温みの雨、氷の器


一、
この国は、雨がよく降る。水が豊富なのもなるほど、とうなずけるほどに。これから雨季に突入すれば、いっそう雨が大地を、みどりを潤すのだろう。場所が違えば、雨の性格も、音も変わるようだった。雨粒が屋根を跳ねる音、土の地面を叩く音、若菜の表面をすべる音、それから水面に還る音。幾重にも折り重なった響きが壁に濾過されて、心地よく耳に響く。雨の音は心に落ち着きをもたらすらしい。読書にはもってこいの環境だった。
「あー、もう、びしょ濡れだってばよ!」
勢いの良すぎる音とともに、木戸を開けて飛び込んできたのは、ナルトだった。太陽の色の髪先からぽたりぽたりと雫を零し、頭を振る様は子犬のようにも見える。
「やだ、水が本に飛ぶでしょ」
こうなるだろうな、と思って用意していたタオルを三和土に向かって放り投げる。暦の上では初夏といっても、雨の降る日はまだ少し冷える気がする。風邪でも引いたら大変だ、とぐっしょりと水を吸った上着を早く脱ぐように急かして、サクラは替えのシャツを手渡した。午前中、まだお日様が出ているうちに干したものだから、ふわふわとしていていい匂いがする。
「ところでサスケくんは?」
皆でお昼を食べたあと、競うようにして飛び出ていったはずだった。一緒に修行していたのではなかったのか。
「最初は一緒に木登りの修行してたんだけどさ、途中からどっか行っちまったんだ。多分、火遁の修行しに行ったんだと思う」
それを聞いてサクラにはひとつ、思い当たる節があった。火遁を使った応用術を使いたいと言うサスケが、昨晩カカシに戦法書を借りているのを見たのだ。火遁の修行をすると言うのなら、あんまりに木に囲まれた森の中では勝手が悪いだろう。いくら雨がよく降るとは言え、山火事にでもなったら大変だから。
サスケは、そういうことをよく考える人だ。だからきっと、少し開けた場所、それか、水辺の近く。
「私、迎えにいってくるね」
言うや否やサンダルを足首まで引き上げて、傘立てから一番雨から守ってくれそうな大きな一本を引っ掴む。
「えー、サスケばっかりズルイってばよ」
「何言ってんの、こんな時だし、留守番してる人がいなかったら危ないでしょ。カカシ先生たち、いつ帰ってくるのかわからないし」
ガトーの一件が七班の活躍、そして再不斬と白の死によって収束に向かい、島の住人の生活が再生の兆しを見せた今になっても、未だ不安定な治安の中で、その残党や弱い立場の住人に付け込んだ悪党がいつ再び状況を覆すともわからなかった。そういう懸念と、怪我の療養をするという目的のもと、七班はしばらくの間波の国に逗留することになっている。今日もカカシは護衛と相談役を兼ね、タズナに連れだって職人の自治組織の会合に出向いていた。
ナルトはキョトンとした顔の後、何故かへへへ、と照れ笑いをした。
「何よ」
「んーん」
「そういえば、おやつ冷蔵庫に入ってるって。わたしもまだだから全部食べないでよね。いってきます!」
オウ!と後ろから聞こえた元気の良い返事を信じていいものが迷いつつも、サクラは大粒の雨が降りしきる中に飛び出して行った。どうかどうか、帰ってくるまでにまだ残っていますように。
「いってらっしゃい!」
一等大きな声を張り上げて、ナルトは乾いた床にごろん、と寝転がった。慣れない言葉を口にするのはどきどきするし、擽ったい。背中がほのかに温かいのは、先ほどまでサクラが座っていた場所だからだろうか。修行しているうちにあっという間に空になってしまったお腹は、情けない音を立てて食べ物を催促するけれど無視することにした。
「るすばん、るすばん」
人が帰ってくるという些細な約束は、ひとりぼっちでいるのに温かい。静かな部屋には慣れている。
サクラちゃんはきっと今ごろ、雨の中、ぱしゃぱしゃと裾に水をはね返らせてサスケのところに走っているのだろう。それで、サスケを見つけたら嬉しそうに自分の傘のなかに入れてやるんだろうな。帰ってくる頃にはちょっと顔を赤らめて恥ずかしそうな顔をしているのかもしれない。自分には決してしてくれない、だけど好きな女の子の大好きな表情。
ころころと惰性のままに寝返りを打って、ぶつかったのはサクラが読んでいた本だった。文字が小さく、聞いたこともない言葉とわかるようでわからない言葉が絡み合っている。
「なんだこれ、全然わからねぇってばよ」
程よい疲労感に全身が浸っていく。重たくなる瞼に抗う理由もなく、素直に身を任せると、雨の音が遠ざかっていった。

***

「サスケくん!」
川沿いに歩いていたサクラは、水辺からほど近い大木の下に、見慣れた青い色を見つけて大きく手を振った。雨宿りしていたんだ。珍しいな、と思った。てっきり雨の中でも気にせずに歩いてくるだろうと思っていた。傘を差し出しても、必要なかったと断られるだろうからと予想して、あれやこれやと言い訳を考えながら走ってきたのに。
「迎えにきたの」
サスケはじっと雨の中に立つサクラのことを見つめた。感情を伺うことの難しい深い闇の瞳の中に入っていることが、嬉しいようで落ち着かない気持ちにさせる。何か、機嫌を損ねるような部分があっただろうか。
「早く帰ろ」
サスケはしばらく黙ったまま、数回瞬きをした。その腕の中に戦術書が抱えられているのを見つけて、サクラは合点がいった。本を雨から守っていたんだ。その時、ぴしゃん、と大きな雨粒が落ちて、サスケの黒髪を濡らした。木の葉に溜まった水滴が耐えられずに滑り落ちたのだろう。それを甘んじて受け止め、サスケは軽く頭を振った。いつも無駄なく行動するサスケが動き出さないことに戸惑って、振り払われるだろうと思いつつ、サクラは雨の中に手を差し出した。
「サスケ君」
一瞬の間を置いて、サスケの手がサクラの手に触れた。思わず、え、と驚きの声が漏れた。差し出した手に応えてくれると思わなかったこと、思っていたよりもずっと、サスケの手が温かかったこと。火遁を使うサスケの体に流れる血液はサクラのものよりもずっと熱いのかもしれない。雨が打ち付けているはずなのに、触れたところから熱が広がる。サスケのものなのか、サクラのものなのかはわからなかった。
振り払われなかったことは、サクラの心を少しだけ勇気づけた。手を握って、一歩踏み出して、傘をサスケの上に掲げた。
「帰ろう」
もう一度、繰り返す。サスケは何も言わなかった。何も言わずに、傘の下、サクラの横に収まって、サクラの手から持ち手を奪った。一人で差すには大きすぎた傘は、二人で入ると窮屈で、肩が触れそうになるのだということを知った。

***

途方に暮れていたわけではなかった。雨が上がるまで待てばいい、最悪本を服の下にでも隠して帰ればいいだろうと考えていた。
空が鈍色に変わり、雨で視界が悪くなった中で、近づく赤い服は灰色の世界によく映えた。徐々にはっきりと見える姿、大きな傘。不安か、心細さか、自覚すらしていなかった何かがふっと溶ける心地がした。
「迎えに来たの」
当たり前の顔をして差し出されたサクラの指は冷え切っていた。それなのに。
与えることと与えられることに慣れている手だ。それが無造作に植え付けていくものを、きっと当人が知ることはないのだろう。
傘は世界を遮断する。それはずっと、寂しいことなのだと思っていた。でも、思い出してしまった。肩が触れ合うか、触れ合わないかという距離の間を人肌の湿った空気が漂う。傘に跳ね返って、鈴のような声が響いた。
この国の雨は、どこか生温い。

二、
なぜなのだろうか、サスケくんは雨の日でも傘をささない。
サクラは以前から薄々、そのことに気づいていた。
朝からどれだけどしゃぶりの雨が降っていようと、彼は黒い髪を烏のように濡らして顔を真っ白にして待っている。そうかと思えば、集合場所では雨宿りはしているのだから、彼なりのルールが存在するらしい。
もちろん、雨の日に戦闘を伴う任務や偵察を行うときは傘なんてさしている悠長な暇はない。いかなる天候であっても任務を遂行できるよう、天候不順を想定した訓練も行う。それでも、まだ下忍のサクラたちに割り当てられる低ランクの任務は緊急を要するものは少なく、雨の日ならば屋内の仕事を優先的に振り分けられる。
だから、わざわざ濡れる必要はないように思うのに。無駄なことを厭う彼が、どうしてこんな矛盾に満ちた行動をするのか、サクラにはわからない。
ほら、やっぱり今日も。昨夜から降り始めた雨は、朝になってもしとしとと降り続いていた。ひと足先に集合場所に着いたサクラは、自分が来たのとは反対の方から、見慣れた青が傘を差さずに歩いて来るのを見つけた。
雨の日のサスケについて、気づいたことがもうひとつある。
覇気がない、とでも言えばいいだろうか。少しだけ普段の鋭さが抜け、考え事をしている時間が多くなる。寂しげと見ることも、脆そうに見えるとも言えた。
「どうしてサスケ君は雨の日になると元気がないんだろう」
一度、ナルトに零してみたことがある。
「元気がないってのはわかんねえけど……、あ、あれだってばよ。ズバリ、火遁が効かないから」
ナルトに聞いた自分がバカだったと思った。傘を差さないことと、元気のないことに関係はあるのだろうか。知りたい、けれど雨の日のどこか様子の違うサスケを目の前にすると、うざったがられるのではないかと問いかける勇気が失せた。好きな人には嫌われたくない。
だからその代わりに。サクラは雨の日に任務が重なると、サスケを傘の中に入れて、うちはの街区の入り口までくっついて歩いていった。普段ならいつの間にか姿を消してしまうのに、不思議と、雨の日だけ、サスケはサクラの同行を許してくれた。
二人で入るために、サクラは新しく、大きな傘を買った。雨の日だけの特別。梅雨に入って、雨降りの日が増えるに従って、徐々に習慣が積み重なっていく。
その一。最初のうちは、すたすたと歩きだしてしまうサスケを追いかけていたが、徐々に待っていてくれるようになった。
その二。波の国で雨宿りするサスケを迎えに行って以来、傘は必ずサスケが持ってくれた。
帰りましょうと約束したわけでもなければ、言葉で出来上がったルールというわけでもない。ただ、同じもの、同じ空間を共有している。少しだけ、普段の境界を踏み越えることが出来る。
それだけで幸せだった。

***

雨が好きなのか、嫌いなのかと問われても、恐らくそのどちらでもない。
ただ雨に打たれると、孤独が和らぐ気がしたのは、幼い日に空が自分と一緒に泣いてくれていると思ったからだ。耳を覆う雨音は、ひとりきりの静けさを隠して、身体を伝う雫は寂しさや悲しさを共有しているような気がした。傘を差すは必要なかった。濡れるほうがずっとよかった。
そうしていたのに。一緒に入ろうと傘を差し出される。濡れてしまうからといって、根気強くついてくる。
雨の日は、修行も思い通りにいかなかった。言い訳かもしれない。だが、どこか気が緩む。焦燥感に霞がかかる。今日はおやすみ、と雨が囁く。頭をもたげるのは年相応の自分だった。
雨の日だけ。肩が触れ合うほどの距離で、ただ帰り道を共にする。いつしかそれは暗黙の了解になった。

***

その日七班の任務が終了したのは、珍しいことに日付も跨いだ夜更けのことだった。昼間から降り続く細雨は、夜の闇と相まって空気をずっしりと重いものにしている。通りには街灯が点いているばかりで四人を除いて全く人の気配がなかった。大方の住人は既に眠りに就いているのだろう。
「じゃ、お疲れ様。深夜だから帰り道は気をつけて」
カカシは腕を組んでサクラのことを見下ろした。
「サクラ一人で大丈夫?いくら忍って言っても女の子一人でこの時間だからね……、途中まで一緒に行こうか」
「それなら、それなら、俺が一緒に行くってばよ!」
「いい。サクラ」
サスケが顎をしゃくって、サクラの腕を掴み歩き出した。
そう、そうです。雨の日の私にはサスケくんを送っていくという大事な仕事があるのです。夜道だって、曲がりなりにもくの一だから大丈夫です。サクラは手を引かれながら、慌てて後ろを向いてカカシとナルトに手を振った。 ――腕を掴まれている。サクラはぱちぱちと瞬いた。冷静になって突きつけられた現実に、心臓が逸っていく。気付いてしまってからはもう、そのことしか考えられなくなった。前を向いているサスケは、もしかしたら手首を掴んだことなど忘れているのかもしれない。どうしよう、ものすごくメルヘンゲット。
腕から全身にじわりじわりと熱が広がっていく。既に顔は真っ赤になっているに違いなかった。雨に当たった冷ましたほうが良いかもしれないというくらいに頬が熱い。
夜道を好きな人と二人きり。唯でさえ嬉しいのに。顔を見たら、今の状態がバレてしまいそうで、サクラは必死に地面を見つめて歩いた。
「着いたぞ」
サスケの声に促されて、はっと顔を上げる。
「あれ?」
おかしい。春野の表札。
「どうした」
「ううん……」
「じゃあな」
おやすみなさい、と咄嗟に答え、すぐに背を向けてしまったサスケの背中を見送った。
サスケが家まで送ってくれたのだと脳が咀嚼するまでに随分と時間がかかった。
「……サスケ君!ありがとう、その、送ってくれて!」
寝静まった町に、声が響いた。既に向かいの家の屋根に跳び移ったサスケは、背を向けたまま片手を上げて、そのまま夜の中に消えていった。
こうやって想いは募っていくのだと、サクラは未だ鳴り止まない心臓を抑えた。少しずつでいい。雨が一回降るごとに、彼の心に近づきたい。

三、
「いやな空模様……」
サクラは走らせていたペンを止め、窓から見える空を見上げて、忌々し気に呟いた。中忍試験本選の最中に始まった砂隠れとの戦争は、里の人手と街並みに甚大な被害をもたらし、慌ただしく行われた三代目の葬儀の後も里の復旧作業で休む暇などなかった。もともと数の限られた上忍たちは、輪をかけて目の回るような忙しさらしい。葬儀以来、カカシの姿も見かけていなかった。下忍たちは担当上忍を抜きにしたスリーマンセルで、負傷者の身元確認や瓦礫の撤去、電線の復旧の補助などを担っている。
「やっぱり降ってきた」
最初のうち点々とアスファルトの上に丸い染みを作った雨粒は、いつの間にか乾いたところをすべて塗りつぶし、みるみるうちに本降りになっていった。今日は傘を持ってきていない。
皆で濡れて帰るしかないなあ、とサクラはため息をついた。慣れない報告書作成はなかなか筆が進まない。こういうのは三人の中で自分が一番得意だろうと引き受けたものの、いつもは上忍が作成して提出してしまうため、ほとんど勝手がわからない。
相談しようにも、ナルトとサスケは作業中に出た廃材と金属を分別しに集積所へ赴いている。軒下をうまく帰って来れるといいけれど。まだしばらく時間がかかることだろう。それまでに自分がやるべきことは目の前の報告書を完成させることだった。
こんなことで二人に迷惑をかけたくないし。
ようやく用紙を埋め終わり、先に提出するか、二人を待っていようかと迷っていた矢先、窓の外からこちらに向かって手を振る人がいた。
「お母さん」
どうしたのだろう、と入口まで走っていくと傘を手渡された。
「ちょうど夕飯の買い物に出るところだったから。このあたりにいるなら渡そうと思ったのよ。もう任務は終わりなの?」
「うん、もう少し」
そう、じゃあ気をつけて帰ってきなさいよ、と母は雨の中を、買い物袋を提げて帰っていった。甘やかされ、愛されているのだ。そういうことが最近、ようやくわかるようになっていた。
「サクラちゃーん!こっちはばっちり終わったってばよ!」
行きしなには前方が見えなくなるほどの大きな箱をひとつずつ抱えていた二人が、手ぶらになった代わりにズボンの裾を少し濡らして帰ってきた。
「サスケくんもナルトもお疲れ様」
「そっちはどうだ」
「多分、大丈夫。念のため確認して」
書き終わったばかりの報告書を手渡すとざっと目を通して、サスケが頷いた。
無事、不備のないことが確認され、今日の任務が名実ともに完了し、未だ降りしきる雨を眺めながら三人は火影塔の玄関までやってきた。一時の夕立かとも思えた雨はしばらくの間止みそうになかった。
「サクラちゃん、傘持ってたっけ?」
サクラが腕にかけていた傘を見て、ナルトが首を傾げた。
「あー、うん、朝、もしかしたらと思って。傘立てにね」
咄嗟についてしまった嘘が正解なのか、間違いなのか、自分でもわからなかった。

***

「やっぱり傘一本に三人は無理だろ」
「大丈夫、この傘大きいのよ」
「サスケてめえもう少し端によれって!」
はみ出しては肩を濡らし、お互いの足を踏みそうになりながら、サクラを真ん中に雨の中を進む。肘を寄せて傘を握った両腕には、それぞれサスケとナルトがぴったりと寄っていた。
きっと、今日の雨で屋根や道にこびりついた血のあとは、綺麗に洗い流されることだろう。この里はそうやって傷ついては立ち直り、続いてきたのだろうと思う。
悲しみや喪失を乗り越えることは簡単なことじゃない。忍として生きていく以上、争いや死は平和よりもずっと身近にあるのかもしれない。それでも、こうやって過ごせる日がまた続けばいい。予選終了以降ひと月離れ離れだった分、言い合う二人の間にぎゅうぎゅうに挟まれて歩く、それだけのことがこんなにも嬉しい。
「先にナルトの家ね」
「何で?」
「だって私、サスケくんと相合傘で帰りたいもん」
「ひっどい!おい、サスケ!」
「俺に言うな」
ぎゃあぎゃあと言い合っているうちに、ナルトの家はすぐそこまで来ていた。自分が見送りたいとか、ナルトは今日鼻水を垂らしていたから早く帰って寝て欲しいとか、雨の日はサスケのそばにいたいだとか。ああでも、二人きりでいたいというのもどうしようもなく抑えようのない本心。いろいろなことを考えて、結局全て自分の勝手だとわかっている。
「フン、今日ばかりはお前に譲ってやるってばよ」
捨て台詞のような言葉を吐いて、自分を指差すナルトにサスケは呆れた顔をした。
「じゃーな、サクラちゃん、サスケ!」
「また明日」
忍らしい身のこなしで雨の中、二階に跳び上がったオレンジ色の背中を見送る。ドアの前でこちらを振り返り、大きく手を振るナルトに、サクラも手を振り返した。
二人には今まで生きてきた方法があって。それを何も知らずに生きてきた自分が、自分のものさしで勝手に憂えて、彼らの抱えているものに寄り添いたいと思ってしまうのは、傲慢なことなのだろうか。
「行くぞ」
当たり前のようにサスケが傘の持ち手を奪う。視線がかち合って、穏やかだったはずの心臓がうるさくなった。なんて現金なのだろう。けれど、ひとりぶん、余裕の出来た空間を無視して、許されるのならばこのままの距離で歩きたい。

***

遠くで雷が鳴っている。サクラたちの上空よりも黒く分厚い雲が西の空に広がっていた。時折、獣が唸るような音が大気を震わす。雨脚はますます強さを増すばかりか、風も混じるようになっていた。夏の嵐は気まぐれだった。
「ナルト、風邪気味だったね」
サクラが思い出したように呟いた。以前なら気にならなかったであろう些細な言葉が、サスケの胸中をもったりとかき混ぜた。
サクラがナルトのことをきちんと気にかけているということ。その事自体はどうでもよかったはずだ。仲間を慮っていることに問題などあるはずもなかった。それなのに。
ああ、それだからナルトを先に。ふと思い当たってしまった可能性にちりちりと胸が焦げるような思いがした。自分だけに向けられることが当然だったものが。あの時確かに感じた優越感を否定されたような気がした。
身を苛む劣等感を無視することが出来ない。守りたいと思ったのを守れなかった自分。サクラがナルトに向けた表情が、脳裏に焼き付いていた。思わず、傘を握る指に力が入った。
真白い稲光が、鈍色の空を割りさくように駆けぬけた。サクラの肩がひくりと跳ねた。別にここに落ちるわけでもないものを。サクラは我慢をしているのか、怖いと口にはせずに腕で自分を抱きしめていた。雷が鳴る度に身体がわずかに強ばる。そのくせ、何でもないという風を装い続けている。
その様子を何も言うことが出来ずに、サスケはただ眺めていた。こわいと。ひと言言えばいいものを。
サクラの甘えたな部分に苛立ちを覚えていたはずだ。
「雷すごいね、はは……きゃっ」
再び、青白い光があたりを明るく照らしたかと思うと、たちまちに爆発音にも近いような雷音が轟き、サクラは思わずサスケの腕にしがみついた。
「あっ、ご、ごめん……」
雷鳴が呼び水になったかのように、どす黒い暗雲が立ち込めて、たちまちのうちにバケツをひっくり返したような雨に変わった。
「走るぞ」
横殴りの暴雨の中を走った。サクラはその間もサスケの腕を掴んだままだった。走りづらくなるにも関わらず、振り払う気になれなかったのは、雨のせいだと思いたい。
家の前までたどり着いても、サクラは傘を閉じようとせず、足は躊躇っていた。
「何突っ立ってる」
「いいの?」
「こんな大雨の中帰れとは言わねえよ」
戸を開け中に入ると、三和土の上にぼたぼたと雫が落ちた。
傘の意味なんてほとんどないような暴雨のせいで、ふたりともずぶ濡れになっていた。サクラはお邪魔します、と小さな声で呟いて、所在なさげに上り框の端に腰を下ろした。ぐっしょりと水を吸ったスカートの裾を絞ると、小さな水たまりが出来る。
サスケがタオルを持って玄関へ戻ってくると、サクラはむき出しの肩を小さく丸めて手を握りしめていた。雷は未だ鳴り止まない。
「そんなに苦手なら先に帰りゃよかっただろ」
そもそも先に自分の家に寄って、サスケたちに傘を渡すなり、やりようはいくらでもあったはずだ。図らずして鋭い口調になったサスケの言葉に、サクラはしょんぼりと眉を下げた。
「だって……、だってサスケくんと一緒にいたかったから」
「…………」
そういうことをサクラは隠すこと無く口にする。いつも、いつも。
真っ直ぐで、熱くてかなわない。す、と蟠りが溶けゆく感覚がした。呆れ返るはずのそれに、なぜこうも救われたような心地がしてしまったのか。わからないままでいたかった。調子を乱された感情に目を背けて、苦し紛れにサクラの顔にタオルを押し付ける。
サクラは渡されたバスタオルに身を包み、顔を埋めると、ほう、と息を吐いて頬を赤らめた。
「サスケくんの匂いがする」
ぱっ、と外が瞬く。程なくして猛々しい雷鳴がガラス戸を震わせた。首を竦め、横に立つサスケを見上げたサクラは泣き出しそうな濡れた目をしていた。
「だめ?」
サスケの服の裾に遠慮がちな指先が触れた。縋るような手が、サスケの指を引く。……最初からそうしておけばよかったんだ。
「別に」
サクラが座っている場所よりも一段高い廊下の床に腰を下ろす。冷たかった手は、徐々に熱を取り戻していった。雷が鳴る度に揺れる指先を宥める。落ち着いていく表情に、満たされるものがあった。
随分と派手に鳴り散らかした末、雷は遠ざかっていった。大義名分は過ぎ去ってもなお、触れる指には気づかないふりをした。
「ずっと会えなくて、心配だった……」
ぽつりとサクラの声が床に落ちた。
「カカシ先生は大丈夫だって言ったけど、全然様子がわからないし。いつの間にかいなくなっちゃうし。お誕生日だってお祝い出来なかったでしょう」
ごめん、特訓で忙しかったんだよね、とサクラは自分に言い聞かせるように笑って、俯いた。憂いを帯びたまつ毛に、胸の詰まるような思いがした。戸惑って視線を泳がすと、中忍試験以来、短くなってしまった髪と、任務服の間から覗くうなじが目に入った。我愛羅の砂によって長時間締め付けられた白い首には、未だにうっすらとした鬱血の跡が残っていた。
「またサスケくんが無理しているんじゃないかって不安で。毎日毎日、サスケくんのこと考えてたの」
す、と細い指先がサスケの首元のアザになぞるように触れた。
サクラは左肩に額を寄せて、絞り出すように、怖かった、と呟いた。布越しに感じる呼吸。
「でも今こうしていられるから」
指の先を滑った髪はまだ、水気を帯びていた。
眠りに落ちて余計に体温の上がった身体が、半身に触れる。
やわらかな重みをどう扱っていいのかわからない。不慣れなことばかりだった。
短く切りそろえられた髪は、守れなかったもの。強くなりたかった。人を不安にさせず、己の力で。

***

「雨上がったぞ」
嵐が洗い上げた世界は、先ほどまでの土砂降りが嘘のように煌々とした西日が射し、琥珀色に染まっていた。どこからともなくヒグラシが鳴き始め、やがて幾重にも重なって世界を元通りに構成した。
遠ざかる赤い背に浮かぶ白い輪の家紋が、陽炎のせいで歪んで見えた。

四、
床に散らばった林檎を拾い集める指が虚しく震えた。向けられた眼差しとものの潰れる水っぽい音。あんな恐ろしい目が自分に向けられたことは今まで一度もなかった。それから、ナルトにも。だってあれは、――敵意。こわい、と思ってしまった。
床に叩きつけられた陶器の皿は、端が欠けていた。それでも形を保っていたのに手に取ると、中央には大きなヒビが入っていて、持ち上げた瞬間にばらばらに砕け落ちた。誤って触れた断面が指を切り、赤い血が滲んだ。
恐ろしかった。何か歯車が狂ってしまったような、そんな気がする。先ほどまでサスケが寝ていたベッドは、よれたシーツだけが残っていた。サスケはまだ帰ってきていない。
それから数日の間七班に任務が入ることはなかった。カカシが任務で不在にしていたし、屋上での騒動のあと無闇に二人を接触させないほうがいいと判断されたのかもしれなかった。家まで行ってみるという方法は確かにあったが、様子がわからない不安と顔を合わせることの不安がぶつかり合っている。時間があるだけ悪い想像をしてしまうからと、半分任務のような形で書庫の整理作業を手伝っていた。
「ああ、あんた」
聞き覚えのある声に後ろから呼び止められて、サクラは驚いて振り返った。
「五代目、火影様……」
数週間昏睡状態にあったサスケを、手をかざすだけでたちまちにして治してしまった、凄い力を持つ人。ナルトが連れ帰ってきて女の人だというのに新たな火影様に就任した美しい人だった。そんな人が、なぜ私に。
「何か」
「あの子、ほらサスケだっけ。どこにいるか知らないかい?」
「いえ、病室には行ったんですけど、もういないと言われて、それからは……。あの、サスケくんが、どうかしたんですか」
「ああいう幻術はかなり精神に負担をかけるから。フラッシュバックがあったりしてね。心の後遺症って言えばいいかい。だから、精神安定の薬と睡眠を促す薬を処方しようと思ってたんだよ」
不安げに見上げたサクラに、綱手は袂から紙の包みを出して見せた。
「あんたなら知ってるかと思ったんだけどね」
サクラが不思議そうな顔をすると、綱手は笑って髪をかき上げた。
「いや、ね。……親しいのかと思ったから」
思い当たる節がなくて、綱手の言葉をよく理解することは出来ない。ただ、綱手の説明の中の言葉が心につかえた。あの日のサスケは間違いなく取り乱していた。幻術の内容も、昏睡に陥る前のサスケに何が起こったのかも、何も知らない。だけど。
「それって、酷いものなんですか」
「ん?」
「心の後遺症って……。サスケくん、火影様がいらっしゃるまで寝ている時、時々酷くうなされていて。ずっと辛そうで、でも私には何もしてあげることが出来なかった。目が覚めたけど、今もサスケくんは苦しんでいるんでしょうか」
「可能性はあるね」
「……私、行ってみます。サスケくんの家に」
「もう夜だよ。明日でいいから」
窓の外は日が暮れてからもう随分と経っていた。いつの間にか降り始めていた雨は、夜の闇をさらに濃いものに変えていた。
サクラは頭を振った。雨の日のサスケくんはどこか寂しそうだった。目を背けたくない。躊躇っていた原因だった、あの日のサスケへの恐怖心が消え去っていく。
早く、早く。綱手から受け取った包みを抱えて、サクラは雨の中をひた駆けた。

***

「サスケくん!」
夜に不釣合いな高い叫び声が、濡れたサスケの耳に届いた。
未だ、深い葛藤の中にいる。迷いも、弱い自分も全てこの雨に洗い流して欲しかった。傘も差さずに着の身着のままのサクラは、追いすがるようにサスケの腕を掴んで、包みを手に押し付けた。
「これ、火影様が。精神を安定させる薬と、良く眠れる薬だって」
「必要ない」
「でも」
「…………」
「サスケくん」
「いらねえって言ってんだろ」
声を荒げると、サクラがにわかに怯えた表情を見せた。違う、そんな顔をさせたかったわけではない。傷つけたいんじゃない。
大切にしたかった。復讐と、仲間。揺れ動いてもなお、守りたかったもののはずだ。でも、今の弱いままの自分には結局どちらも叶わない。どうしようもないこの身が、ただ苦しかった。
怯えてもなお、サクラはサスケの腕を離そうとしなかった。
どこまでも、本当に。雨の日は思考が鈍る。言い訳をする。雨が降っているから。最後に、これきり。

***

「サクラ」
沈黙を解いた声は、先ほどの怒鳴り声が嘘のように優しかった。
伺うようにその瞳に視線を合わすと、暗闇の中、サスケの目が巴を描いて赤く光った。 ――幻術。戸惑いが一瞬の間を生んだ。意識がわずかに飛ぶような、視界の揺らぎの中、耳なりのように雨音が頭に響く。
「なんで……」
あたりの景色にまるで変化はなかった。サスケはこちらをみつめたまま、見たことのない表情をしていた。
顔を歪めるサスケの頬を絶え間なく雨粒が伝って、泣いているかのように見えた。涙を拭うように、サクラの指が彼の頬をかすめると、それが引き金だったように両腕が伸びてきて、引き寄せられる。驚いて身じろぎするサクラを逃さないとでも言うかのように、背にまわった腕に力がこもり、肩口に顔が寄せられた。幸福なはずの瞬間は、心臓を締め付けるような苦しさを伴っていた。何もわからないまま、温もりを享受する。
サクラと呼ぶ声が、首筋に溶けて消えた。雨に打たれて体は冷え切っているのに、触れ合う部分が熱をはらんでいる。この幻術には一体どんな意味があるのだろう。幻術を解いたらそこには何があるのだろう。どくどくと心臓が鳴る一方で、悲しい予感が胸を襲う。
どこにも行かないで。ただそれだけを思った。
幻術だとわかっていてもその体を逃さないようにサスケの服を握りしめた。額をこすりつけた青い肩からは、きちんとサスケの匂いがした。
雨に混じって溢れ落ちた涙はサスケくんに届いたのだろうか。

***

幻術に適性のあるサクラのことだ。既に幻術の中にいることには気付いているのだろう。それでも解こうとはしなかった。
術が切れようが切れまいが、サクラが幻術なのだと思っていればそれでよかった。
幻術の中の自分がしているように、背中に腕を回し抱きしめ、首筋に顔を埋める。気づかなくていい、幻術だと思ってくれればいい。そうすれば、何もかもなかったことに出来る。
背丈はほとんど変わらないはずなのに、腕の中に収めたサクラは驚くほどに華奢で、柔らかかった。違う生き物だ。細くて水気をはらんだ髪が頬をくすぐる。自分から彼女の温もりに縋ったのは初めてだった。
触れたところから、心を溶かすように体温が染みていく。自分はこれを知っている。これは、愛情の温度だ。死にかけた時も、呪印と怒りに支配され我を忘れたときも、地獄のような長く苦しい悪夢から目覚めたときも。いつも。幾度となくサクラに与えられるたびに、冷えた心がその温かさにもがいていた。
受け容れてはいけなかった。やっぱりこの温度は自分をだめにする。自分の生きる意味を揺らがせる。 ――何かを得るためには、何かを捨てねばならない、と。
ならば。
肌からも髪からも、サクラからはいつもやわらかな匂いがした。家族がいて、年頃の少女らしさを謳歌する、平凡な幸せの香りだ。飢えた器を満たすように、息を吸った。
守りたかった。
でももう、ここにいることはできない。思いは定まった。交わらない道の先、生きる彼女のことを思った。受け入れるわけにはいかなくとも、彼女が与えようとした一時の「平凡」は甘ったるく、鬱陶しく、そして温かかった。
もしも、と。想像してしまった。
サスケくん、と耳元でサクラの声がこぼれる。その声に応えるように抱きしめる腕にいっそう力を込めた。知らぬ間に降り積もってしまった不要な感情はここに押し付け、捨てていく。
伝えず、渡さず、全ては幻の中にどのくらいの間そうしていたのかわからない。幻術が解けたサクラは気を失い、肢体からは力が抜けた。横抱きにしたサクラは相変わらず軽かった。見下ろすと雨にさらされ続けた頬は冷えて真っ白になり、髪が張り付いていた。忙しなく動き、きらきらと光る翠の瞳は固く閉じていた。そろそろ帰さねば風邪を引くだろうし、何より彼女の両親が心配するだろう。サクラは帰る場所のある、明るい道を歩む少女だ。何もかも、自分とは異なっていた。今までも、そしてこれから先も。
目を開ける前に、冷たくなった唇に熱を移すように自分の唇を寄せた。どうか、お前は平凡なままで。

***

目が覚めたのは自分のベッドの上だった。気を失った後のことは覚えていない。サスケが家まで送り届けてくれたことだけは両親の話から伺うことが出来た。雨でずぶ濡れだったサクラは当たり前のように風邪をひいて熱を出した。
普段と異なる行動は人を不安にさせる。サスケくんは何か、大きな決断をしてしまったのかもしれないと、里の門に続く道で夜を明かし、サスケを待ち続けた。
説得は届かなかった。私ではサスケくんを止めることはできなかった。そうして、幻術の真意もわからないまま、次の雨の日が来る前に、サスケくんはいなくなってしまった。
時々、夢を見る。声と、腕と、それから。幻のような温度を少し。
目覚めると決まって、窓の外は雨が降っている。

(終わり)

2020/1/5
全忍集結9発行「まぼろし」収録/web再録
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