憧憬

 テニス部の部室で、ローズの香りを纏った跡部を抱いた翌日。
 日吉は覚悟をしていた。自分はきっと、もう氷帝学園にいられないと。退学を命じる最終通達がいつ届くのかと怯えて、授業は休まず受けていたが、部活は無断で休んだ。休憩時間もほとんど教室から出ずに、自分の席に座って固まっていた。
 しかし一週間が過ぎようとしていても、日吉の元へは何も届かなかった。家の方にも、直接連絡が来た形跡は無い。
 なぜ跡部は黙っているのだろう。辱めを与えた日吉に、報復する気がないのだろうか。
 眠れる獅子に気が狂いそうになった日吉はその日、放課後になるとすぐに席を立ち、チームメイトの鳳がいる教室へ行った。
「あ、日吉。もう大丈夫?元気になった?」
 バッグを肩に担いで人懐っこい笑みを見せる長身の鳳を、日吉は睨み上げた。こいつは何を言っているんだ?
「別に。どこも悪くないけど」
「日吉さ、跡部さんとみんなのいない所で試合して、立ち上がれないほどこてんぱんにやられて、それがショックで部活休んでたんだろう?」
 みんなに言ったのか、と日吉は悔しさを思い出して唇を噛んだ。鳳は苦笑いをすると、日吉の肩をポンと叩いた。
「跡部さんがね、俺にだけ教えてくれたんだ。アレはやり過ぎたって。でも、日吉が立ち直って来るまでほっとけ、って…もう大丈夫なら、今日はちゃんとおいでよ?待ってるから」
「鳳ーちょっとー!」
「じゃあ、また後でね」
 同級生に呼ばれて鳳は離れていったが、日吉はその場が動けずに固まっていた。背中に氷水が流れているみたいで、手の先が冷えて震えが止まらなかった。
『アレはやり過ぎた』
 ふたりが試合をしたと聞いた鳳には、跡部が日吉をテニスでいたぶり過ぎたという意味に聞こえたのだろう。しかし日吉がやり過ぎたアレは、シャワー後の一糸纏わぬ跡部の美しい身体に溺れた、性的行為だ。
 跡部は全て見透かしていたのだろうか。日吉が自分と行為に至った事も、その後部活に来なくなる事も、鳳に含みのある伝言を聞かされる事も。
 日吉の疑問が確信に変わったのは、一週間ぶりに行った部活中だった。
 週に一度のレギュラー同士の練習試合は、今日は観覧席がある特設のテニス場で行われていた。試合に関わらない部員はコートを一周囲う階段になった席から、大会用のコールの練習をしている。レギュラージャージに着替えてラケットを持った日吉は階段の一番上、コートから一番離れたところでそれを見ていた。部活に遅れてやってきた事に数人は気付いたが、すぐに目を逸らして応援を続ける。
「勝つのは氷帝!勝つのは跡部!」
「勝つのは氷帝!勝つのは向日!」
 応援合戦で盛り上がる部員たちの中央で、涼しげな顔でボールを打つ跡部と、肩で呼吸をしてボールを追いかける向日がいた。あと数ラリーで勝負はつきそうだ。
 しかし、向日がバランスを崩してバックで返したチャンスボールを、跡部はスマッシュをせずに思いっきり打ち上げた。大きな放物線を描いたテニスボールはコートの外へ、観覧席の一番後ろにいた日吉の元へ飛んできた。
 反射的に身体が動く。
 ボールが地面に落ちる前に、日吉はラケットの面でボールの回転とスピードを落とし、水平に保ったラケットの真ん中でピタリと止まるようにボールを掬い上げた。
「日吉!」
 跡部が呼ぶ。
 その声に反応した日吉はボールをラケットに乗せたまま真っすぐ高く上げると、ラケットを大きく振りかぶった。ボールに与える最高のインパクトを、日吉は右手で、両耳で感じる。
 気持ちの良いスマッシュが、跡部の立つコートに突き刺さった。
「すげぇ…」
 一年生の誰かがそう呟くまで、場内は水を打ったように静まり返っていた。その間、日吉はドクドクと沸き立った血を、全身で感じていた。
「何か言う事あるよな、アーン?」
 ラケットでこちらを指す跡部と、全部員の視線が日吉に集中する。
 日吉は息を飲み、一週間ぶりでもしっかり馴染んでいるグリップを握り直して、頭を下げた。
「無断で休んですみませんでした!!」
 場内に響くほど大きな声で、日吉はみんなに謝る。
 跡部という男の、器の大きさに頭が上がらなかった。200人の部員をまとめている跡部と、日吉の差は歴然としている。テニスの実力の差は、いつか埋められるかもしれない。しかし部員の一人の心の機微まで把握して、コントロール出来るのが部長であり、跡部なのだ。
 ゆっくり顔を上げると、久しぶりに部活に来た日吉に対して嫌な顔をする部員は一人もいなかった。日吉自身も謝る機会が与えられた事で、部活をサボっていた気まずさが少し薄れていた。
「おい、そんな所に立ってねぇでコッチ来いよ!」
 観覧席の最前列にいた宍戸が呼ばれ、日吉は急いで階段を降りた。息を上げている日吉に、宍戸はボールを差し出した。
「次は俺の番だったけど、お前に譲ってやるぜ」
 左手にボールを握らせて、宍戸がニカッと笑った。
「…ありがとうございます」
「ハハッ、今日は皮肉らなねえんだな」
「宍戸さん。この間は殴って、すみませんでした」
「気にすんな。ほら、行けよ!」
 宍戸に背中を強く叩かれて、日吉は前のめる。
「頑張って、日吉」
「頑張って、下さい」
「負けるのも勉強や」
「俺のカタキを討て!」
「楽Cんでね日吉!」
 レギュラーメンバーに次々と肩や背中を叩かれて、日吉はコートの中へ押し出された。
「オラー、声出せー!勝つのは氷帝!勝つのは日吉!」
「勝つのは氷帝!勝つのは跡部!」
 宍戸の音頭でコールが始まり、日吉はネットを挟んで跡部と向かい合った。
「逃げるのは、もういいのか?」
 差し出された手に、日吉は熱く汗ばんだ手で強く握り返す。
 試合後でもまだ漂うローズの香りに軽い目眩がしたが、狂わされたり踊らされたりする気は、もう無い。
「十分です。あの時は、すみませんでした。いまの俺は、跡部さんの足元にも及びません…あなたに触る資格も無かった」
「認めるんだな。素直じゃねぇの」
「完敗です。だから今は、追いかけます。どこまでも…地の果てまでも」
「アーン?だったら俺から目を離すんじゃねえぞ、一秒もな」
 手を離して、跡部はコートの真ん中付近に、日吉はサービスをするためラインの外に出た。
「勝つのは日吉!」
「勝つのは跡部!」
 高まる応援を背負って、日吉はさっきと同じくらい気持ちの良いサービスショットを放つ。しかし跡部はそれを難なく返し、激しいラリーの打ち合いが続く。
 日吉は自分を覆っていた固い殻が、跡部のボールを追いかけて走る度に内側から溶けて、それを打ち返す度にボロボロと剥がれ落ちる感じがした。
 ボールを通じて与えられる跡部の思いに気付いた日吉は、孵化したばかりの雛のようにボールを、跡部をいつまでも追いかけ続ける。
 やがて跡部の一瞬の隙をついて決まった渾身のスマッシュに、日吉は大きくガッツポーズをした。若獅子の咆哮が、テニスコートに響き渡る。




【end】

【11/100】柔らかい殻より。
「憧憬以下」の続きになります。
日吉と跡部を試合させたくなるのは、日吉のいう下剋上を達成させてあげたいからですねきっと。頑張って日吉!おばちゃん応援してるから!





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -