目的相違

 その場所で柳生と待ち合わせたことは、一度も無い。
 しかし75%の確率で、つまり俺がそこへ4度訪れれば、3度は柳生と偶然に出会っていた。
 耳触りにならない程度にボリュームを落とされた、リストの『ラ・カンパネラ』。
 大小新旧様々な書物が著者名順にだけ整頓された、天井まで丈のある書架。
 眼鏡の装着率が高いこの空間に溶け込み、本を読んでいる柳生。
「周期が似ているのかもしれませんね」
「本を探して読みたい周期が、か?」
「そうです」
 淡い茶色の木製テーブルを挟んだ向こうで、柳生は儀礼的な笑みを浮かべている。
 俺も同じものを顔に浮かべて返すと、読みかけの本に目を落とした。
「今日は何を読んでいるのですか?」
「『白痴』」
「興味深い題名ですね」
「そう思って手に取った。そっちは?」
「『象の消滅』です」
「聞いたことが無い」
「新刊ですから」
 本をめくる音がすると、柳生は口を閉ざした。
 この場所の使用目的は、ロビーのように会話をするためではない。
 出来るだけ静かに、日本でも有名なピアニストが演奏するクラシック音楽を聞き流しつつ、顔の知らない文学者によって綴られた文字を追いかけたり、唾を吐きかけたくなるような難しい宿題に頭を抱えたりする場所である。
 しかしその常識をわきまえていない輩は、さも当たり前に存在するもの。というか常識をわきまえる以前に、常識という言葉や意味を理解しているのかとさえ、疑念を抱いてしまう。
 今も、向かいに座って『象の消滅』を黙読する柳生の奥にあるテーブルで、1年生と思しき学生が4人で談笑をしている。
 考えれば、中学1年生というのはつい数ヶ月前まである程度、何をやっても注意だけで許される小学生だったのだから、身についている常識はたかが知れたものなのだろう。
「柳クン。そんなに見つめられては、恥ずかしいです」
 目線を活字の世界に残したまま、柳生は聞き逃しそうなくらい小さな声で囁いた。
「そうか。快感か?」
「ええ。癖になりそうです」
「それは良かったな」
 俺は読んでいた本に栞を挟み、席を立った。
 少しでも煩いと感じる場所で、本を読むことは出来ない。
「行くのですか?」
 この場所に居残る意思を持った柳生に、俺は「ああ」と答える。
「その本は借りていくのですか?」
「そうするつもりだ」
「いつ頃返却する予定ですか?」
「さあ…」
 俺は手に持っている本の背を見た。
 たいした厚みのある本ではない。
 早ければ、今日が終わる前にでも読み終わってしまうくらい。
 しかし、1度では内容を理解できない雰囲気が、この作品にはあった。
 自分が存在した時には既に、全く面影を失った世界に住んでいる大人達の日常。
 1日置いて、じっくりと読後の熱を冷ましてから、もう1度ゆっくり読みたい。
 俺はそう思った。
「週末か、週明けか」
「そうですか」
 活字の世界から浮上した柳生が俺を見上げている。
 綺麗な楕円形をしたフレームの奥で、柳生の目は微かに笑っていた。
「あなたが読み終わった後に、私もその本を読んでみたいです」
「勝手にそうすればいい」
「冷たい言い方ですね」
「嬉しいだろう?」
「ええ、とても」
 俺と柳生の会話に聞き耳を立てていたのか、隣のテーブルに座っている眼鏡をかけた女子2人が忍び笑う。
 俺は他人に常識を求めても、自分自身には求めていない、と心の中で弁解する。
 しかしそれは酷く子供じみて、馬鹿馬鹿しくて、自嘲してしまった。
「ここにいる時の貴方は、たいてい心面白い顔をしますね?」
「心面白い?」
「貴方の感情が垣間見られます。他のどの場所にいる時よりも」
「気の所為だろう」
「気の所為ですか?」
「気の所為だ。煩くしたな」
 俺が歩き出すまで、柳生はずっと微笑んでいた。
 だが歩き出した後は、直ぐに活字の世界に身を投じたに違いない。
 俺は柳生をそういう奴だと認識している。
 周りに合わせるのが上手い、常識人だと。

 受付で本の貸し出し処理を頼んでいる時に、一度だけ振り返った。
 残念な事ながら、柳生はまだ俺に向かって笑っていて、あまつさえ緩やかに手を振っていた。
 なかなか食えない奴だ、と嘆息して、俺は貸し出し処理の本を受け取り、その場所を後にした。

【end】

【再録】柳生柳の自給自足です。小難しい言葉で遊んでいるのがいいな〜と思います!


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