anxieties



ふわふわと真っ白な毛をまとったウサギが、近頃のサラダのお気に入りだった。紅葉のような小さな手で胴体をぎゅっと握りしめ、とりわけ寝るときは片時も離さない。どうやら、左耳を口もとによせていると安心するらしかった

穏やかに上下するサラダの胸にくてん、と放り出されたぬいぐるみの腕を指先でいじると、微かな動きに反応したのか、サラダがくるりと寝返りを打った。珊瑚色のビーズで出来た目をサラダに向ける、手触りのいい白色のうさぎはどういうわけか、昔のサクラを彷彿とさせた。桃色ならまだしも、白いうさぎだ。風が吹くとふわふわと揺れていた髪がウサギの耳にでも重なるのだろうか。赤い衣服が瞳と重なるのだろうか。とにかく理由ははっきりしないのだが、このぬいぐるみを見ると、そしてそれにサラダが頬ずりになどをしてると知らぬ間に口元が緩む。

「寝ちゃった?」
水音の止んだ台所から顔を覗かせ、エプロンで手を拭うサクラは、すっかり母の顔をするようになった。
「ちょうど今な」
サクラはサスケの指先がぬいぐるみの耳をいじっていることに気づくと困ったような笑みを浮かべた。
「サスケくんとぬいぐるみって似合わないねぇ」
「成人した男に似合うも何もないだろ…」
呆れたように返せば、サクラは少し間をおいて、そうなんだけど、とサスケの視線を逃げるようにして目を伏せた。

「想像、できなかったから」

サクラは何かと口数の多い女だった。サスケが1話せば5も10も返してくる様子を見て、よくもそんなに話すことが溢れ出てくるものだと昔から驚かされる。サクラが歌うように言葉を続け、サスケがそれに相槌を打つ。一種のルールとして定着していったリズムに安寧を覚えるようになったのはいつのことだっただろうか。
そのサクラが、不明瞭かつ僅かな言葉で応対する時というのは、概して何かしらの負の感情を漂わせている時だった。少なくとも、今までの経験からサスケはそのように思っていた。
人の感情の機微に疎いとは思っていない。けれど相手がサクラとなると、様々なフィルターが邪魔をするのか、はたまたサクラという人間が複雑にできているのか、何を考えているのか掬い取れないことがよくあった。自分の言葉数が少ないせいで彼女から引き出せるものに限界があるのかもしれないが、その分よく見ているはずだ。一族の眼云々の話以前に自分の目が、細かなサクラの変化を捉えていると気づいたのはここ数年のことではなかった。
今交わした会話のどこに、サクラを悲しくさせるような要素があったのだろう。なるべくなら、そういうものは拭い去ってやりたかった。ようやく手に入れた幸福な時間が、ガラス器のように脆く、ともすれば簡単にひび割れてしまうことを知っていながらも、美しいものには美しいままであってほしい。

こちらに背を向けたサクラの、エプロンの紐が揺れる様子を目で追いながら、サスケは考える。想像できなかった。何が。ぬいぐるみか。サスケが、ぬいぐるみを携えて我が子を穏やかなまなざしで見つめる様など、かつては想像できなかった。そんなところだろうか。
その通りだと思った。昔、まだ2人がナルトと共に第7班として任務に励んでいたわずかな時のことだ。農繁期とあって、子守をする任務にあたったことがあった。3人は残念ながらひとりっ子、もしくは末っ子であったから誰ひとりとして年少の子どもの世話など、ほとんどしたことがなかった。母親の不在を悟って泣きわめく子どもをどうあやしたらよいのか途方にくれる中で、それでも1番に状況に適応したのはサクラだった。立ち尽くす男子どもを尻目に、細い腕に赤ん坊を抱いて、根気強く揺りうごかしているとぐずる声は徐々に小さくなっていった。サクラの長い髪がその度に揺れて、時々赤子の頬にかかる。小さな手が、蝶を追うように桃色の房を掠めるとサクラはふふ、と目元を緩ませた。
サスケは、はっと目を見張った。幼いサクラに、母性の片鱗を見たのだ。伏せたまつげに、慈愛の光が溶け込んでいた。

彼女もいつか、母親になるのだろうか。腕に我が子を抱くのだろうか。普段の自分ならばまず思考することのないだろう想像をするほどにその光景はサスケの網膜に焼き付いた。あまりにも眩しかった。眩しすぎて、手を伸ばしてはいけないと思った。決して溶解してはならぬ、「こちら側」と「あちら側」を隔てる壁の存在を知った。

サスケの視線をどう勘違いしたのか、サクラは慎重にしゃがむと、床に放り出されていたクマのぬいぐるみをサスケに手渡した。
「あのね、これを赤ちゃんの前で揺らすといいと思うの」
咄嗟に反応できず、言われるがままに受け取れば、サクラは何がおかしかったのか目尻を下げた。サクラのやわらかな匂いと、赤子の乳くさい匂いが混ざって、むき出しの心を撫でた。

自分にはこういう未来は現れない。憎しみを背に、血と涙で濡れた道を見据える自分には関係のないことだ。その先にひだまりはない。求めていない。

慣れぬ子守りと慣れぬ心情にひどく疲れ、忍として強くなることに関係のない任務だとカカシに不満を漏らすとカカシは分かりきったような目でサスケを見下ろした。ただの愚痴のつもりだった。だから、「一族復興するんなら子供の面倒くらい見れた方がいいんじゃない」という師の真面目なのかそうでないのかわからぬ返事に、自分は最初何を言っているのだと面食らったのだった。
おかしな話だ。それほどに自分が子どもだったのだ。抱いた望みはおよそ離れた点と点でしかなく、互いが繋がってはいなかった。先ほどのサクラの言葉と同じだ。想像なんて出来ていなかった。ずっと、出来なかった。

あの頃想像もしなかった現実を、手の中の温もりを、サスケに与えてくれたのは他でもなくサクラだった。娘をあやすときの穏やかな感情も、サクラを腕に収めた時の煮えるような抗いがたい感情も自分の中にあると気づいたのは、両手に余るような幸福を自分も享受しても良いのだと教え、どこまでも根気強く追いかけてきてくれた彼女のお陰だった。長い間与えられてばかりだった。それを、不器用な自分は果たして返すことができているのだろうか。

だから、彼女の幸せを翳らせるものがあるのならば取り去ってやりたかった。皿を拭くサクラの背はしゃんとのびているがいつものように鼻唄を歌うことなく時折覗く横顔はどこか憂いを滲ませている。

***

「想像できなかったから」
口にしてしまってから、しまった、と慌てて口を閉じた。
サクラが不意打ちで零した、「なんの変哲もない」感想に対するサスケの返答は至極まっとうなもので、まあそうよね、とか確かに、とか、そういうありきたりな言葉で笑ってごまかせばよかったのだ。それなのに、言い訳をするように塗り重ねた言葉はますますサクラの思考を証明するだけのものだった。

サスケくんには、家庭の匂いがしない。

今のサクラとサスケは戸籍の上でも、心的な面を取ってもまごうことなく夫婦であった。それに、ベビーベッドの上で小さな足を縮こめて眠る愛しい赤子は、間違いなく自分たちの子どもだった。この子が、黒目黒髪のうちはらしい見た目に生まれてきてくれて本当によかった。サクラの存在を阻害するほどに、父親そっくりの容姿を目にするたびに、自分のお腹の中から取り出されたこの子がサスケの子どもであることを実感できる。自分が、サスケの子どもの母親であることを確認できる。そうでなければ、サクラは意味のない不安に苛まれておかしくなっていたかもしれない。不安というのは事実と本人の意識に関係なく、勝手に膨張して、ずぶずぶと心を侵食していくものなのだ。

そういうものを心の依り代にしている時点で、家族としてのあり方に問題があるのかもしれない。誰のせいでもないけれど、家庭と根っこでつながっているような、そういう安定した印象がサスケにはないとサクラは思っていた。
サスケが家のドアを開けたとき、もうこれきり帰ってこないんじゃないか、とどうしようもなく不安に襲われる。昼寝をして目を覚ました時には、娘の存在ごと全部、夢の泡沫の中に溶け消えてしまうのではないかと思う。昔よく彼が浮かべた、どこか遠くの世界を見つめるような横顔を見るたびに、待って、行かないで、と手を引き縋りそうになる。
ぬいぐるみひとつとってもそうだ。違和感を見つけてしまう。あのサスケが、少女の幸福を象徴するようなふわふわのかたまりを子守りのために携えているのは、ちぐはぐもよいところで全く異空間のものが並存しているように見えてしまう。異物感は往々にして不安を煽った。
いつまでたっても、似合わないのだ。

サクラが口にした通り、子供の頃のサスケには父親になって子供を腕に抱いているような将来は想像することが出来なかった。将来の夢はサスケくんのお嫁さんになること、と夢見たものの、彼が対面する現実を知れば知るほど、未来が見えなくなった。大人になった彼の姿を思い浮かべることが難しくなって、彼の進む道の泥沼のような果てしない絶望を思って無力な自分を嘆いた。遠い目をした彼の腕は、サクラが縋り付くことを許してくれず、ただひとつ目的の為に強くなることだけを欲していた。

昔、子どもの面倒を見る任務についたことがあった。サクラとナルトはまだしも、何事もそつなくこなすサスケでさえも手こずっていたことを覚えている。あの時サクラは子どもとの接し方を図りかねて困惑している彼に、ぬいぐるみを使うとよいよ、と提案したのだった。顔をしかめたサスケはむんずとクマの胴体を掴むと、火がついたように泣く赤子の前で振ってみせた。
仏頂面のサスケと、クマのぬいぐるみ、それから頬を真っ赤にして泣く赤ん坊。全然、似合っていなかった。ナルトの方がまだ板についていた。

確かにあの頃、サクラはサスケが大人になって子どもをあやす姿など、想像することが出来なかった。それは幼さゆえの想像力の限界でもあり、そうさせない崖のような現実のせいでもあった。
でも、未だに、同じなのだ。似合わない、馴染まない。そう思うことの根本にある思いがサスケにとって失礼極まりないことだということはわかっているからサクラは本心のところを決して口にはしない。ただそのことが、何かを暗示しているように思えて、ふとした瞬間に悲しくなる。サスケの熱に身体中が押しつぶされている時も、まどろみながら彼の腕の中にいるときもそういう不安が背筋を撫で上げるのだった。皮膚同士が触れ合って、体温を融け合わせているのに、それを失う日を思っては指先が震えた。

愛されている。それは確かだ。サクラのことも、サラダのことも、サスケが大切に思ってくれていることを疑いはしない。でもそういうことではないのだ。

幸いなことに、サスケはサクラが零した言葉の矛盾に気づいていないようだった。よかった、と思う反面、我儘な感情にうっすらと影が落ちる。
この人はそんなに私の言動を気にしていないのかもしれない。いや、与えるだけのものを同じように与えられ、求めるものを同じように求められないと満足できないなんて、とんだ欲張りだ。与えるものを拒絶されないだけ、随分幸せじゃないか。



「どうかしたのか」
いつの間にか後ろに立っていたサスケがするりとサクラの髪を梳き、すべるままに頬を撫でた。
「なんでもないよ」
皿を拭く手を止めずに答える。何でもない。彼に聞かせるような話じゃない。ね?と首をかしげてサスケを見やると洞察力に優れた彼の色違いの双眸がサクラの瞳の奥の翳りを覗き込んだ。

「ほんとになんでもないってば。サスケくん、いつからそんな心配性になったの」
こんなに元気なのよ?何かおかしい?と胸を張ると、サクラ、と呼ばれてサスケが自分の額をサクラのそれにくっつけた。まつげの触れそうな距離で空気が揺れる。
「……俺は、お前には幸せでいて欲しい」
ちくり、と心臓に痛みが走った。それはどういう意味なのだろう。なんでそんな不吉な匂いのする言葉を吐くのだろう。サスケの真意が全く汲み取れず、ただ漠然とした不安だけがサクラの脳裏を掠めた。
「幸せだよ、……うん、本当に、幸せなの」
これ以上何かを言われては、ずっと押し留めてきた感情をぶちまけて彼を傷つけてしまうかもしれない。涙が溢れて彼を心配させるかもしれない。これまで散々苦しい道を歩んできた彼に、幸せでいて欲しいのはサクラの方なのだ。不安の在り処を悟らせるなんて、望んだことじゃない。

サスケくん、と囁いて口付けるとそれが引き金のように、やさしく覆われ、熱い濁流に飲み込まれた。口内を蹂躙する舌が、燻る負の感情を全部舐め消してくれればいいのに。誤魔化すことが何の解決策にもならないことはよくわかっているはずなのに、同じ手段に頼るのは臆病だからだ。それでも、一瞬でいいから忘れさせて欲しい。忘れてほしい。
サスケの手がサクラの背を撫でた。もっと、とせがんで腕を回すと望んだ通りの熱が降ってきて、サクラは促されるように目を閉じた。


2017/5/15
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