望郷

 陽射しが痛い。
 ジリジリと、半袖からのびる自分の腕が焼かれる感覚。
 紫外線量を考えると、暑くとも長袖を着用した方が良かったかもしれないが、今更思ってももう遅い。既にうっすら赤くなった腕を見ないようにしながら、庭の雑草抜きを続ける。



 
 今年の夏、お盆休みを早めに取って、私は地元に帰省した。
 車も人も少ない…というか、全く見ない山間部を車で走ると、淋しいより、懐かしいという思いが先立つ。

 地元の高校を卒業し、就職で上京する前から急激に進んでいた過疎化。若者のみならず、高齢者の姿も徐々に少なくなったこの町は、今年の春に周辺の3つの町と合併することになった。
 地元を離れていた私は、その事をニュースで知った。時代に沿った、ごく普通で当たり前の改革だと思った。
 しかしいざ合併した日になると、何とも言い難い感情に捕われて、私はアパートで独り、酒を飲んだ。

 私は決して、地元が好きな人間ではなかった。その証拠にこうして、最低限田舎と家族に身を尽くした末、単身で都会へ行きひとり暮らしを満喫している。田舎の不便さも家族のしがらみも無い幸せを噛み締めている。
 にも関わらず、私は実際に、自分の生まれ育った町の名前が無くなることが、きっと悲しかったのだ。砂浜に付いた足跡を波がさらってしまうように、自分が生きてきた軌跡を合併で失ってしまった。

 今年の夏も帰ってこないのか、と母から来た電話に、今年は帰る、と返事をしたのはそれが原因だったと思う。
 最新の地図帳から消えた自分の故郷が、実際に存在し続けているのか、この目で確認がしたかった。


 田園が広がる開けたところまで車を走らせると、見覚えのある家屋や倉庫がちらほらと見えた。いくつかは、ペンキで色を塗り変えられているが、家屋の形に違いはない。
 舗装された農道をさらに進んで、橋の手前の道を右に曲がる。砂利道をゆっくりと進んで、家の玄関のすぐ手前で車を止めた。

 初めに私を出迎えたのは、玄関先に置かれた鉢植えのアロエだった。
 下の方は千切られ短くなり、それから中ほどまでの葉の先端は全て茶色く萎れている。刺が綺麗に整列したところを、指先でなぞった。
 幼い頃、この刺が嫌いで、爪切りで1つ1つ切っていたら祖父に怒られたことを思い出す。

 改めて、玄関の引き戸を開けて中に入った。
 ひんやりと、土間の底に沈んだ空気に、微かに糠床の臭いが混じっている。これこそ我が家、という感じだ。

 ただいまーと声をかけながら靴を脱ぐと、パタパタと廊下の奥から母が出てきた。

「おかえり由希ちゃん。帰ってくるの今日だった?」 
「うん。はい、お土産」
「あら、ひよこちゃんじゃない。嬉しいわあ。じゃあ、先におじいちゃんにあげてきてね。お母さんはお茶の準備するから」
 
 パタパタと、小走りで母は台所へ向かう。
 いつも忙しそうだった母は、私がこの家から出ても変わらずに忙しそうだ。

 お土産を手に持ち、私は玄関から真っすぐ仏間に向かう。
 襖を開くと、磨りガラスの窓から明るい光が差し込んでいる。お盆が近いため、天井から2つの盆提灯が吊り下がり、仏壇にも小さな燈籠が置かれていた。
 私はお土産を紙袋から出し、仏壇に置く。それから蝋燭と線香に火を点けて、鐘を鳴らし両手を合わせた。
 祖父は私が家を出る前の年に亡くなった。

 仏壇に置いた菓子をすぐに下げると、居間へ向かった。
 開けたままのドアから、ベランダから入った風が抜けていく。
 母は麦茶と、食べやすく切られたメロンを用意して待っていた。

「わあ、ありがとう。おじいちゃんも久しぶりに由希ちゃんの顔見て喜んでたしょう?」
「さあ」
「お父さんはお祭りの神輿の準備に行ってるのね。お母さんも、もうちょっとしたら集まらないと行けないんだけど、このひよこちゃん持ってってもいい?」
「いいよ。みんなで食べて」
「ありがとうね。みんなに由希ちゃんが帰って来たこと教えてあげなきゃね。6年ぶりだもんね」
「いいよ。何も言わないでよ」
 
 電話の時より明らかにはしゃいでいる母に、私は苦笑いした。
 どちらかといえば、水と油な性格の母子だったが、しばらく離れていたせいかすんなりと受け流すことが出来るようになった。
 私の皿からメロンを2つ頬張ってから、母は立ち上がった。
 
「それじゃあ行ってくるから。由希ちゃんの部屋は掃除してあるから、上がっても大丈夫よ」
「何かやっておく?」
「いいわよ。ここまで来るのに疲れたでしょう?ゆっくりしてなさい。じゃあね」
 
 そう言って、母は菓子箱を持って居間から出ていった。
 麦茶を飲みながら耳をすますと、母がつっかけを履く音、引き戸を開閉する音、砂利の上を歩く音と順に聞こえて、やがて蝉の鳴き声しか聞こえなくなった。
 物音のしない沈黙した家で、私はメロンをたいらげ、麦茶を飲み干した。台所に皿とコップを持って行き、軽く濯いで籠の中に置いておく。

 それから荷物を玄関に置きっぱなしだったことを思い出して、2階にある自分の部屋へ運んだ。
 木で出来た急な階段は、10段目だけが音が鳴る。ギギギィと段を踏み上がって数段、2階に着いた。私は、小学から高校まで自分の部屋だった、その部屋のドアを開けた。

 家を出ると決めたとき、ほとんどの物を捨てた。
 大好きだったアイドルのポスターも、友達に録音してもらった深夜ラジオのカセットも、卒業式に後輩からもらった寄せ書きの色紙も、今まで自分がここで生きてきた証を全て無くすつもりで処分した。

 ベッドと箪笥と机、それがこの部屋の全てだった。ビジネスホテルよりも簡素だ。

 荷物は床に置いて、私はベッドに座り、寝転がった。
 客用の布団は干されていたらしく、ふかふかして温かい。
 少し目を閉じると、私がこの部屋で寝る前に、いつも願っていたことを思い出した。


『早く世界が無くなりますように』
 

 じわりじわりと人間により汚染で崩壊していく世界が、いつか終わるよりも、自分が寝ていて気付かない間に終わればいいと願っていた。
 10年、20年と時が経つごとに、科学や医療技術は進歩し続けるとは思うが、そもそもの地盤である地球が破滅の一途を辿る。
 つまり人間は何十年かかけて、自分の首を締め付けていくのだ。ゆっくり、確実に、死に至る未来。
 ならば苦しむより、苦しまない死を、私は子供ながらに願ったのだった。

 だが今はもう、願うことはない。
 その日、職場であったことか、寝る直前まで読んでいた本の内容を思い返すくらいだ。

 目を開けて、真っさらな天井を見上げた。
 不思議な感覚だ。もう帰らないと決めた我が家に、自分の部屋にいるなんて。

 過去は無くしたいと思っても、残り続けるものなのだ。無くならず残っているから、煩わしくも、安心する。

 私はベッドから起き上がり、一階へ下りた。真っすぐ玄関へ行き、靴を履いて外へ出る。
 午後の日差しが眩しくて、手を翳しながら、私は庭へ向かって歩いた。
 毎年作られている家庭菜園より奥にある、花壇へ行く。

 ヤマユリやコスモスや丈の低いヒマワリが咲き乱れるそこは、私が高校まで管理していた自分の庭だった。
 学校の帰り道に見付けた花を持ち帰り、埋めて水をあげる。すぐ枯れてしまうのがほとんどだったが、運よく生き延びたものは毎年キレイな花を咲かせた。

 家を出たときは春だったから、この庭には残雪が積もっていて、私は処分するのをすっかり忘れていた。
 花壇の前に座り、まず一番手前のコスモスの根本を掴む。抵抗はあったが、柔らかい土なのでずるずると根も抜けた。
 ついでに名前のしらない小さな草もぶちぶちと抜いていく。
 花壇には土しか残らないように、自分が植えた花と草を処分していく。

 額にかいた玉の汗は、鼻筋を通って地面に落ちる。ぽたり、ぽたりと。
 端から見れば、泣いているように見えるくらい、汗は流れ落ちていく。

 でももしかしたら、私は本当は泣いていたのかも知れない。
 過去を消したい自分と、過去を失った自分の狭間にできた矛盾に苛まれて。



おわり

(2007.08.14)

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