託される想い

 こめかみから、つぅーっと流れた汗が顎の先まで伝って、ポタリと跡部さんの手の甲に落ちる。
 ハッとした表情で俺を見上げる跡部さんに、俺は反射的に謝っていた。
「すみません、俺の汗です」
「チッ…驚かせんじゃねーよ」
  余計な心配をした、という表情をして跡部さんはまた下を向く。
 跡部さんの手は、俺の右手に丁寧に包帯が巻いていく。

***

 9月。
全国大会も終わり氷帝テニス部の3年生が引退した後、1・2年生による新部長戦が行なわれた。
 公式戦での敗退経験がある俺は、その新部長戦への出場資格を失いかけたが、OBらの推薦を受けて一次予選からの出場を特例として認められた。
(因みに同学年でレギュラーの鳳は予選無し、最終トーナメントのシード権が与えられていて、樺地も最終トーナメントからの出場になる)
 全国大会での疲れが残ったままではあったが、不完全燃焼した想いを俺は対戦相手にぶつけて、二次予選まで全14ゲームを完全試合で通過した。
 そしていよいよ最終トーナメントが始まる前日に、俺は前部長の跡部さんに試合を申し込んだ。
 「止めとけ。
大事な試合の前にケガするぜ?」
「跡部さんは、俺に負けるのが怖いんですか?」
「アーン?寝言は寝てから言えよ日吉…」
 下剋上を志す俺の攻めるべき砦は、まずこの人に違いなかった。
 だから今まで何度も練習試合を申し込み対戦したが、勝ったことは一度も無い。
 その時も、俺は心の中でこの人の手に届かない強さを感じていた。でも、負ける気は無かった。
 榊監督に許可をもらい、ライトアップされたテニスコートでセルフジャッジの1セットマッチが始まる。
「サービスは?」
「跡部さんからどうぞ」
「ありがとよ」
 高い打点からコートに突き刺さるようなサーブ。
コーナーに向かってレシーブするが、ネット際に詰め寄られ逆サイドのサイドライン上に鋭いスマッシュを打たれる。
 先取点は跡部さんが取った。
「15-0。ほら、次行くぜ。オレ様は忙しいんだ」
 11月のジュニア選抜に向けた調整は、順調に進んでいる様子だ。
 30-0、40-0、15-40、ウォンバイ跡部、ゲームカウント1-0。
 間を空けずに始める第二ゲーム。
「こんなもんで、お前は氷帝のトップになる気か?」
 跡部さんの野次に耳を貸さず、平常心を保ってサービスを打つ。
 サイドラインから外へ逃げるレシーブ、バックハンドでグランドストローク。
 左右へ走らされるボレーが続いた後、ネット際へのドロップショット、苦し紛れのボレーはスマッシュで打ち返された。
 ゲームは跡部さんに支配されている。
「…0-40。こんなのは勝負じゃねえ。わかるよなあ日吉」
「早くサーブ打って下さい」
「先輩の言葉にはちゃんと耳を傾けるもんだぜ」
 第二ゲームはラブゲームで終わる。ゲームカウント2-0。
「結果は目に見えた。悪いが、もうオレは帰らせてもらう…」
「待ってください!」
 チェンジコートをせずにコートから出ようとする跡部さんを、オレは引き留めた。
「1セット、まだ終わっていません」
「次のゲームもオレ様が取って3-0。それからお前の巻き返しはねえ。ゲームオーバーだ」
「まだ2-0です」
「オレに勝つ気あんのかお前?」
「あります!だから、お願いします!」
 額が膝につくほど、俺は跡部さんに向かって頭を下げた。
 今の俺の状態では、明日のトーナメント戦の準決勝であたる鳳と、決勝であたる樺地に明確な勝敗をつけられないだろう。
 あと少しの心・技・体を手に入れるため、俺はいま跡部さんとテニスをしたい。
 新部長戦に一番強く推薦してくれたこの人の期待を、俺は裏切りたくない。
「お願いします!!」
 普段出さない大きな声が、自分の耳に余韻を残す。
 ドクドクと頭に血がのぼる音、ハァハァと整わない俺の呼吸、跡部さんの溜め息。
「仕方ねえな。あんまりオレ様を失望させんじゃねえぞ。アーン?」
 コートに戻る跡部さんの足を見て、オレは顔を上げ「はい!」
と返事をした。
 チェンジコートから始まる、第三ゲーム。
 俺は2ゲーム失ったことは忘れて、このゲームに集中した。
 跡部さんのサーブ、レシーブ、ベースラインで続くラリーの応酬…
「お前に足りないものが何か、オレ様にはわかるぜ」
 余裕を見せる跡部さんが、ストロークを放ちながらそう言った。
「それにお前が気付かない限り、お前は一生オレ様には勝てねえんだよ」
 ベースライン際を左右に走りながら、俺はただひたすらにボールを打ち返す。
 完全に遊ばれているが、なぜか自分の体がだんだん軽くなっていく気がしていた。
 走って、打つ。走って、打つ…
 俺がテニスを始めた頃に、こんな経験を味わったことがあった。
 自分のコートに入ってくるボールを、懸命に追いかけて、力一杯打ち返す。
 ボールが相手のコートに入って打ち返されるまでに、俺は相手のつま先の向き、目の動き、ラケットの抜ける方向を目の端にとらえて、走る。そ
して戻ってきたボールをすぐに打ち返す。また相手の一挙一動を見る。
「ほらよ、これで終わりだ!」
 左サイドに打たれたスマッシュ、だが自然と体が反応していた。
 サイドライン上、ボールはストンと相手コートに落ちて、ポンポンと跳ねていった。
「ハァ…ハァ……」
「0-15。
次はお前のサービスだぜ」
「はい…ッ」
 ベースラインの後ろに下がって、フェンスの前で転がっているボールを拾い、サービスを構える。
 息は上がりっぱなしで、全身に汗をかいていて、身体疲労は極限に達してきている筈なのに、俺は真っ直ぐと宙に上げたボールを最高打点で打
つ。
「チッ…!」
 バックハンドで返されたボールは、大きくゆるやかな放物線を描いてコートに戻ってくる。
 大きく踏み出し、大地を蹴る足。
 自分の手を一体化したラケットが、ボールを柔らかく受け止め、鋭く放つ。
「30-…0」
「ほら、次だ」
 不思議な感覚だった。
 コートの中にある物…ボール、ラケット、跡部さん、俺自身、その動きの一つ一つが何かの流れに沿っている錯覚。
 だから俺は無心でボールを追いかけて、打ち返すだけでいい。
 それが自然の動き、なのだ。
 30-15、30-30、40-30、デュース、アドバンテージ跡部、デュース、アドバンテージ日吉、デュース…
「ゲーム、ウォンバイ日吉。
ゲームカウント2-1…跡部さん、まだゲームは続きますよ」
「フン」
 関東大会で、青春学園の越前が『あと100ゲームする?』と言っていた意味が、俺はいまようやく分かりかけてきた。
 研ぎ澄まされた集中力、高揚した気持ち。
 なんて楽しいのだろう、テニスは。
 体が動かなくなるまで、俺はコートの上でテニスをしていたい…
「くらえ!」
 跡部さんの鋭いスマッシュが、ラケットを持つ俺の手に向かって飛んできた。
「くっ!」
 反射的に俺はグリップに当てて避けようとしたが、小指だけ避けられず直撃した。
「ほらよっ!」
 サービスボールを容赦なくスマッシュで返し、もう一度ラケットに当てて俺の手からそれを弾き飛ばした。
「…もういいだろ日吉。
これ以上やったら、マジで明日動けなくなるぜ?」
「はい…ありがとうございました……つッ!」
「おい、どうした日吉?」
「いえ、何でもありま…」
 ラケットを拾わずに、右手を押さえてうめく俺に異常を感じ取った跡部さんが、ネットを飛び越えて走ってきた。
 「右手を見せろ」
「大丈夫です、大したことは」
「いいから早く見せろ!」
 跡部さんに激され、俺は躊躇いながらも押さえていた左手を外して、右手を見せた。
「さっきのスマッシュで、小指の爪が飛んだのか…」
「大丈夫ですよ、また生えてきますから」
「バカかテメエ?!くそっ…部室に救急箱があったはずだな。来いっ!」
 焦った様子で跡部さんは俺の腕を掴むと、引き摺るようにして俺を部室まで連れて行った。

***

「明日のトーナメントは棄権しろ」
「嫌です」
「というと思ったから、しっかりとテープング巻いてやれよ。包帯じゃ滑ってラケットを持てねえからな」
 手際よく俺の手の応急処置をして救急箱を片付ける跡部さんを、俺は新鮮な目で見ていた。大体こういう事は、樺地がやってくれることなのだ。
「日吉…テメエ、俺は樺地がいないと何も出来ない奴だと思ってねえか?アーン」
「そうですね」
「フン!」
 腕を組んで俺の隣に腰掛けた跡部さんは、目を閉じてふーっと溜め息をついた。
「…悪かったな」
「はい?」
「オレのせいだ」
「ああ…」
 ジンジンと痛む、包帯の巻かれた右手の小指を目の高さまで上げる。
「俺の避け方が悪かったんですよ」
「そうだな」
「テーピング、ぐるぐるに巻いたら痛みも治まりますよ」
「強く巻き過ぎたら、血が止まって壊死するぞ」
「ま、まさか…」
「だから明日、試合の前にオレの所に来い。
オレ様が微妙な匙加減でテーピングを巻いてやるから…」
「え?」
 急な申し出に驚いて跡部さんの顔を見ると、彼は左目だけをチラッと開いた。
「わかったな?」
「は、はい…」
「だから、明日は…絶対に誰にも負けんじゃねーぞ」
 穏やかな声の跡部さんの激励に、俺は胸に熱くなるものを感じていた。
 跡部さんが見守られていたら、きっと俺は誰にも負けない。というか、絶対に負けられない… 「おい、返事どうした?アーン?」
「あ、はいっ!」
「よし。もし部長になれなかったら、テメエのこの頭、坊主にしてやるからな。覚悟しておけよ」
 跡部さんの手が、乱暴に俺の頭を撫で回す。
 本当に、この人には勝てない…と、俺は改めて実感させられた。

【end】

【再録】跡部様は基本、日吉のことをものすごく大事にしていると思うと、もう、ほんとたまりません。


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