透明な迷路の入口

 目を真ん丸くした俺を見下ろして、海堂はばつが悪そうに身を引いた。
「…悪い。忘れろ」
 床に置いてあったジャケットを拾って着ると、足音を立てながら離れていく。
 部屋のドアを開けて、小さな玄関で靴を履き、ガシャンとスチール製のドアが閉まる音の余韻が無くなるまで、俺は身動き一つ取れなかった。
 アパートの廊下を歩く海堂の足音さえも聞こえなくなった時、俺はようやく声を出した。
「忘れろ、って?」

 全ては夢の中の出来事だったのかもしれない。
 実際、目を覚ますまで俺は夢の中にどっぷりと浸かっていた。色も音もほとんどなく、ひどく味気なかった。風邪薬の副作用で導眠されたものだから、仕方ないだろうが。
 一昨日の夜からこじらせた風邪は、昨日峠を迎えた。寝る前から頭痛と眩暈がひどく、長時間の睡眠も儘にならなかった。外が薄明るくなってきた頃、尿意をもよおして行ったトイレで嘔吐した。彼女と一緒に行ったファミレスで食べた苺クレープの苺が、血の味に似ていると思った。
 調味料以外で唯一冷蔵庫に入っているペトボトルのお茶を飲んで、再びベッドに戻った。継続的な小規模地震に襲われている自分の部屋で、外が完全に明るくなるのをじっと待った。
 そして朝のワイドショーが始まる頃、俺は彼女のマリちゃんに電話をかけた。
「もしもし、俺だけど」
『なーに朝から?忙しいんだけど』
 今日は1限目から講義のある彼女は、あからさまに不機嫌な声で電話に出た。
「あのさ、昨日やっぱり風邪こじらせたっぽくて、マジ動けなくなった。悪いけど、風邪薬とか買って持って来てくれねえ?すぐにじゃなくてもいいから」
『えー』
 面倒臭い、という言葉を辛うじて飲み込んでいる彼女に、俺は懇願した。
「いや、ほんとマジで頼むって。俺死んじゃう!神様仏様マリ様ー!!」
『もー、仕方ないなー』
 しぶしぶといった感じで承諾してくれた彼女は、昼過ぎに俺の部屋に来てくれることになった。

 今年の春に青学の大学部へ進学し、9畳ワンルームで1人暮らしを始め
て半年。
 バイト先で彼女が出来た甲斐あって、学費と家賃以外は親に頼らなくても暮らしていけるようにはなった。でも、こうして風邪をひいたときなんかは、やっぱり母ちゃんの看護が恋しくなる。
 昔から俺が風邪をひいたら、母ちゃんは冷たい麦茶を枕元に置いて「蜜柑と林檎とどっちが食べたい?」と必ずきいてきた。
 俺は桃やパイナップルを食べたいときもあったけど、缶詰の蜜柑かヨーグルトに入った林檎しか、常に選択肢はなかった。
 近くのコンビニの袋に入ったそれを、母ちゃんは俺の枕元に置いて「早く良くなりなさいね」と呪文をかけた。
 俺がこっちに来てからは、バイトと彼女と勉強に忙しい毎日を送っていたから、全然家に帰っていなかった。だからといって、ホームシックに掛かった事は一度も無かった。
 でも急に、誰も居ない部屋に閉じ込められたような気分になったその時は、風邪が治ったら母ちゃんの顔を見に家に帰ろう決めた。

***

 自分が幼かった時の夢をうつらうつらと見ていた時、玄関のうるさいチャイムが短く鳴った。
 はっとして時計を見ると、正午から30分過ぎた頃だった。
「は〜い!」
 俺はベッドから起き上がり、フラつきながらも玄関まで歩いてドアの鍵を開けた。
「超待ってたよー!マリちゃー…あ?」
 満面の笑みで可愛い彼女を迎えようとした俺の目の前に、なぜか、仏頂面で目付きの悪い男が立っていた。
「本当に死にかけてんのかよテメエ?」
 中学時代から聞きなれた低い声と、斜に構えたこの態度は間違いなく、俺の永遠のライバル海堂薫のものだった。
「ちょ、なんで海堂なんだよ!俺のマリちゃんをどこにやったんだよ!!」
 期待外れの人物の登場に抗議する俺を、海堂は眉間に皺を寄せて応答した。
「俺はアイダから頼まれて来ただけだ。午後から外来語Tの追試がある事を忘れていたから、代わりに桃城の家に薬を届けてくれって。ほら、これ飲んでさっさと治せ。じゃあな」
 海堂は早口に用件を言うと、左手に持っていた薬局の小さなレジ袋を俺の手に持たせた。その時に俺は、海堂の冷えた指先と、右手に持たれたスーパーのレジ袋が気になって海堂の手を掴んだ。
「ちょっと待てよ、もう帰るのか?」
「用は済ませた」
「その右手の袋は?何買ってきたんだよ?」
「これは、別に何でもねえよ。お前に関係無い」
「なあ、食べ物とかその中に入ってない?俺ん家の冷蔵庫の中、いまお茶しか入ってなくて、何も食う物ないんだよ」
「…仕方ねえな。じゃあ食わせてやるよ」
「へへっ、サンキュー海堂」
 思った通り。海堂の家は大学のキャンパス近いので、今もそこから通学をしている。だからわざわざスーパーに行って、食料品を買う必要のない奴なのだ。
 俺は彼女に向けるのとは違った笑みを海堂に向けて、孤独に包まれていた部屋に奴を招いた。
「汚ねえ部屋」
 床に置いたままのコンビニの弁当箱や雑誌を跨ぎながら、海堂は部屋に入ってきた。
「3日ぐらいマリちゃん来てないからなーまあ我慢してくれって」
「掃除くらい自分でしろ」
「へいへい」
 俺がローテーブルの前に海堂が座れる分くらいのスペースを作っていると、海堂が後ろから「何してんだよ」と言ってきた。
「何って、お前の座る所を…」
「んなのいらねえよ。さっさと寝ろ」
 海堂は屈んでいた俺の尻に蹴りを入れて、右手の袋を床に置いた。
「葡萄とアロエ、どっちがいい?」
「はあ?」
「どっちがいいか聞いてんだよ」
 海堂はガサガサとレジ袋を探ると、そこから葡萄ゼリーとアロエヨーグルトがスプーン付きで出てきた。
「飯作ってる間に食ってろ」
「どっちかだけ?」
「両方食ったら、飯が食えなくなるだろ」
「えー?食えるぜー全然余裕ー」
「じゃあ残した方をデザートで食え」
 フン、と言って、海堂は袋を引っさげシンクの前に立った。俺はそれらを両手にとって悩んだ末、ヨーグルトを先に食べて、ゼリーはデザートにしようと思った。
 昼ごはんを済ませていなかった海堂と一緒に、海堂お手製の中華風粥と春雨サラダを食べた。デザートにさっきのゼリーと、ひと房毎に食べやすく切られたオレンジを1個食べて、市販の風邪薬を2錠飲んだ。
「思ったよりうまかったぜ」
「ふん」
 料理を褒められても嬉しくないのか、もしくは照れているのか。海堂は俺と目を合わさずに、食器を片付けるため立ち上がった。
「そういえば、熱は測ったのかよ?」
「測ってない。てか、体温計ここに無いし」
「どこにあるんだよ?」
「実家の救急箱の中」
「そうか」
 テーブルを拭く為にわざわざ布巾を持ってきた海堂が、俺の額にそっと手を当てた。それから同じ手を自分の額にも当てた。
「…ある、っぽいな。解熱剤も必要か?」
「いや、風邪薬だけで平気じゃねえ?」
「ウチの弟がこの前風邪ひいた時に、病院でもらった頓服が残ってたはずだから、一応持ってくる」
「別にいいって、そこまでしなくても」
「ダメだろ」
「大丈夫だって」
「死ぬぞコラ?」
「死なねえよバーカ」
 俺たちはしばらく相手の顔を睨み合ったが、俺はプッと笑い出してしまった。海堂が本当に俺の事を心配してくれているので、なんだか嬉しくなったのだ。
 洗い物が終わった後、俺はついでに溜まっていた洗濯物の洗濯も頼んだ。あと海堂の希望により、部屋の中の散らかったゴミを片付けてもらった。俺はわりと平気だけど、海堂は床に物が置いてある状態が好きではないらしい。
 そういえば中学の時に何回か、テニス部仲間で海堂の家に遊びに行った事があったけど、仲間内では一番綺麗で広くてイイ家だったことを思い出した。
 そうだ。中学の時、俺たちは今よりも仲が良かった。喧嘩ばかりしていたけど、お互いを理解しているという意味では。
 互いを永遠のライバルと名付けたのも、あの頃だった。
 でも高校に進学して、俺がバイトを始めて部活を辞めた時から、俺と海堂の接点は何も無くなった。中高大と同じ学校に通っているにも関わらず、俺たちが同じクラスになったことは一度も無かったから。
 今も、たまたま彼女が海堂と同じ専攻だから相手の存在は知っているが、学校ですれ違うことさえ滅多に無い。俺が中学の昔話をする時に、どうしても海堂の存在が必要だから彼女に教えた事はあったけど…看病を代理してもらえるほど仲が良いとは言った覚えは、どこにも無かった。
 海堂も海堂だ。ずいぶん昔のよしみで、よく俺の家まで来て看病してくれたもんだ。
 俺の彼女に、自分の代わりに俺の看病へ行ってくれと頼まれた時、驚いただろうなあ、と俺は思った。「断わる!」くらいは言ったかも知れない。
 でも来てくれた。薬を買って、ご飯を買って。普段乗らない電車に乗って。初めて来るアパートを探して。なんか、それって…
 ふわ〜あ、と大きな欠伸が出た。あれこれ想像しているうちに、眠くなってきたのだ。
 俺は考えるのをすっぱり止めて、ベッドにもぐりこみ、さっさと意識を手離す事にした。その想像の先は、きっと袋小路に繋がっているから。

 しかし目を覚ました時。俺は既に、袋小路の目の前に立っていた。
 海堂がそこへ誘ったのだ。

 唇に残った感触を、俺は自分の指で確かめる。
 これを、忘れろというのか?夢だと思えばいいのか?
 それは、無理だ。
 あまりに現実的過ぎて。
 複雑な感情が、俺の胸中を渦巻いている。単純に嫌悪すればいいのに、相手は海堂だから、俺は嫌だと思っていない。眩暈も頭痛も治まっているので、思考はまともだ。
 なぜ俺は、海堂の行為を怒らないのか。導かれた袋小路を目の前にして、一人で引き返そうとしないのか。
 答えは目前。

 日が沈んで暗くなった部屋で、メールの着信を示す明かりがチカチカと点滅している。それは彼女のマリちゃんからのメールで、今日は自分が行けなくてごめんね、という内容だった。
 俺は返信ボタンを押して、彼女にメールをした。

『海堂の番号かメルアド、知ってる?』

 再び孤独に包まれている部屋へ、来てほしいのは彼女じゃなかった。


【end】

【再録】風邪ネタでした。大学生の桃海もいいね!

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