忘れられない声


 少しずつ、物の区別がつかなくなっている自覚があった。
 鉛筆をかじってみたり、サンダルを植木鉢に植えてみたり、ベッドの下で寝てみたり。
 自分ではわかっているつもりでも、体と脳がうまく作用していない感じだった。

 機械でいうところの、バグだ。
 僕のバグが起こり始めたころは、ただのうっかり、もの忘れ、イタズラ。そのように妻は扱っていた。
 しかし僕の行動がどんどんオカシクなっていくと、嫌がらせ、イジメ、精神的暴力、と言うようになった。

 妻と私は共に精神科へ行き、僕が若年性認知症であると診断を受けた。
 仕事はもう手につかない状態だったので、退職金をもらって辞めていた。
 子どもはいなかった。僕の親は健在で、妻が仕事の間は僕は実家で暮らすことになった。
 そして妻と離婚した。僕の希望だった。



 実家の食卓には、子どものころに僕が好きだった料理が並ぶ。蕗と油揚げの煮付け。クリームシチュー。餃子。栗ごはん。栄養バランスとか組み合わせとか一切気にしない、母の混沌とした食卓。
 僕は端が使えず、ほとんど匙でそれらを食べた。年老いても、父と母の方が箸の使い方は上手だ。僕はストローでお茶を飲んで、餃子を匙ですくって食べる。
 食事中の会話は無いし、うちは食事中はテレビを付けないので、テーブルに食器を置く音や、咀嚼音しか聞こえない。



 食事が終わった後、母が歯ブラシを持ってくるので歯を磨く。
 お茶で口をゆすいで飲み込んで、あとはもう寝るだけ。
 僕が動くことよりも、何もしないでじっとしていることを、家族は望んでいた。

『もう、いい加減にしてよ……』

 悲痛な妻の声を、今でも思い出す。
 妻の顔は、もう思い出せないのに。



【おわり】

**100のお題〜7.弱音**

(2017/12/11)
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