白昼に溺れる



更衣室、もといプールサイドに着替え用として設けられた簡素な小屋の中はひとりだった。先生の手伝いをしていて遅くなった、ということになっている。事実それは間違いではなかった。
クラスメートは次々と、折り目正しく制服に身を包みなおして太陽の下に出ていった。プールサイドにも人はいない。先生から預けられたプールの鍵は、サクラの手のひらの中にあった。確か、教員会議があると言っていたような。
更衣室の中に残るのは20数人分の水分が飽和しきったぬるい空気だけで、サクラが身を拭うバスタオルの音と、メッセージが届いたのだろう、ロッカーに置いたスマートフォンの震える音が遠くに聞こえる蝉の鳴き声に紛れて響いた。



ノックもなくドアノブを回す音がした。磨りガラスの向こうに、人ひとり分の影が浮かぶ。サクラは気にすることなく、髪のゴムを解いた。犬のように待ちわびていたような態度を見せるのはなんとなく、悔しいし。
ミーン、ミーンと鳴くセミの大合唱が、一瞬大きくなる。
うすく開いた扉の隙間から、外の空気が漏れ入ってきて、熱のこもった空間に冷気の帯がゆらめいた。きっと外だって30度は超えているんだろうに、それでも蒸し風呂状態の小屋の中とあってはそれすらも清涼感を与えてくれる。
次いで、チカ、と真白い光が差し込んだ。思わず、目を細める。奥に広がる腹立つくらいに青い空。その前に立ちはだかる、黒い人。
逆光の中でも、特徴的に跳ねた後ろ髪がその人を教えてくれる。その姿を認めただけで、心臓が浮ついたように跳ねるのだから、まったく笑ってしまう。何食わぬ顔で戸口を閉めた、7月も半ばというのに未だ白い手が、後ろ手にかちゃりと内鍵をかけた。


こんなに暑い日だというのに、彼は至極涼しそうな顔をしている。切れ長のしずかな目も、うすい唇も、滞りなくきれいだ。髪だけは普段と違って、プールの後だからつやつやと濡れている。

日常茶飯事、というわけではないけれど、「慣れぬこと」というには知りすぎている。最初はまだ可愛いものだった触れ合いも、今ではもう、絶対に人に言うことはできなくなった。手慣れた彼の手は、サクラの身体を隅々まで知り尽くしている。中には、サクラ自身が知らないところまで。

サクラ、と呼ばれて乱暴に引き寄せられる。それが嬉しい。
二人きりで名前を呼ばれる、その時は、まるで自分が彼のものになったかのように錯覚することができた。
「ね、ぬれちゃうよ」
身体を離すつもりはないけれど、一応苦言を呈しておく。せっかく着替えたばかりだろうにいいのかな、と躊躇するサクラに対して、サスケの方はお構いなしだった。そんな瑣末なことはどうでもいいと、口には出さずに、骨ばった手が脇腹をたどる。諦めて肩に頬を寄せると、冷えた耳の軟骨をやわらかい舌が舐め上げた。彼が触れた端から身体が酩酊していくような気がする。
サクラは水着から乾いたシャツに水分が吸い取られていく様子を、腕の中に収まりながらじっと眺めていた。どちらのものともわからない、髪からしたたる水滴が襟から肩を点々と濡らす。白いシャツはじとりと色が濃くなって、奥にねむる白い皮膚が透けて見えて、どきりとした。みっともなさと官能は紙一重なのかもしれない。

「サスケくん」
するりと輪郭をなぞって甘えるように首に腕を回すと、冷ややかなくせに奥に焔を燻らせた目がサクラを見下ろして、最初に名前を呼んだきり声を出すことを忘れてしまった唇が、サクラのそれに食らいついた。水から上がってさほど経っていない唇は、彼と同じようにきっとまだ紫色をしている。また水の中に戻ったみたいだ。苦しくて飲まれそうになるのに、なかなか水面に出させてもらえない。彼に教えられたキスで、彼に殺されるんじゃないかと思った。溺れて、窒息しそうになる。つめたいままの舌は、どうにもなれない二人の関係を示しているようで、少し、悲しくなった。


サクラはずっとサスケのことが好きだった。それこそ長さも深さも、多少病的な要素を含んでいるのかもしれないくらいに。例え学校という狭い箱の中で、いつの間にか住む場所を分かつようになったって、どうにかしてうちはサスケという存在に、自分を結びつけておきたかった。だから、普段なら神経質なほどに気にかける校則も倫理観も、彼の手に引かれることを考えれば、ぞくぞくするような昏い高揚感のもとにするりと破れてしまう。優等生としてあるまじきこと、よろしくないわ、と思いつつも、サスケのせいで一部分の熔けてしまった脳みそに素直になって、学校生活の隙間、秘密の場所で彼に服従する、もう長いことそういう風になっていた。
そうしてふたりの間で交わされるそれが何なのか、説明するのは難しい。逢瀬、なんて美しいものではないことは確かだった。相手が自分だけなのかもわからない。少なくとも自分の手を引きこんでくれただけで幸せだと思うべきなんだろう。関係に名前もない。つけてしまったら急に陳腐になって大事にしていた繊細なものが失われてしまう気がするし、人には伝えられない複雑な意味を含んでいることに意義がある気がした。定義のできないことは自由で、同時にとても苦しい。彼にとって何者にもなれないけれど、逆に言えば何者でもいられる。昔から自分のことを好きと言って、身体を求めても拒否せずに、関係の他言もしない、都合のいい女。サスケの認識はそのくらいかもしれない。少なくとも、目の前のサスケがサクラのものでないということだけはよくわかっていた。多分、サクラをサスケのものにすら、してはくれないのだということも。


舌はとらわれたまま、濡れた指が、軋んだ髪をすり抜けて背骨をなぞって下降する。蛇のような手つきで撫でられるたびに、あられもない声が漏れて、それすら飲み込まれてしまう。サクラが身につけている学校指定の無愛想な水着は、背中の部分が大きく開いていた。いつもなら、背中だけ変に焼けてしまわないようにと日焼け止めを塗りたくる、それだけの注意が向けられるむき出しの空間も、今はそれどころではいられない。サスケの指先に促されて、肌の上に留まった水滴がすべり落ちていく。プールの水とも汗とも知らぬ雫が背中のくぼみに集まって腰まで伝い落ち、もどかしさに目をつむると一層肌の感覚が敏感になるような気がした。
一体サスケは、こういう時になにを考えているのだろう、と酸素不足に喘ぎながら、サクラは思う。無心なのか、動物的な本能に支配されているのか。サクラという人間のことを考えているなんてことはきっとないのだろう。そもそもサクラである必要があるのだろうか。どれだけ触れ合っていてもわからない。面倒だと思われるのが嫌で、聞けた試しもない。結局のところ、サクラがすがっているから成立しているだけなのかもしれなかった。

サクラの思考をよそに、不穏な意図をもった指先は、ナイロンの生地と肌の間へ探るように侵入しはじめた。身をよじって息継ぎの合間にだめ、と繰り返し訴えても、制止はまるで意味をなさない。領域侵犯する側に、元から聞き入れる意思はなかったし、諦めの悪い「だめ」の二文字は飲み込まれてしまえば、最初から無かったも同じだった。どうせサクラの側に、本気で抗う気がないことをわかっているのだ。そういうところが、内心とても憎らしくて、けれど妙な優越感にサクラをひたす。「そのつもり」のふたりの間で無駄な2音は、ただ学校という空間に言い訳する、せめてもの礼儀みたいなものだった。

体温の馴染んだ、水気の残るナイロンはぴったりと肌に張り付いていた。そこに指が差し入れられたせいで、隙間に空気が入り込みわずかに温度の下がった水が、再びひやりとした感触を持って肌に張り付く。気持ち悪くて、気持ちいい。プールに浸かっていた身体は、どちらも冷え切っていたが、それでもサスケの末端の方がサクラの上半身よりいくらか冷めていて、異質なものが身体を這う感覚を際立たせる。そんなことを繰り返して、やがて五本の指がすっかり布と肌の間におさまると、探るように見せて迷いのない手はどんどんサクラを溶かしていった。執拗に肌に指をうめて、何が楽しいのだろう。サクラばかり息が上がって、目の前の男はてんで冷静なように見える。立っているのがだるくなり、関節という関節が使い物にならないくらいふにゃふにゃになって、後ろのロッカーに倒れこむようにして背中を預けた。反った背骨が悲鳴をあげる。
痛いと訴えると、くるりと身体を反転させられた。まるでそのために誂えられたような、胸の高さのロッカーにしがみつき、タオルに顔をうずめる。漏れる息を吸収して、タオルが熱くなる。華奢なように見えて、サクラよりもずっと大きな身体が覆いかぶさって首筋にべろりと舌が這った。真っ黒の髪が、視界の端に揺れる。ぞくぞくとした感覚が神経を誑かして、思わず頭を腕に擦り付けるとその拍子にうなじに熱い痛みがさした。は、とたまらず息がこぼれる。これはきっと残ってしまうやつだろう。どうしてなのか、サスケは毎度、綱渡りをするかのようなぎりぎりのところに、2つ3つ、赤い印を残していく。見えるところはやめて欲しいと毎度訴えるのに。
「お願い、首は……」
「そんなにいやかよ」
「だって」
「3日もありゃ消えるだろ」
その3日が問題なのだ。こんなに茹だるような天気だっていうのに、髪を結わえることも出来ないではないか。それにきっと、消えたと思ったらまたサクラの気も知らないで、跡を残していくのだろう。
太ももを流れ落ちて足の裏にまとわりつき、ぬるくなった水は、全然乾いてくれず、床と皮膚を行ったり来たりしている。人肌くらいの曖昧さが気持ち悪く、足の指を擦り合わすと、ひたひたとこもった音がした。




ただでさえ熱気のこもるプールサイドの小屋の中は、着実に温度と湿度を上げている。床も、壁も、ぶ厚い擦りガラスも総じて日光と熱に侵されている。この部屋の中で1番つめたいのは、まだ、ふたりの身体だろうと思った。それもじきに、部屋の熱気に同化してしまうだろう。

気づけば肩紐は既に両腕から抜き取られていた。晒された肌をふるわせながら、果物を食べようとするように、器用な両の手が残りのナイロン生地を剥ぎ取っていく。もうあと、半分くらい。手をついたロッカーの上では、まだ時折携帯の画面が光っては、短く震えていた。きっといのだ。今どこ? とか、お昼先食べちゃうよ、とかそんなところ。ぼうっとする思考の中でスタンプくらい送っておいたほうがいいかな、と思って痺れた指を伸ばしたら後ろから伸びてきた手が、携帯をひっくり返してしまった。無様に転がって震え続ける携帯をよそに、露わになった背骨をぬるぬると舌が這う。きっとしょっぱいに違いない。
「あ…っ、見えるとこは、だめ」
「……そんなヘマするかよ」
ついさっき、その見えるところに悪びれもなく吸い付いたばかりの人は誰だったか。
「プール、来週もあるから」
せめて水着で隠れるところにして欲しいと訴えると、つまらなそうな舌打ちが落ちた。
「誰もキスマークだなんて思わねえだろ」
ああ、確かに。誰も、春野サクラがそんなものを身体につけているなどとは思わないだろう。ましてや、それをつけたのがうちはサスケなどと思いつく人は。仮にひと目見てサスケのものだとわかる、執着のしるしなのだったら、喜んで頂戴するのに。そうでないなら、自分だけが見える、外からは見つからないところに隠してしまいたい。ほかの全部のものと同じように。
別の誰かのものには思われたくなかったし、別の誰かと同じにも、なりたくなかった。

肌にはりついた残りの布は結局すべて、はぎ取られてしまった。着替えを手伝ってもらった、なんてわけでは決してない。望み通りと言えばいいのか、その下に隠れていた肌は執拗に、サスケの餌食になった。内側までも暴力的なほどの彼の熱でどろどろに溶かされて、視界がかすむ。思考がとける。
耳元に息がかかって、余裕のない声でサクラ、と繰り返されれば、今だけはもう何もかも、方程式も寂しさも、どうだってよくなってしまった。

彼から私の顔が見えないのと同じように、私からも彼の顔は、見えないけれど。


5限目に水泳の授業がある学年がないことを私たちは知っている。昼休みにプールに立ち入る人はいないのだ。みんな、涼しいクーラーの下で、お腹を満たしている。多分、あまい卵焼きなんかを頬張って。
だから誰も気づかない。原色じみた青空とゆたかな入道雲、お天道さまも見ていない。

ここに存在すべきでない物音だって声だって、蝉の声が全部隠してしまうし。扉の奥のことなんて、誰にもわかりっこない。


・・・

大きな足跡のあとに、少し離れてひとまわり小さな足跡が続く。太陽光線を馬鹿正直に吸収しきって鉄板のように熱々になっているコンクリートは、ついたそばから足跡を消していく。やましいことなんて一切ありませんでした。証拠はどこにも残りません。布と髪の下を除いて。
日頃から革靴とソックスに守られた品行方正な足のうらは熱した鉄板に耐えられず、爪先立ちで恐る恐る日陰を進む。はりつく砂利が気持ちわるい。
「いったぁ……」
熱さに気を取られて小石を踏んでしまったらしい。思わず声をあげたのは迂闊だったけれど、期待して彼のことを見たりしない。そういう、間柄なのだ。見える証拠は残さない。声につられて手を差し出すなんて、以ての外。わかっている。
前方をいく黒い頭、白くて広い背中、黒いズボンに、白いかかと。2人の外側が共有しているのは同じ学校の制服を着ているということだけ。白い背中に広がる、水に濡れた跡も、じきに太陽が消してしまうことだろう。


「バイバイ」も「また今度」もない。すべては彼の気まぐれなのだ。真夏に生まれたのに、ひとり涼しい顔で君臨し、ほかの人間を引き寄せない彼はきっと、台風のような人なのだ。平穏に生きるサクラを気まぐれに絡めとってはめちゃめちゃに蹂躙して、濁流に飲み込んで、何事もなかったように去っていく。行ってしまったあと、空には雲ひとつ残らない。




教員室の扉を開けると、機械的に冷やされた空気が一斉に肌を撫で上げた。ポケットの中から探り出した鍵を手に、申し訳なさそうな顔を浮かべる。
「ごめんなさい、先生から返すように言われていたんですけど、忘れて教室に戻っちゃって」
「ああ、春野さんね、大丈夫よありがとう」
「すいません、お願いします」
いつもどおり。悲しいくらいに、何も不自然なことはない。
「お、春野、この前の模試の結果帰ってきたけど相当良かったぞ」
「えっ、ホントですか。自分でも手応えがあったんで嬉しいです」
にこりと笑って、失礼しました、と礼儀正しく頭を下げると、無理な体勢を強いられた腰が鈍く痛んだ。
身体中にひそむ気だるさのせいで、きっと午後の授業は夢の中だろう。もう既に、まぶたがとろとろと重い。

塩素の匂い漂う、昼下がりの教室。お腹と恋心は満たされず空っぽのままだった。



2017/09/07

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