19.四畳半 はじめまして、 ありがとう 約8時間の陣痛に耐え出産した私は、産後処置をされた後、一人だけ個室へ運ばれた。 「赤ちゃんは色々検査があるので、後でお部屋に連れて来ますね」 優しく微笑む助産師さんに、私は力無く笑い返した。 出産予定日より一日早く来た陣痛は、30分に1度の間隔から順調に10分に1度と短くなっていった。 1週間前の定期検診日では赤ちゃんはもう下がってきていて、推定体重も十分だからいつ産まれてきても良い、と先生に言われていた。 なので先週から、一日20分のウォーキングを30分に増やし、トイレ掃除に床拭き、階段昇降、骨盤ストレッチなど、良いお産になるための努力は色々行ってきた。 そのおかげか、初産だったが陣痛も短く、大きなトラブルに見舞われる事もなく、無事に元気な女の子が産まれた。 赤くふにゃふにゃな身体の真ん中に、お腹の中で自分と繋がっていた証が付いている、娘。 十月十日の日々を経てようやく対面できる我が子に、初めてかける言葉を私はずっと考えてきた。 「好美、入るよー」 夫の博志が、ビデオカメラを片手に部屋に入ってきた。 「赤ちゃん、うまく撮れた?」 「うん。ちゃんと撮れたよ」 「見せて」 博志は液晶を回転させ、私が見易い位置にカメラを持ってきて、再生ボタンを押した。 産声と共に、助産師さんの両手に持ち上げられた赤ちゃんがアップで映る。 そして赤ちゃんは私の目の前に運ばれて、汗だくで疲れきった私が小さく口を動かした。 『はじめまして』 「違うの〜私が言いたかった言葉は、これじゃなかったの〜もっと感動的なのを考えてたのにぃ〜」 「どんなの?」 「『私達のところに来てくれてありがとうマイベビちゃん☆』とか、『やっと会えたね、待ち遠しかったよ私の天使ちゃん☆』とか…」 「いいじゃん『はじめまして』で。あんだけ喚いて気張った後に、そんな長い言葉は言えなかっただろ?」 「そうだけど…せめて『ありがとう』にしたかったな〜『はじめまして』って、なんか他人行儀じゃない?」 「実際に初対面なんだから、合ってるだろ。俺も好美につられて、赤ちゃんに『はじめまして』って言ったよ。はじめまして。あなたのお父さんです。どうぞよろしくお願いします」 「すっごく他人行儀」 「きっと挨拶がしっかり出来る、礼儀正しい子になるよ」 「そうかな〜」 「いいから、喋ってないで少し休め。お疲れ様、お母さん」 博志の大きな手が、私の頭を優しく撫でる。 まだ全く実感が湧いてないけど、博志は今日から父親になり、私は母親になったのだ。 赤ちゃんがまだ来ていない、この四畳半くらいの小さな個室が、私達が夫婦だけでいられる最後の空間なんだなーと、私は思った。 「博志、ありがとう」 「ん?なんで?」 「なんとなく」 「そうか。好美も、ありがとう」 「うん」 もう少しするとここに、助産師さんが私達の赤ちゃんを連れて来てくれる。 それまで私達は話をしながら、ずっと手を繋いでいた。 【end】 〔次へ〕 (2013/01/25) 出産は色んな事が超越してました。 〔前へ〕 |