子ばあちゃん。で、トリは知ってるみたいですけど」
「うん」
「ミズクラゲって生き物は知ってますか?」
「見たこと、ある」
「じゃあ話は早い」
丸いやつ丸いやつ、とちぃが口に乗せながら行き着いた先は透明な扉。大きなノブを慣れた調子で捻ると彼はするりと中へ入っていく。べべは引かれるまま共に中に足を踏み入れ、そして。
「ほうああああ」
素直に感動した。
そこは先程までべべと餅村が通った来た場所とは違い、硝子越しに海の見える、柔らかな緑溢れる工場だった。苔むした地面に、行き先を指し示すように置石が存在している。軽やかに石を叩いていく白いちぃのスニーカー。後をついて時々つるりと滑るべべの真新しい黒いスニーカー。規則正しく並べられた台は透明なビニルシートかかった木製のもの。どれも渋みを増した年代物にべべには見えた。それでいてがっしりとしている。頼りがいの有りそうな使い込まれた道具だった。
「わたし、」
「ん」
「こんな、とこ初めて見た」
惚けている大人の言葉に子供が笑う。沢山の鮮やかなものを見つめた瞳がくるると丸まって、柔らかに細められた。濡れた大きな瞳。子供の頃は角膜に傷がなくて全てが大人よりも鮮やかに見える、というけれど。果たして本当にそうだったかはべべは思い出せないのだった。それでもべべにも、ここは綺麗に見える。
気が付いたら大人だったなあ、と成人になった時と同じことを何度もべべは思う。感心しながらちぃの声を受け止めつつ。
「工場長、が色々変わってたくさんのものがかわったけど、ここだけははじめの時から変わらないらしいです」
「すごいねえ」
「ん」
でしょう、と同意するように手をきゅ、っと握られた。少しだけ嬉しくなってべべは笑う。
「で、おれたちの仕事ですが」
「単純作業で御座います」
突如割いる機械音声。目を剥いて振り向くと、そこには餅村ほどの大きさの四角いローラー付きのものが一つ。空間からぽっかりと浮かび上がる。緑の楽園には不似合いだった。
巨大な機械だった。腕やそんなものは見当たらない。ただ、四角い、冷蔵庫のような風体のつるりとした灰色。上の方にカメラのレンズが一つ。一つ目のおばけのようだった。
「な、な、な」
「よう、ノーチェ」
化け物だわ、と拙くべべは言葉を失い視線を胡乱にさ迷わせる。対して軽やかに手を挙げる小さなちぃ。相変わらずつるつるしてんな、とは何だ褒め言葉か。べべは口を金魚のように開閉して邂逅を見詰める。なんでこんなものに対して叫ばずにいられるのか。
世間知らず、と笑われるべべだけど、いくつもの仕事を経験してきている。その中で、そんなもの、見たことは無かった。
「こちらの方は」
「おお、これ、新人のべべ」
あ、はじめて名前呼んでもらえた、けれど。それどころじゃないわ、と流石の馬鹿なべべも動揺を隠せない。
「ノーチェです。当工場へようこそいらっしゃいました。一緒に頑張りましょう」
滑らかに挨拶される。滑らかにちぃより敬語が滑り落ちる。
我慢の限界だった。

「ち、ちぃさん!このおばけ!人間みたいよ!」

思わず挙げた配慮の無いべべの悲鳴に目を真ん丸にして、ゆっくりと細め、ちぃは応える。
「ああ、……そう?」
「こんなおっきくて!」
「うん」
「こんなつるつるで!」
「うん」
「こんな!なのに!」
「うん」
「人間みたい!」
一通りべべの反応を受け取って、困ったように笑うちぃ。傍らのノーチェにひたりと触れて、感触を楽しむように撫で、ゆったりと声の調子を落とす。
「そうですね、それでも。今日からあんたの同僚ですから。余り変なことを言うな」
そこに揺ぎ無い怒り、を見た気がしてべべは口を噤んだ。先程とは違う種類の激情。まるで沸騰する前の水みたい、と心の中でぼやくに留めて緑の楽園に沈黙が落ちる。じわじわと染み渡るちぃからの怒り。緊迫した数十秒。それでもべべにはとても長い時間に思える、張り詰めた空気。眼光が鋭さを帯びて、どうしたらいいのか分からない。
だって、おばけ、みたいだもの。見たこと無かったから、声が宙を滑る。
意外なことに二人の均衡を破ったのは突飛なことを言われた当のノーチェだった。
「ちぃさん。どうしましたか?私、怒っておりません」
「それでも、ノーチェ。こいつ」
「皆さんは親しんでいるから、その反応が出来るというもの。それに、微笑ましいじゃないですか。余程、引き攣り笑いに握手を求める大人よりかは、ずっといい。素直におばけと言われた方が」
ね、と機械に促され、渋々と怒りを引っ込めるつんつんハリネズミ。
膨れた頬っぺたをぱかりと開いた側面より伸びた手がそっとつつく。
「ほら、怒らないで。仕事を教える、先輩でしょう?」
「……うん」
カメラがきゅきゅ、と音を立てて小さく焦点をずらすようにべべを写すと、向かってやっと声が落ちる。
「べべさん、私はこの通り、機械です。中身もどっかからか落としてきたはぐれもののプログラム。だけどこんな私と、仲良くしてくれますか?」
「うん」
「仕事を機械から教わることに抵抗はありませんか?」
「無いわ。びっくりしちゃったけど、ノーチェは先輩だものね。宜しく」
おねがいします、と拙く下げたべべの頭を一度、罰が悪そうにべちんと叩いてちぃは再びべべの手を引く。
頭を上げる前に引かれてしまい傾いた身体は、辛うじてノーチェが支えるものの間に合わず、額を台に強打しべべは痛みに悲鳴を上げる。大人なんだからもう少ししっかりしたら、という言葉にこんな時にばかり子供の権利を振りかざすのはずるいーーひっそりべべは思うのだが今度は何も言わず体制を立て直した。
その目の前にはこんもりと置かれたミズクラゲ。水槽の中でよく見かける丸い生き物がそのまま、木の台の上で所在無さげに佇んでいる。多分死んでいる。透き通るような色彩だった。
「ミズクラゲ科。はじめの仕事は、ノーチェが均等に並べたミズクラゲを、まん丸に形を整えて拡げていくこと」
その際に、真ん中の花の形に気をつけて。
口を動かしながらちぃの小さな手が同じ力の配分でミズクラゲをぐいぐいと拡げ、綺麗な半透明の花が作業台の上に咲く。歪だった山がコンパスで引いたように美しい平面の円へ。すごい、と口からべべが零せば、あんたもやるんですよ、と憎まれ口。
「どんなに要領悪いやつでも十匹拡げればコツを掴む。セイショクセン……とかなんとか、とにかくこの真ん中の花の形、が歪じゃ売り物にはならないん、です」
「……難しいわ」
「そのための、これ」
鍋の蓋、のようなものを手渡されべべは唸る。
「押し付けて、均等に力加えりゃ余程のことが無い限り失敗しない。これはトリの意見」
やってみて、と言われ恐る恐る手を伸ばしたちぃの隣のミズクラゲ。透明なぶよぶよとしたものを、大雑把に拡げ、べべは蓋を上から押し付ける。

ぎゅう。
ぎゅぎゅ。

そうして見事に、失敗した。

自らの為したものよりもだいぶ歪な、ミズクラゲを摘んでちぃは嘆息する。散ってしまった花びらが可哀想に、と心を抉るような意見。
「あんたの方がおれより身長あるのになんで失敗すんだか、わかんないんですけど」
「すみません……」
ぐうの音も出ない。
まずは少しずつ、と教えるちぃとノーチェの元、いくつもミズクラゲをだめにして半泣きになりながら、べべの初日は過ぎていった。積み上げた失敗はあっという間に一ダース。後で食べたら、という機械の言葉に目を丸くして。
目の前には崩れた花びら、可愛そうなミズクラゲ。


20140723


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