パイナップルレース

 芸術家というものは、時に自分が人間であることさえも忘れて作品に没頭してしまう。

 僕の弟がいわゆる、その類いの芸術家で。父も母も他界してしまった後は、独身の弟を自分と妻子と住む家屋の敷地内の、納屋を改装してそこに住まわせていた。
 僕の家族は、僕の弟を怖がり納屋には近づかず。また弟も、人付き合いには全く無頓着であるため母屋に来ることはなかった。

 朝と晩。
 僕は仕事へ行く前と、帰宅後と、食事を持って納屋へ行った。製作に没頭中は寝食も忘れてしまうことがあるので、僕は食事を置いてくることはせず、弟が全部食べ終わるのを見守ってから空になった食器を持ち帰っていた。
 日に2回は必ず会う兄のはずなのに。弟は時々、僕が初めて会う人のような目で見ることがある。それは幼いときから何百回もあったことなので、僕は(ああ、今日はコッチの世界にいないんだな)と思うが、さみしくなる気持ちはずっと変わらない。僕が弟の世話を引き継ぐまで、おそらく僕たちの母も、同じような経験をして、同じような気持ちになっていたのだろう。家族にさえ懐こうとしない弟を、父はいないものとして扱っていたが、母だけは兄弟を平等に愛してくれていた。

 今朝の食事を持って納屋へ行くと、弟は床に置いた大きくて真っ白なカンバスに、自分の指先から流れる血で繊細はレースを描いていた。
 弟が自分の身体を使って作品を作ることは度々あったので、僕は食事を持ってきたお盆をシンク台に置いて、弟の傍へ行く。

「おはよう。朝ごはんだよ」

 弟の目の前にしゃがみこんで、静かに声をかける。深い井戸の上から落とした小石が、やっと水面に到達したくらいの時間差で、弟は顔を上げて僕を認識する。

「おはよう。朝ごはんだよ」

 もう一度、同じ言葉をかけると、弟は頷いて立ち上がり、シンクに向かって歩き出した。手を洗い、シンク台の上のお盆を持って、食事用の小さなテーブルと椅子で朝ごはんを食べ始める。

 僕は床に広がったカンバスの、血痕で作られたレースの模様を見た。それは昔、母が作ったパイナップルレースのようだ。

「美味しいかい?」
「うん」

 たまにくれる弟の返事に、母も救われていたのだろうか。




【おわり】

**100のお題〜1.繊細**

(2017.12.03)即興小説トレーニングの『暑い血痕』というお題も追加して。
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