キャンパスと絵の具のIF
一日が、すごく長い。
アリババ君が僕らの前から消えてしまってからの日々は、たとえどんな晴天の日だとしても心から笑える日はなかった。だから――、僕は行こうと思う。
理由をつけてモルさんと別にした部屋をこっそりと抜け出して暗くなった通路を歩く。黙っていくことをモルさんは怒るかな。うん。きっと怒ると思う。でも、これは僕の独断で、とても危険なことで、シンドバッドおじさん達にも反対されていることだから。やっぱり、モルさんを連れて行くことはできない。
――もしかしたら、僕はモルさんに反対されることが怖かったのかもしれない。
通路の突きあたりを曲がってそこに佇んでいた姿を見つけて、そう思った。
「モルさん……」
「止めても、アラジンは行くのでしょうね」
「うん。ごめんね。僕も危険だと思うし、みんなが反対するのはわかるんだ。白龍お兄さんや紅玉お姉さんのことを信じているんだけれど、じっとしてるだけなんて僕には、できない」
見逃してくれるとは思っていないけれど、頭を下げたのはせめてもの謝意だ。心配かけてるのはわかっている。間違った選択かもしれない。ずっと考えていたんだ。僕はどうしたら良いのか、どうしたら良かったのかって。でも、悩んでいても答えなんか出ないんだ。間違っている道かどうかも、実際に歩いた先じゃないと正解なんてわからない。
だから、僕は行こうと思ったんだ。
「頭を下げないでください。――私も、行きます。いえ、一緒に連れていってください」
顔を上げれば、月明かりに照らされているモルジアナが微笑んでいた。
――そうか、モルさんも同じ気持ちなんだ。
僕もつられて笑った。ターバンを広げて空を飛ぶ。今度はここにアリババ君をのせて、またここに帰ってこよう。
きっとみんなは僕らのことをすごく怒るかもしれないけれど、その時はきっと笑ってくれるだろうから。
アリババ君を見かけたのは本当に偶然だった。まさか彼が街中を一人で歩いているなんて思ってもいなかったから目を疑ったよ。すれ違ったのは一瞬、振り返れば人の目を引く小麦色の髪が人の雑踏に紛れて見えなくなるのがわかった。
「……モルさん、今のって」
「間違いありません」
頷くや否やひょいと僕はモルさんに抱えられた。モルさんは僕を抱えたまま雑踏を建物と建物の間のわき道へと逃れて、そのまま跳躍して屋根の上にあっという間に登った。僕は街の雑踏に目を凝らしたけれど、彼の姿を見つけることはできなかった。ちらりと、モルさんを見上げた。モルさんの目は人の波には向けられていなかった。人の姿を見ることができない、幾つもある建物のうち一つを迷いなく視線を向けていた。
「大丈夫です。すぐに見つかります」
「うん」
アリババ君が姿をくらます時、すぐにモルさんは彼を見つけてしまう。それが少しだけ羨ましかった。
屋根から屋根に跳び移って、視界がめまぐるしく変わっていく。そして、すぐに誰もいない袋小路に歩いて行くアリババ君を見つけた。
「誰だ? つけてんだろ。何の用だ」
モルさんが僕の顔を見たから、小さく頷いた。
どことなく呟いたアリババ君の前に僕達は降り立った。イスナーンと一緒に行くのを止められなかった彼が目の前にいる。黒い服をきている。服は煌帝国ので違和感を感じたけど、確かに目の前にいるのはアリババ君だ。小麦色の髪と蜂蜜色の瞳。別れる以前と雰囲気はあまり変わってないようだ。けれども、彼の周りを飛んでいるのは黒いルフだった。
「アリババ君」
「アリババさん」
緊張しながら僕達は彼の名前を読んだ。堕転した直後のアリババ君を思い返して、戦うことになるかもしれないと思いながら。けれども、名前を呼んだ後のアリババ君の反応は僕達が想像していたモノと全く違った。
「ん? お前ら、俺を知ってるのか?」
「――え?」
一瞬、アリババ君が何を言っているのかわからなかった。それは隣にいるモルさんも同じみたいだった。
「何を、言っているのですか」
「赤い髪の――ファナリスの女に、その杖を見たところチビは魔導士か……。それに異国の服。もしかして、お前がアラジン? それに、モルジアナ、か?」
「アリババ、君?」
――何を、言っているんだろう。
「そう、ですが……」
「何を言っているんだい、アリババ君。まさか、僕らのこと忘れちゃったんじゃないよね?」
心臓が早鐘を打っている。だって、アリババ君の僕たちに向ける眼差しがそう語っているようだったから。
「覚えてないな」
――嫌だ。そんなの。
ぐっ、と杖を強く握った。
「……僕達はアリババ君を迎えに来たんだ。絶対に、アル・サーメンから君を取り戻すって」
「お前らがどんなつもりで俺を連れ戻しに来たのかはしらねーけど、俺は帰るつもりはねーよ」
堕転してしまったのだから、連れ帰るのは大変だって思っていた。でも、でもこんなのってないよ。僕との約束も忘れたっていうのかい?
「シンドリアへ戻って下さい。シンドバッドさん達もあなたが帰ってくるのを待っているんです」
モルさんの言葉にも、アリババ君は表情を崩さなかった。
「そいつらのことも俺は知らねえ。こんな遠い所までわざわざ迎えに来てもらって悪いんだけどよ。何を言われても俺はシンドリアには行かないぜ。頼むから帰ってくれよ。今なら他の連中も気付いていねえし、黙って帰るって言うなら俺も手出ししない」
アリババ君は自分の胸にある剣に手をかけなかった。わからなくなる。どうしたらいいのか。
会えばどうにかなるって思っていたんだ。
「そんなこと言われても、僕は君を諦められないよ。忘れたなら思い出して欲しい。僕にはその力がある」
杖を構えて息を整える。そうだ。言われただけで諦めて帰るくらいなら僕達はここに来ていない。だって、何をしても僕達はアリババ君を取り戻すって決めて来たんだから。
バチリッ。と音を立てたのは魔力の防護壁――ボルグだった。顔を上げれば、ボルグにいつの間に抜いたのかアリババ君の剣が目の前にあった。
「……やめろよ。ソロモンの知恵だかしんねーけど、それを使うっていうなら、今ここで殺してやる」
「僕の命をかけてでも君を取り戻したいんだ」
「それは……今の俺を否定して、だよな。お前らが知っていたアリババはもういねえ。堕転した瞬間に消えたんだ。そして、もう元に戻ることはない」
「そんなことない! アリババ君が僕らのことを忘れるものか!!」
「忘れたんだよ! 知らねえし、思い出したくもねえ!!」
「君は……」
アリババ君がこんなこと言うはずがない。忘れたなんて。思い出したくもないなんて。なんでそんなことを言うんだ。僕達の思い出は苦しいだけのモノじゃないのに。
ルフだっていつも彼の周りにあるのは白くてきれいなルフだったんだ。こんな黒くて淀んだ色のルフじゃない。黒いルフを浄化できるのも、良い流れに変えていくのも、アリババ君がやってくれたことだったのに。
「君はアリババ君じゃないっ!!」
一瞬、彼が悲しそうな表情をした。それがどんな意味を持っているのか、僕がわかる前に彼の手にしていた剣はもう一度降り上げられた。
「そうかよ。じゃあ、死ね!!!」
「アラジン!」
剣が目の前に迫っていた。
「アラジン、大丈夫ですか?」
「……うん」
本格的に戦いが始まる前にアリババ君はアモンの炎で目くらましをすると姿を消した。二対一だと不利と判断したのか、ソロモンの知恵を恐れたのかはわからない。
戦うことはわかっていた。敵対して傷つけるような言葉を投げられることも、覚悟していた。
でも、何の感情も向けられず、忘れたと言われるとは思っていなかった。僕がソロモンの知恵を使おうとするまで、アリババ君が僕達に向ける視線には何も感情がなかった。彼にとって僕達は街ですれ違う人と同じような感覚だったんだろう。急にアリババ君が遠くに行ってしまったような気がして、怖かった。
――せっかく会えたのに、どうしてアリババ君を取り戻せなかったんだろう。
「モルさん。失敗、しちゃったね。でも、僕はまだ諦めていないよ」
「私もです。アリババさんはこの国にいます。これからだってチャンスはあるはずです」
顔を見合わせて頷いた。そうだ。僕は一人じゃない。アリババ君を取り戻したいって思っている仲間がいて、一緒に戦っているんだから。
諦めちゃだめだ。
前に進まないと、彼を取り戻さないと。
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