CIEL MAIL

海の人質


 深い、深い、青い、青い、海の底には、いろいろな生き物たちがたくさん住んでいました。そこで、歩いているはずもない、人影がひとつ、ふたつ、いえ、みっつ、ありました。
 それは、まるで、水族館を見物する客のようですが、客にしては、あまりよい光景では、ありません。それもそのはず。先頭には、カナルが、気を失ってしまったリコルを背負い、その後ろには、海の神様、マソが歩いていました。
「おそいぞ! もっと、早く歩くのじゃ!」
 マソは、じたんだを踏みながら、まるで子どものように駄々をこね始めました。
「しょうがないだろ。こんな、同年代の小娘をひとり担いでいるんだ。だったら、先に行けばいいだろう」
 はぁ、めんどくさいなぁと、カナルはため息を着きながら答えました。
「これ、カナル。敬語を忘れているぞ」
 マソにそう言われ、はっと気付いて、カナルは、口に手を当てました。どうやら、このふたり、主従関係が、板に付いているのかと思いきや、普段は砕けた口調で話しているようです。
「なんなんです? やらせですか? いつまでこの”ごっこ遊び”に付き合わないといけないんです?」
「命令だ!」
 マソがドヤ顔でいばり散らしている様を、やれやれ、といった表情のカナルの様子は、どちらが大人で、子どもなのか、判別がつきません。
 もし彼らが普通の人間だったら、海の中で、こうして平然と息をして談笑するなんて、決してできないことでしょう。ですが、海の神様の加護を持つ、海峡の玉梓のカナルにとっては、海の世界で生活することは、ごく普通の、当たり前の日常となっていました。リコルもまた、普通の人間ではありません。空の神様に認められた存在であり、この世にはもういない存在であり、本当に死ぬことは、まず、あり得ないでしょう。一部の例外を除いてーー。

 カナルとマソが、話しながら歩いているうちに、何やら、目的地にたどり着いたようで、カナルが足を止めました。海の底に一軒、隠れ家が、そこには存在していました。カナルが、そこにノックもせず入っていくと、マソもそれに続いて入っていきました。どうやら、ここが、彼らの住む家のようです。
「さて、この娘、どうしたものか」
「とっとと始末すればいいじゃないですか」
敬語口調なまま、カナルは言いました。
「それだと、面白くないであろう。そうだ。遅かれ早かれ、ウラノスが助けにやってくるだろう。この娘は、人質につかえば、いいのだ」
 ニタニタと笑みを浮かぶマソを見て、カナルは、相変わらず、性格の悪い神様だ、と思いました。
「別に、なんでもいいですけど。人質って、何を代償にするんです?」
「この娘の命がほしければ、有り金、全部よこせ」
「刑事ドラマの見過ぎですか?」
さすがに、それはないだろう、とカナルは突っ込みます。
「この娘の命がほしければ、いいかげん、負けを認め、不幸の国を共につくるのじゃ」
 やっと、本心が聞けたと想うや否や、カナルはふと、疑問に思いました。空の神と海の神の勝負に、決着がつくことなんて、あるのかと。不幸だけ、幸福だけ、そんな極端な国が成立するのかと。もしかしたら、この勝負は、どちらかが負けを認めるまでは、決着がつかない勝負なのかもしれません。そんな予感がするカナルは、それに巻き込まれた、自分と、まだ目を覚まさずに眠っているリコルを、可哀想だなと、やや自嘲気味に思いました。カナルは、リコルが眠っているのをしばらく眺めていると、何故だか、胸に妙なざわつきを覚えました。
(なんなんだ。こいつ。おれは、こいつなんて、知らない。知らないはずなのに、なんでーー。)
 それは、ついこないだ知り合ったばかりだというのに、初めて会った気がしないという、カナルには不可解な記憶でした。カナルは、今まで、自分の生前には興味がなく、知りたいとも思いませんでした。ですが、リコルとは、もしかしたら、生前、なんらかの形であったことがある人間なのではないかと、そんな予感ばかりが、カナルの心を覆い尽くすのでした。




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