白煙の憂い


00-1
「あれ、うそ。カカシ先生」
「あー、見つかっちゃった」
アカデミーの裏の、用具小屋の壁にもたれかかって座っていたカカシは、手に持っていた煙草を隠そうとするわけでもなく、ゆるくけむりを吐き出した。
「先生煙草吸うの? 知らなかった」
「めったに吸わないよ」
あ、この匂い知ってる。サクラはすん、と息を吸う。あれは煙草の匂いだったのか。少し、そうかもしれないと思ったことはあったけれど、まさかカカシ先生自身が吸ってたなんて。
「でも、煙草って身体によくないんでしょう。肺がわるくなるって綱手様に聞いたわ」
服に土がつくのも構わず、カカシの隣に腰を下ろしたサクラは少し疲れた様子だった。
カカシは詳細を知らないが、毎日五代目に医療忍術の手ほどきを受けているらしい。最近ではサクラに会うこともめっきり少なくなっていた。あの五代目のことだ。さぞかし厳しく、容赦ないのだろう。それにサクラのことだから、無理をしているに違いない。目には隈が、指にはたこができていた。ほんの一年前ほどのことを思ってカカシは傍らの少女を見つめる。サクラは足元のてんとう虫が、葉先をよじのぼるのを眺めていた。赤と黒のナナホシテントウ。
人によってはさほど長くない時間の中で、彼女は変わらざるを得なかった。サクラが自ら削ぎ落としてしまったあまさを懐かしく思う。
「先生、それおいしい?」
ひすいの目がくゆるけむりを追う。
「おいしくは、ないかな」
「おいしくないのに吸うの」
「気晴らし」
大抵のことは受け止められるくらいには大人になった。それでも折り合いのつかないことや、自分の取りこぼしてきた多くのものを思ってやりきれなくなる時がある。そういう時に、人に隠れて一本だけ吸うことがいつしか習慣になっていた。習慣とは言っても、頻度はそう多くない。きっかけは友人だったか、それとも単なる思い付きだったのかもう覚えていない。ままならない不自由さの中で、大人だけが持つ抜け道のように見えたのかもしれない。
吸ったところで大人になれないことなんて、とうに気づいていたが、その頃にはやめられなくなっていた。
いずれにせよ動機が鬱々としたものだったこともあり、特に隠し立てする必要はないけれど、吸っている姿を誰かに見られるのが嫌で、人目を避けていた。カカシが煙草を吸っていることを知っているのなど、忍犬のパックンくらいのものだろう。鼻のよく利く彼には大いに不評であったが。
だから、サクラに見つかってしまったのは実に不覚だった。

「ひと口ちょうだい」

そう言うとサクラは、カカシが返事をする前に、指からそれを奪いとってしまった。煙草におおよそ似合わない、あどけない手がシャボン玉を吹くような手つきで筒を咥えると、息を吸って、細い肩がほんの少しゆれた。
案の定、けほけほと咳きこんで、目じりに涙をにじませるサクラの背中をさする。うぇ、とカカシに主張するようにサクラが顔をしかめ、きれいな空気で肺の中を入れ替えるようと苦しそうに深呼吸した。
「まっずい……」
やめなさい、そんなもの、と細い筒を奪い返して、まだ火の点いているそれを咥えなおした。
「でも少しわかった気がする。まずいから、いいのかもね」
てんとう虫はいつの間にか、飛び去っていた。



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1.
香りというのは不思議なものだった。一時的にしか存在し得ず、ふわりふわりと空気に溶けていき、思い出そうとしてもアウトプットの方法が存在しない。あとに残るのはぼんやりとした印象ばかりだった。そうかと思えば、ふとした匂いが遠い昔に無くしたはずの記憶の箱を開け放ってしまうこともあった。匂いはいとも簡単に時空を超える。そこからもたらされる情報は記憶や感情との結びつきが強いのだろう。特にそれが特徴的なものであればなおさらのことだった。


ふた月ほどの里外任務を終え、帰還したサスケは火影への報告を済ませたあと、その足で妻の仕事する研究室へ赴いた。乾いた光の差し込む昼下がりの病棟はひっそりと静かで、自分の足音が響いては廊下の壁に反射した。
「うちはサクラ」とネームプレートの掲げられている白い扉を開けば、これまた白く華奢な背中が奥にある。ドアノブを回す音につられて、くるりとこちらを向いた目は少し眠たそうだった。
「あなた! 早かったのね」
「思ったよりな」
サスケの姿を認めると、賢そうな対の翡翠色が少し驚いたように見開かれて、すぐにやわらかくほころぶ。昔のようにこちらがたじろぐほどのはしゃぎっぷりで飛びついてくるようなことこそなくなったが、表情から、仕草から嬉しさを溢れさせてくるサクラを見て無性にこっぱずかしくなり、思わず顔をそらした。その一切を、彼女が読み取っているだろうとは知っていてのことだった。

少し伸びたんじゃない? と見上げたサクラがサスケの耳のわきから手を差し入れて、濡羽色の髪を優しく撫で付けた。ほのかな体温が肌をかすめる。されるがままになっているのは、それが何度も繰り返された夫婦の触れ合いで、なおかつ自分自身が心地いいと認めているからだ。
「切らなきゃね」
「ああ」
「もう少し伸びたら私といい勝負じゃない」
くすりと笑いながら、いっそのことお揃いにする? とからかうサクラに抗議の意をこめてため息をつくと、こぼれる前髪をよけて額に口づけた。サクラは一等嬉しそうに目尻を下げて、両腕をサスケの首に回し、身体の重みをサスケの胸にゆだねた。
「無事で、よかった」
ぎゅうと顔を押し付けながらの言葉は、布に吸いこまれてくぐもったものになった。片腕で抱き込んで、当たり前だ、と口には出さずに上半身の体重を預け返す。
「おかえり」
「ああ、ただいま」

髪の流れ落ちる肩に顔を埋めると、やすらかな匂いがした。この女はどこもかしこもやわらかい。そのやわらかさに触れるごとに、外にいる時は無意識にでも指の先までを縛り付けている緊張がほどけて、末端にまで体温が行き渡るような気がした。安心しきって細いため息を吐きだす。あたたかな場所。こんなところ、人に見られたらかなわない。
その時だった。毛先が揺れて、ふと普段のサクラからはしない匂いが鼻をくすぐり、何かが頭をよぎった。嗅ぎ慣れないけれども、全く知らないわけではない匂いがした。樹木の類を燻したような、深くしっとりとした匂いがうっすらと空気を漂う。香とは少し違う気がした。そこまで洗練されたものではない。かといって粗野なものでもない。もっとずっと人の生活に近いけむたさだった。腕の中のサクラの体温を感じながら、思考をめぐらす。
煙草か。
それも、どこか懐かしさを感じる身に覚えのあるもの。多分、粗い記憶の蜘蛛の巣のどこかに引っかかっている。忍の里とはいえ木の葉にも煙草を嗜む者は一定数いる。誰かのそばを通りすぎた時に吸い込んだのかもしれないし、旅の最中で出会った人のものかもしれない。いつのものかもわからない。そう思っているうちにサクラの身体は離れ、出処の知らぬけむりの匂いは消えてしまった。
きっとそばで煙草を吸った人間でもいたのだろう。昼食で入った定食屋が、きちんと喫煙スペースを分けていなかったのかもしれない。サスケにもそういうことがたまにある。その場にいる時は案外気にならないものであるが、あとになって外に出た時に衣服や髪に、けむりの匂いが絡みついていることに気づくのだった。
いずれにせよ、由来を問うほどでもない、瑣末なことだった。サスケ自身は喫煙をする習慣はないし、職業柄という点で言っても、単純に匂いの好き嫌いという点で言っても、あまり親しみはない。
ただひとつ気に入らないとすれば、やわらかく、心地よいあまさのするサクラの身体に、そんなけぶたさが纏わりついていることだった。サスケが一等気にいっている春の色をした髪から、本来そんな匂いはしない。きよらかなものなのだ。

今日はまだ帰れないというサクラから自宅の鍵を受け取り、ひとり帰路につく。何でも、昨日運ばれてきた患者の様態が芳しくないらしい。もしかしたら、だいぶ遅くなるかもしれないとすら言っていた。
「せっかくサスケくんが帰ってきたのに、ごめんね」
サクラは申し訳なさそうというよりも、寂しそうな顔すら浮かべていた。サラダはタイミング悪く、今朝から三日間の里外任務に出かけているらしい。今回は整理しなければならない情報もあるから、2週間ほど里にいるつもりだった。それなりに一緒の時間を作れるだろう。
久々の我が家は、わかっていたことだが、無人でひっそりと静まり返っていた。ただいま、と口にすること、おかえり、の言葉が帰ってこないことに一抹の寂しさを覚えることが当たり前になった自分に苦笑する。
けむりの匂いにひっぱられた記憶の糸のことはすっかり忘れてしまっていた。ベッドに倒れこむように身を沈めると、サクラの匂いがした。

目を覚ますと、寝室の中は薄暗く、カーテンの隙間から見える空は青みがかった明度の低い紫色になっていた。4時間ほど眠っていたらしい。夢も見ないで、知らないうちに深い眠りの底に落ちていたらしく、さっきベッドに身を預けたばかりの気がするのに、思った以上に時間が過ぎていた。
多分、家に帰ってきたことで心が緩んだのだろう。旅の中で意識せずとも溜まっていた疲れが、なだれ込むようにして正体を現したせいで、寝る前よりも却って疲れているような気すらした。
今日のうちに済まそうと思っていた用事が、全く終わっていない。体温のなじむシーツは名残惜しかったが、重たい身体を無理やり起こし、着たまま眠りこけていた服を洗濯機に放り込む。熱いシャワーを浴びて、きれいに畳まれた服に着替えると、途端に自分の存在がこの家になじむような気がした。

用事とは言ってもたいしたものではないが、少しばかり、資料を借りてくる必要があった。書庫で特別な手続きなく借りてこれるものと、火影塔で厳重に保管されている機密書類の両方を参照するつもりだったが、もうこの時間になってしまっては後者の閲覧は今日中にはかなわないだろう。それに閲覧許可を得るためには火影の判が必要だった。この時間になって、また今日も家に帰れないかもしれないと嘆いていた友に、新たな仕事を押し付けるのはなんとなく気が引けた。
機密文書の方は明日に回せばいい。そう決めたサスケは書庫に向かうべく、街灯の点き始めた道に足を踏み出した。夕暮れの雑踏に、各家庭の夕飯の支度する匂いが漂っている。腹がすくのを感じ、サスケは今晩の食卓に思いをはせた。

「あ! サスケくん? ちょうど良かった!」
書庫で借りた本を片手に、後ろから呼び止めてきた声に振り返ると、急ぎ足でこちらに向かってくるのは、山中いのだった。サクラの話の中で名前が頻繁に出てくるくらいで、実際に顔を合わせるのは随分と久しぶりな気がする。
「今、家に電話しようとしてたのよ」
サクラかサラダに、わざわざ電話してサスケを呼びつけねばならぬようなことが起きたのかと表情が陰ったのを見越してなのか、山中は、やだ、ちがうわよ、と手を振った。
「昨日運ばれてきた重症の患者がいるんだけど」
「ああ、サクラから聞いている」
「よかった、なら話は早いわ。さっき様態が急変したの。今夜が山場になりそうだから、サクラ、きっと帰れないと思う。今もう、手が離せない状態で、私が連絡しに来たの」
「わかった」
「サクラが思いっきり謝ってたわよ。ご飯も作れなくて本当にごめんね、だって」
「……いや、大丈夫だ。何とでもなる」
「そう言って本当はがっかりしたんじゃないのー? まあ、そういうことだから、よろしく。多分明日の朝には帰れると思うわ。なんかサクラに伝えとくことある?」
無理しすぎるな、待ってるから安心しろ、と頭には浮かんだものの、わざわざ人を介して伝えてもらうほどの内容でもなかった。
「特には」
少し残念そうな顔をすると、そう、じゃあね、と踵を返し、山中は来た時と同じように急ぎ足で去って行った。

もう辺りはすっかり夜の様相になっている。サクラが帰ってこないというから、どこかで食べて帰るか、買って帰るかせねばならない。自分で作るという手がないわけではないが、家の冷蔵庫の中を確認していない上に、自分ひとりのために今から飯を作るのは億劫だった。
大概サスケが帰ってきた日には、サクラが張り切ってサスケの好物ばかりを食卓に並べるのが恒例となっていた。時にはサラダも手伝って、同じ背中を並べて台所に立っていたかと思うと、ふたりしてよく似た笑顔でこちらが箸を進めるのを伺っているのだ。
そのふたりが今日は揃って留守である。やっぱり、ひとりで食べる食事は味気ないように思う。そんなことを自分が思うようになるとは思わなかった。
結局先ほど山中に指摘されたことはその通りで、無意識のうちに落胆が、自分の表情に表れていたのかもしれない。

「あれ、サスケ?」
今日はよく人に会う日だった。馴染みの店があるわけでもなく、適当に飲食店の連なる通りを物色して歩いていたところで声をかけてきたのは、サスケがよく知る人物だった。
「カカシ」
「帰ってたんだね」
「ああ、今日」
「ちょうどいいや」
また、ちょうどいい。今度は何かと思ったらなんてことはない、一緒に飯を食おうという誘いだった。
「まだ食べてないんでしょ?」
「ああ」
「俺もこれからだからさ、たまには付き合ってよ」
そうして連れて行かれたのは、カカシが常連だという、少し奥まった路地にある小料理屋だった。のれんをくぐると、澄んだだしの良い匂いがした。
なぜカカシは俺が今日外で食べねばならないと知ったのだろうか。

「どうも先代、いつもご贔屓ありがとうございます」
カカシとふたりで酒を飲むのは初めてかもしれなかった。ただの飯だけなら子どもの頃何度かあったが、大人になって酒が入るとナルトやサクラも一緒にいるのが普通だった。それもあって何を話したら良いのかさっぱりわからない。
大将と気安く話しながらカカシは次から次へと料理を注文していく。
「そんなに食べるのか」
「お前が食べるでしょ」
当然のように言うカカシは、サスケのことを無闇矢鱈と食べ物を腹に詰め込みたがる食べ盛りの頃のままだとでも思っているのだろうか。少食というわけでもないが、普段の食事で口にする量は必要最低限だ。
「サクラが作りがいがある、って話してたよ」
「あれは」
あれだけ張り切って作る姿を見ていたらこちらだって食べがいがあるだろう。酒の勢いでそう言おうとして口を噤み、顔をそらした。
「やっぱり奥さんのごはんは違うか、そうかそうか」
「うるせえ」
口元をマスクで隠していても、にやにやと笑っていることが手に取るようにわかる。いつもこうだった。何もかもを見透かされて、身構えればもう一歩先にいる。熱い顔の理由を上書きするためにサスケは勢い良くジョッキを飲み干した。

結局、カカシとサスケで食事しながら話すことなど、7班か家族のことで、そうなると必然的にサクラの話題になることは避けようがなかった。
「サクラはああ見えて寂しがり屋でしょ」
わかったようなことを言うな、と言えばカカシは楽しそうな顔をするのだろう。だんまりを貫いてサスケはきたばかりの揚げ出し豆腐に箸を伸ばした。
「ちゃんと見ててあげなさいね。あの子が無理しないようにさ」
「わかっている」
図らずして拗ねたような声になってしまったことを後悔する。カカシと話していると自分の態度がひどくガキ臭く感じて落ち着かなくなる。どれだけ歳を重ねたところで、カカシが大人であることに変わりはないのだった。

「ちょっと、失礼」
サスケの向こうにあった醤油の瓶を取ろうと、カカシが手を伸ばす。とってやろうとしたが、生憎サスケに左手はなく右手は箸でふさがっていた。いいよ、気にしないでという声とともに、黒い袖がサスケの顔の前を通って目当ての醤油瓶に届く。わずかに布がサスケの鼻先を掠めた。
ふと違和感を覚えて箸が止まった。息すら、一瞬止めていたかもしれない。完全に油断していた。滅多なことで動揺しないはずの自分が、今この瞬間ひどく動揺していることが分かった。あのしみじみとしつつも、けむたい匂い。ふと視線を上げると、くゆる煙のような、白い髪。
「ん? どうかした?」
そうか、と納得した。これか、と記憶とにおいがつながった。すっかり忘れていたのに。一瞬気に食わないと思っただけであったのに。「こいつのだ」と直感した。ほんの一瞬だったが、もうそれは確信だった。その匂いの本来の持ち主を脳が認識した途端、今まで存在しなかった形容しがたい不快感に感情を支配され、サスケはしばらく自分の手元から焦点をずらすことが出来なかった。
そうだ、どこかで嗅いだことがあると思ったのもそのせいだ。20年以上も前の、それも小さな子供の時のことなのだから忘れかけていたことも頷ける。まだサスケが里を抜ける前のこと、今では火影となった親友と、妻と一緒に雑多な任務についていた頃のことだ。身近な「大人」からごく稀にしていたけむりの匂い。たまに、カカシの後ろを歩いていると、森の中だと言うのにやけに煙たい匂いがすると思って訝しんだものだった。どこか遠くの野焼きの煙が、風に紛れて通り過ぎたのかとすら思っていた。当時煙草の匂いだと思い至らなかったのは、周りの大人に喫煙者がいなかったから、そして何よりも毎日任務で顔を合わせているはずのカカシが煙草を吸う姿を目にしたことが一度としてなかったからだ。サスケは大人になった今でも、見たことはない。
出所がわかってしまった途端に、サクラからしたけむりの匂いが急に人の形をとるような気がした。


煙草の匂いが移るような、同じ空間にいたのだろうか。もしかすると、人目を忍ぶような場所で。

そのあと何を話したのか、あまりよく覚えていない。思考をかき乱すけむりの匂いと、勢いよく煽った熱燗のせいでまともに頭が働いていなかった。食後に一服でもするのだろうかと思ったカカシは、しかし煙草の箱を持っている素振りすら見せなかった。この店が喫煙可能であることなど周りを見ればいくらでもわかるだろうに。
憂さを晴らすために喉を焼いた酒は、かえって逆効果だった。酔っているときに思い浮かぶことなど、碌なものじゃない。妄想もいいところだった。同じ空間にいたからなんだ、サクラの髪からあいつの匂いがするからなんだ。いくらでもあること、そうだろう。わかっていながらも、重なる薄黒い感情が背を押して、ひとつ考えては踏み外したかのように、思考は勝手に螺旋階段を滑り落ちていく。
気づかなければよかったのだ。先に飯を食っていれば、席を逆にして座っていれば、気づかずに済んだ。その程度のことなのだ。けれど腹の中でとぐろを巻く、もやもやとした不快感は今なお燻っていて、どうすれば霧散してくれるのかわからなかった。そしてこんな時に限って、サクラは帰ってこないのだ。
こうなってはもう、寝るしかない。帰宅し夜目に頼って明かりもつけぬまま、一杯だけ水を飲むと、夫婦のベッドに身体を転がした。昼間はそれなりに気温の高くなる昨今でも、陽が落ちてからはそれなりに肌寒くなる。顔を沈めたシーツは、無愛想につめたい。サクラはいつもどうやって、この広くつめたいベッドに、ひとりで寝ているのだろう。
「サクラ」
呼んでみたところで返事が返ってくるはずがなかった。
そばにいてやれないことへの後ろめたさはいつだってあった。「サクラはああ見えて寂しがり屋でしょ」。そんなこと、よく知っている。わざわざ教えてもらう筋合いはない。それでも旅を続ける道理があって、それを相手も十分に理解している。
けれども。
どうしても不安になる時、相手が傍らにいないこと、その体温に触れて確かめられないことはこんなにも満たされず、苦しいのか。こうも全身で実感してしまえば、それが裏返しになって余計に不安は増すばかりだった。勝手に想像して傷つくなんて、本当に馬鹿げている。
それでも、カカシは、駄目だ。



2.
まどろみの中で、寝返りをうち、やわらかな髪を手さぐりで探す。しかしいくら腕を伸ばしても手は宙をかくばかりで、目的のものに届かないばかりか、温かくすべらかな肌にも触れない。そこでようやく頭が覚醒して、目を開けるとベッドの上には自分ひとりだった。期待を裏切られたような、空虚な気持ちになる。
もう何年もひとりで寝て、目覚める生活を送ってきたはずなのに家に帰るとこれだ。腕の中にいるはずのものがいない。
そこに追いかけるように、昨日の煙草の匂いを思い出して、サスケは自己嫌悪の溜息を吐きながら、前髪をかきあげた。思った以上に引きずっている。
らしくない。しゃんとせねば。ひとつ、伸びをするとシャツの裾の糸がほつれていた。このまま放置しておけば、気づかないうちにどこかに引っ掛けてシャツをだめにしてしまうだろう。

糸を切るためのハサミを探して、ベッドの脇の棚の引き出しを引いた。この家のどこに何がしまってあるのかということに、サスケはさほど明るくなかった。適当にあたりをつけるしかない。ひとつめ、ふたつめ、と目当てのものは見つからず、三段目を開けた時、おもちゃのような緑色をしたライターが視界の端に写った。うちは家にライターは本来さほど必要のあるものではない。煙草を吸う人間もいなければ、ちょっとした入り用の時は火遁を使えば事足りてしまうからだ。どこにでも売っていそうな、ちゃちなライターであるそれは、サクラの読書用の眼鏡やハンドクリーム、手鏡に紛れて、存在感を放っていた。サクラが大切にしている小さなものの、ひとつとして。
ひと言で言えば、嫌な予感がした。そしてサスケにはそれを「視る」能力があった。なぜこんなところにこんなものがあるのか。その感覚は昨日、サクラの髪からあの男のけむりの匂いがした時とまるきり同じだった。あるはずのないものが陰に隠れてひっそりと存在する。やめておけばいいと頭ではわかっているはずなのに、咄嗟に輪廻眼を発動してライターを摘み上げていた。
視えた、というより見えてしまった。白いけむり、黒い手甲、骨ばった指が黒いマスクに手をかける。心臓を素手で掴まれたかのように、息が詰まった。カカシだった。それを認識して、この先はとても見れないと、瞬発的にライターを払いのけていた。ライターは床に転がって、中の液体がちゃぷんちゃぷんと左右に揺れる。サスケはそれをただ睨みつけるほかなかった。

だからどうということではない。寝室に、カカシのライターがあろうとも。

家にいるとどうも下らないことばかりに頭を支配される。外に出て空気を入れ替えるべきだった。幸いと言えばいいのか、やらねばいけないことはいくらでもある。
病院のほうへ赴いてみようかとも思ったが、サクラにどういう顔で会えばよいのかわからなくなってしまった。八割は自分のせいだ。今いたずらに顔を合わせても碌な態度をとれる気がしない。夜通し仕事をして疲れ切っている彼女に今の自分は会うべきではないだろう。



「判を頼む」
おう、と答えて文書に目を通し、重そうな火影印を欠けないように押すと、ナルトはふっと視線をあげた。
「そういや、昨日サクラちゃん大変だったな」
「らしいな」
人の口からサクラの名前を聞いて、変に心臓が脈打った。
「さすがにへとへとで、病院の仮眠室で寝てるってよ」
「そうか」
紙を受け取り、火影室を出ようとして、火影室の壁に掲げられた歴代火影の肖像が視界を掠め、またあの煙草のことが頭をよぎる。ほんの確認のつもりだった。別に、ナルトに確かめねばならないほどに参っているわけじゃない。自分は、里を離れていた期間があまりにも長い。だから知らなかっただけなのだろうと。
「なあ、ナルト」
「ん?」
「カカシって煙草吸ってたか?」
なんだそれ、とでも言いたげにナルトが顔をしかめた。業務のこと以外でサスケがナルトに尋ねごとをするというのは珍しい。しかも質問の内容があまりに突拍子もなかった。
「いや……吸ってねえと思う。多分。見たことねえもん」
見たことがない。ぬるり、と気持ちの悪い風が心臓を撫であげた。
「あー、でもたまに、煙草っぽい匂いするよな」
やはり、匂いはするのだ。ライターの一件のせいで、カカシがタバコを吸うということはまぎれもない事実であったのに、それでもなお匂いだけ。
「それがどうかしたか?」
「いや、何でもない」

そうだ、何でもない。吸っていようがいまいが、ナルトが知っていようがいまいが、どうという訳ではない。そんなこと、わかっている。サクラはそんな器用な女ではない。いや違う。そもそもサクラに限っては、信じる信じないの次元ではないのだ。それはちゃんとわかっているつもりだ。そもそも同じ煙草の匂いを纏っていたからといって、日常的にいくらでも考えられる話だ。一方が吸っている時に近くにいた、ほんの少し空間を共有すれば煙の匂いなんて簡単に移ることだろう。
「ここでタバコくせぇのはシカマルだけで十分だってばよ」
からからと笑うナルトに反して、サスケの腹の中はうすら寒いままだった。応接スペースの卓上に鎮座する、硝子切り子の灰皿さえも疎ましく思えて、思わず目をそらす。確かに、火影室には時折、煙草のにおいが漂っていることがあった。けれども、あれとは違う。今まで大して気に留めたこともなかったが、煙草というのはものによって随分とけむりの匂いが違うらしい。うろ覚えにすぎないが、シカマルのはもっとすっきりとした清々しさを感じさせる類のものだ。そういうのは、案外吸う人の人となりと結びついているような気もする。時にはその人自身の匂いといっても過言ではない。
だからだ。昨日腕の中に収めたサクラに、ほかの人間を感じてしまった、その気分の悪さ。サスケが名も知らぬ、認知していない人ならいさ知らず、よく知る男。
「俺は吸わねえけどさ、吸うやつには吸うやつのコミュニティがあったりするんだろ。喫煙所仲間みたいな。最近じゃ里も分煙、分煙ってうるせえし、結構きっちり場所が分かれてんのかもな」
黙ってしまったサスケに気付いているのかいないのか、ナルトは缶コーヒーを流しこみながら、ちらりと壁の時計を見た。
「ちなみに今、シカマルは喫煙所な。もうちょっとで帰ってくんじゃねえかな」
だから、気になるならシカマルに聞いてみろということだろう。だが、そうではない。シカマルに尋ねるつもりはなかった。
ナルトでさえ知らない、そのことがひどく心地悪いのだ。今でこそ火影のナルトだが、就任する以前カカシが六代目を務めていた頃は、次代への引き継ぎのためにとしょっちゅうカカシの側で補佐のような仕事をしていたのだ。ナルトの力が要されるような特別な任務に駆り出されない限り、それこそ朝から晩まで毎日だ。そうでなくとも自分が旅に出ていた時分から彼らは随分と長い時間を共に過ごしている。サクラと比較したところで数年の差だ。そのナルトが知らない。見たことが無い。だがサクラは知っている。何かひみつを共有している。
「それで、なんで煙草? お前吸うやつだったっけ」
「いや。……俺は、嫌いだ」

なぜ知っているのか。どこで、知ったのか。なぜ、ナルトは知らないのか。気にし始めれば底なしの沼だった。最初はひとすじの心地悪さにすぎなかったものが、気づけばいっぱいに広がっていて、理論的な思考を白煙の向こうに曇らせる。「だからどうという訳ではない」。何度も頭の中で反芻した言葉だ。言い重ねていることが、自分自身に対する何よりもの説明で、それをわかっているからこそ苛立ちが募った。

サスケは自分自身がサクラのことをよく知っているとはあまり思わなかった。自分の知らぬ時間のサクラは、きっと自分の知っているサクラよりもずっと多くを占めているのだろうと思う。そしてそれを知っているのがナルトや、カカシや、他の仲間たちなのだろうとも。恐らく、自分が里を抜けていたころの、七班しか知らないサクラもいるのだろう。サスケを追いかけて心を痛め、泣いていたのだろうサクラ。今更そこに何かの感傷があるわけでもなければ、ましてやそれを覆そうなどとは思わない。自分たちはそういうものなのだから、仕方ない。
けれどある意味、そうしたサクラは「外向き」のものだ。みなが(少なくとも複数人が)共有しているサクラの像。だから、自分は知らなくても良い。そんなのは好きなだけ見せてやる。その分、自分ひとりしか知り得ない妻があるのだから、それでいいと思っていた。今に越したことではなく、それこそ、ずっと昔から。サスケの前のサクラは、サスケのためだけのサクラだった。
それを侵食されるような、汚されるような気持ちだった。
自分のためではない、「誰か」ひとりだけが知るサクラがいるのかもしれない。じりじりと内臓が炙られるような、気分の悪さだった。事実がどうこうではなく、一瞬でも想像してしまったことが誤りだった。とにかく、相手がわるかった。


寝ているのなら、と思った。寝ているのなら、傷つけずに済む。顔を見れば、「自分は何をバカなことを考えていたのか」と気分が晴れるだろう。その手に触れれば、彼女が自分に与えてきたもののひたむきさを確認して、無意味な妄想など、一瞬で忘れさせてくれるだろう。けむりもライターも笑い飛ばせる。酸素を求めるようにして、サスケは階段を上った。

仮眠室は病院の3階だった。3階の西側の廊下の一番奥の部屋。
「皆は2階を使うの。3階は狭いしごちゃごちゃしているからあまり好きじゃないんだって」
いつだかサクラの言っていたことだ。もとは倉庫だったところを片付けて簡易ベッドを押し込んだだけの仮眠室らしい。聞いただけで、足を踏み入れたことはなかった。
「だからね、ちょっとした秘密基地なのよ」
賢いくせに、そういう子供っぽい言葉を選ぶところや、ひみつを打ち明けるような表情をする、サクラの少女性をサスケは気に入っていた。
3階まで上りきり、まだ静かな廊下を、サクラの言う「秘密基地」を目指して進む。どちらに曲がるのだったか、と立ち止まっていると右手側の廊下から、歩いてくる人影があった。
「おー、サスケ。昨日はどうもね」
なぜこうもタイミング悪く会ってしまうのだろうか。今、「この場所」で。
「サクラのとこ?」
「ああ」
早くその場を立ちさりたかった。黒い手甲が目に入る。ただただ胸糞悪い心地がした。ぶれる感情を押し込めて廊下の床を見つめた。カカシの歩いて来たのは、サスケが向かおうとしている方向だった。
すれ違い、空気が揺れた。足が止まった。やめておけばいいとはわかっていながら、口はカカシを呼び止めていた。先代火影に呼びかけるにはおおよそふさわしくない、自分でも思った以上に鋭い声になったと気づいたのは、それを放ったあとだった。
「カカシ」
「うん?」
その鋭さを知ってか知らずか、恐らく前者だろうが、それを歯牙にもかけずにかつての上官はのんびりとした返事をよこす。その余裕な振る舞いがサスケを煽ることもよく知っているだろうに。
「あんた、喫煙者だったか」
疑問ではない。そうだと思って聞いたのだ。
カカシは口を開かぬまま、じっとサスケの表情を検分するように僅かに首をかしげた。両眼からは感情を窺い知ることはできず、やがて何かに納得したような様子で困ったように笑った。昔よりもくっきりと目尻に皺が刻まれる。

「いいや、吸わないよ」

咄嗟に苦虫を噛みつぶしたような顔をした自覚があった。嘘つけ。なぜ隠そうとするのか。隠した先に何かあるというのか。ちがう、何もないことなど自分だってわかっているのだ。ただ、とにかく気に食わない。子どもが気に入らないと駄々をこねて拗ねているようなものだった。そのことが余計に自分を苛立たせる。大人と子ども、いつまでたっても埋まることがないその差は、自身のことに関してこそすれ、認められるようになったが、ひとりの女のことに関しては妙な焦りがつきまとう。
真実はきっと関係ないのだ。手にある情報それ自体と、無意識のうちに染みついた「かの大人」に対する一種のコンプレックスが、昨晩から身を苛む燻りの原因だった。


行き場のない不快感に蓋をして、予定していた書庫での調べ物に数時間を費やした。時間を置いて、頭を冷やすべきだと思ったのだ。あとから考えればなんてことはない、そういうものは多々あると。
家に帰ると外灯が点いておりサクラは既に帰宅しているようだった。自宅だというのに、ドアを開けることを少しためらっている自分がいた。どうかしている。
ドアの音に気付いてパタパタと駆けてくるサクラは普段とも、昨日とも何も変わりがなかった。

「今日のごはんお魚なんだけどいい?」
「ああ、任せる」
嬉しそうにほころぶ笑顔も、振り向くたびに揺れる髪も、うちはの家紋を纏った身体も、サスケのものだった。昔も今もそうに違いないのだ。

「そういえば、昨日カカシ先生とごはん食べたんだって?」

けれどただの会話の中に出てきただけ、それも彼女の関心の向く先がサスケ自身の行動にあることがわかっていながらも、サクラの声がつむいだ奴の名前に抑えていたものの箍が外れる音がした。信頼しきっていても感情の濁流には抗いようがなかった。
頬をすくって口をふさぐ。突然のことにサクラは驚いて目を真ん丸にしている。何か言おうとして浮いたままの舌を絡め取って、息までもすべて飲みこんでしまおうと腰を抱けば、サクラはくたりと腕の力を抜いた。
強引な手つきとは裏腹に、拒まれでもしたらどうしようかと息が詰まるが、身体の一切を預けてサスケに応えるサクラに、少しずつ渇望が満たされていく心地がする。それでもまだ全然足りなかった。
寝室に引き込んで、ベッドに縫い付け上から見下ろすと、少し不安を含んだ両眼がサスケを見つめる。たまらず小さく華奢な身体に覆いかぶさって全身できつく抱き込むと、苦しかった肺が酸素で満たされてようやくちゃんと息ができるような気がした。
「何かあったの」
何もない。何もないのだろう。ただ、お前が自分のものでないような気がしてしまったのだと言えば、サクラはどんな顔をするのだろうか。そんな格好の悪いこと、言えるはずなかった。
サスケくん、と細い腕を伸ばすサクラは、正しくサスケの知るサクラだった。何も変わらない。幸せそうに目を細めて、頬をほのかに火照らせて、黒い男を両目に映す。
ひと言「なんで煙草の匂いがするのか」と、「あのライターはどうしたのか」とサクラ問えばいい話なのだ。慣れない臆病さと、膨れ上がった自尊心と、その他のばかばかしい感情がそうひと言問おうとする自分の邪魔をする。
サクラを前にすることで、自分の弱さを自覚することは何度もあったが、こういう弱さは初めてだった。許されること、甘えることで知ってしまった、彼女の前での弱い自分、傷つけたくないがためにひと回りもふた回りも怖気づく自分。そうでなくて今のサスケは、ただ「あり得もしない」真実を確かめることに恐れを抱いている。

「どうしたの、サスケくん」
額に玉のような汗を浮かべて、眉を苦しげに顰めながらサクラが尋ねる。いつになく余裕のない様子のサスケに、どうやら困惑しているようだった。
サスケは何も答えずに、ただ胸に充満するもやを振り払おうとしてサクラを貪った。煩わしい感情はそれ自体がけむりのようだった。まとわりついて、忘れた頃に記憶を掠めては、感情ごと引きずり出される。それを振り払うように抱きつぶして、目の前の女が髪の一本まで、のどから出る掠れた悲鳴のひとつまで自分のものだと実感するほか手段はないのだと思った。うるむ瞳で自分を見上げるサクラが言葉を求めていることはよくわかっていたが、こんな方法でしか自分の思いをぶつけることのできない自分にほとほと嫌気がさす。首に、胸に、腹に、脚に、しつこく痕をつける。自分の存在を知らしめるものばかりが彼女の歩いたあとに残ればよいと思った。名字と家紋だけでは足りない。サクラの匂いに混じるものは自分の匂いだけでいい。
何度も揺さぶって、サクラが正体をなくしても、彼女の口から出る名前がサスケただひとりであることにひどく安心する自分がいた。疑っているわけではない。ただ、言い知れぬ不安や嫌悪感を、確固たる安心で塗りつぶしてほしかった。
仮に、もしも、あの男の名前を一度でも呼んだのならば、自分はのけぞる細い首に手をかけて絶望のままに殺してしまうかもしれない。

腕の中におさまるほんのりと赤く染まった肩を撫でて、首すじに顔を埋めると、髪からあまい汗の匂いがした。それが純粋に彼女のものであることに安堵し、祈るような気持ちで瞼を下ろす。到底のがしてやることなど、出来そうになかった。












00-2
暗部の運営方針を巡って、会議で少し怒りを押しとどめねばならない場面があった。トップの思想というのは、水が地を流れるようにして、例えその人がいなくなったとしても、案外組織に染み込み、人の思考を規定するものなのだと実感する。悪と断じきれないからこそ、厄介だった。
途中休憩の間にシカマルの目を盗んで抜け出してきたから、あまり長居はしていられない。煙草を取り出して、火をつける。
近づいてきた足音に、首を向けると、物置の陰からサクラが顔を出していた。
「会議が大荒れと、相談役から伺いまして」
「ご明察」
サクラはこれね、とカカシはベストのポケットから煙草の箱と同じ大きさをした、ラムネ菓子の箱を取り出す。箱をサクラに向けると、はあい、と返事しながらうす茶色をした棒状のラムネを取り出し、口に咥えた。
「一本でいいの?」
「一本がいいんです」
煙草を模した形のそれは、ほんのりとココアの味がする。一度サクラにもらって(と言ってもこれを買ってくるのはカカシである)食べてみたが、うすぼんやりとした味がした。
結局、サクラが煙草を口にしたのは、あの一回きりのことだった。あれ以来ちょうだいのひと言も口にすることはなくなって、たまにカカシがひとりこっそりとこの場所でけむりに物憂さをのせていると、2回に1回くらいの確率でいつの間にか横に来て、煙草型のラムネをちまちまと齧りながら、火が消えるまで待っている。
ふたりぼっちだった頃、それは多分ふたりにとって、ゆっくりと息をするための場所だった。
「先生、そろそろ禁煙したら」
「えー」
「じゃあ、六代目、禁煙なさってはいかがですか」
「響かないなあ」
「じゃあはたけさん、呼吸器官に悪影響があるし、煙草やめましょうか」
「何それ、最後のはうちは先生?」
そう、と満足げに言って、サクラは耐え切れないかのように吹き出し、けたけたと笑った。良い笑い方をするようになったなと思う。幸せをめいっぱいに含んだかろやかな笑い声だ。教え子たちの成長を目にするたびに、地に立ち、歩く理由を見つけられる。
カカシはサクラの腰かける方とは反対側に顔をそらして、けむりを吐き出した。

「さあ行こうか」
「はい」

まだ会議は半分残っている。気合を入れるために伸びをする。遠く、アカデミーのチャイムの音が聞こえた。



00-3
地面が焼けるような暑い日だというのに、サクラは朝から大忙しだった。今日は子ども心療室で花火大会をやる予定になっていた。つらい思いをした子どもたちを、楽しい思い出でいっぱいにしてあげたいという思いで、企画したイベントだった。
花火大会といっても、よく想像されるような大輪の花火を空に打ち上げるようなものではない。確かに豪華さには欠けるかもしれないが、今回はみんなで手持ち花火を楽しむことになっていた。心療室に通う子どもでなくとも参加は自由だ。アカデミーが終わった後、サラダも来ることになっている。
どうせしっかりもののあの子のことだから、自分が楽しむよりも小さい子たちの面倒をみるほうに徹してしまうのだろう。
とにかくサクラは、あらかじめ手配していた大量の花火を業者から受け取り、バケツやろうそく、参加者の胸に貼るお星さまのシール(名前を書くようになっている)やらと、こまごましたものが入った段ボールを抱えて、朝から会場と病院を行ったり来たりしていた。
もちろん、日中は通常の業務もこなさねばならない。花火大会は夕方5時半からということになっていたが、その前にも用意はたくさんある。あれも必要、これも必要、と人より秀でた頭をフル回転させても、どうもなにかを忘れているような気がしてならなかった。

徐々に子どもたちが集まり始めてきたのは5時をすこし過ぎた頃だった。シールを胸に貼ってやると、子どもたちはおおいに喜んだ。これだけでイベント感が増すのである。

「サクラ先生、蚊に刺されたあ」
蚊取り線香をつけなければと思い立って、ふと気づく。ポケットを探る。ライターがない。蚊取り線香どころかこのままでは花火も点火出来ないではないか。ろうそくばかり用意して肝心のライターを忘れるなんて。
あたりを見渡しても、火遁使いは見当たらない。うかつだった。

「おー、結構集まってきたね」
「ほかげさま!」
子どもたちがわらわらと走り出した。サクラがダンボールの中をあさりながら顔をあげると、よう、と手を上げたのは7班の先生にして現火影のカカシだった。なんて素晴らしいタイミング! サクラは天からの助けとばかりにカカシに駆け寄った。
「ほ、火影様ぁ」
「なあに、サクラまでどうしたの」
「今ライター持ってないですか?」
どうかな……と言いながら、カカシはごそごそとベストのポケットを探り、キャンディーカラーの緑をしたライターを取り出した。
「ごめんなさい、少しだけ貸してくれませんか。花火大会なのに忘れちゃって……」
「あげるよ、何しろ火影なもんでね、家にライターなんて5万とあるんだよ」



「先生、本当にいいの?」
それから1週間ほど過ぎていた。花火大会は大成功を収めて、しばらくの間、子どもたちの「またやって」コールに追い掛け回されることになった。
「いーの、いーの。もう新しいの買ったし」
「そうですか? じゃあお言葉に甘えて」
先生いつもの、と急かすとラムネの箱を開けてくれた。特別美味しいというわけでも、好物というわけでもないけれど一種の習慣になった一本のそれは、心をしずかにしてくれる。

・・・・・・

家に帰ると、引き出しが開けっぱなしだった。何か探しものでもしていたのだろうか。
昨日はせっかくサスケが帰ってきたところだというのに、急患の治療に手を離すことが出来ず、夕飯を作るどころか家に帰ることすらかなわなかった。
ベッド脇のチェストには大切なものがたくさんしまってある。サスケから貰った櫛や、昔旅先で購入した絵付きの貝、サラダが小さい頃に書いてくれた絵。どれも引き出しを開けて眺めるだけで、それにまつわる思い出が浮かび上がってきて幸せな気持ちになる。
「あれ?」
床に、緑色のライターが転がり落ちていた。これは前にカカシ先生に貰ったものだった。まだ使えるかしらと試してみると、きちんと小さな火が点いた。液体は全然減っておらず、貰ったはものの、花火大会で大活躍して以来はずっと棚の中で出番を待っているだけになっている。なにせ優秀な火遁使いふたりに恵まれたうちは家ではほとんど出番が無いのだ。それを思うと誇らしく、楽しい気分になるのである。
もう日も暮れる頃だ。サスケももうじき帰ってくることだろう。夕飯の支度を始めようと、サクラは浮足立ってエプロンの紐を結び、伸びをした。




全忍7エア新刊企画「煙霞」より
2017/09/17

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